2008-07-06

【週俳6月の俳句を読む】角谷昌子

【週俳6月の俳句を読む】
角谷昌子
作者の術にはまっている



八田木枯 「華」


ぼうたんは崩れ太虚にかこまるる

大輪の牡丹の花は、咲いているときから、危うい均衡を保っている。「ぼうたん」という音から、ゆっくり崩れゆくさまが見えるようだ。「崩れ」るとき、まさに張り詰めていた緊張の糸が切れて、バランスを失い、茎という地軸がずれたようになって大きく傾く。崩れるまでの牡丹は、圧倒的な存在感があるので、私たちはそのまわりの空間を特に意識することはない。だが、崩れてはじめて、牡丹は大気を押し返していたのだったと気づく。「太虚」とは、虚空、大空のこと。中国の後漢から六朝時代にかけて、宇宙生成論の源となった。花が地に崩れたあと、牡丹は「太虚にかこま」れてしまう。打ちひしがれた虜のように。作者もまた、ひしひしと肌身に迫る太虚にたじろいでいるようだ。


白き薔薇剪られ鏡のなかに痴れ

凛と気高く咲く「白き薔薇」は、なにか尊いもの、無垢なものの象徴のように思える。その薔薇が無残にも「剪られ」とあるので、作者にとっては肯定しがたいことが起こったように感じられる。ところが、中七以降の「鏡のなかに痴れ」に、読者は驚かされる。

「剪られ」という喪失感が、一気に「痴れ」という快楽(けらく)へと転換し、耽美的な陰影礼賛への傾斜が垣間見られる。危うさに遊ぶ作者と、谷崎潤一郎の世界の接点を、ここでも見出すことができよう。


白き薔薇の(もがり)のやうに弄ぶ

白薔薇を手囲いにして、眺めているさまを思い浮かべる。ここでは、「白き薔薇」は、聖性をまとった乙女のイメージである。「殯(もがり)のやうに」なので、その死を悼みつつ、まだ手元に白い肉体とともに、魂もとどまっている状態である。しんとした厳粛なシーンを思ったとたん、下五の「弄ぶ」で、また読者の予想は裏切られる。はっとなった読者は、もう作者の術にはまっているのである。


空井戸をのぞき渓蓀となつてゐる

木枯俳句には、本意を超えたさまざまな季語が登場し、それぞれが特別な象徴性を抱いている。この「渓蓀」もその一つである。過去の句集では、生々しい肉体を持った母の象徴でもあったが、句集『夜さり』あたりからは、肉体を脱ぎ捨てた母のエッセンスとしての「渓蓀」であるようにも思える。この句では、普遍的な「母」が、「空井戸」の縁から深遠なる輪廻をのぞきこみ、「渓蓀」となっている。木枯俳句の不思議の世界である。

木枯作品は、幾層もの鏡の迷宮になっており、違うものがふと見えてしまう怖さがある。





齋藤朝比古 「縫目」


仙人掌の花押し出してゐたりけり

棘だらけでごつごつした「仙人掌」が咲かす花は、可憐で、その美しさがかえって気の毒なほどに思えてしまう。無骨な表面を突き破り、ふと本音の優しさが出てきてしまったような違和感が、私にとっては、どうしてもある花なのだ。

この句の「花押し出して」には、花の咲く唐突さがよく表れている。だが、私の仙人掌の花のイメージに比べ、作者の捉えた花は、もっと力強く、生命力に溢れている。きっと原色に近い花の色なので、自己主張のように作者には感じられたからに違いない。


硬球の縫目のごとき百足虫かな

「百足虫」のうごめくさまを見ながら、背中まで痒くなってきたことがあったが、なるほど「硬球の縫目のごとき」とは、面白い比喩を思い浮かべたなあ、と感心してしまう。

たしかに、あの「縫目」を見ていると、ムズムズしてくる。


敵味方入り乱れたるシャワーかな

ロッカールームは別でも、シャワー室が一緒で、試合の終わったあとの「敵味方」が大声を上げながら水を浴びている。ここでは、先ほどの勝負の結果や、こだわりもなく、それこそ「水に流して」というところ。さりげなく面白い光景が描写されている。


ががんぼの吹かれて自由とは違ふ

「ががんぼ」は、止まっているとき、いつでもわなないている。長くて細い脚がぎくしゃくとなんだかぎこちない。風に吹かれて、ふんわり飛んでいるところを見ても、決してががんぼの「自在境」ではない。どことなく不器用さがただよう。「自由とは違う」という作者のちょっとシニカルなまなざしに、はっとなる。





佐藤文香 「標本空間」


兄からは水晶もらふ夏の風邪

文香俳句は、いずれも硬質の抒情がただよう。

「夏風邪」は、なかなか抜けないといわれるが、微熱が続き、寝込むほどではないが、手足がだるく、重かったりする。磨き上げられた「水晶」を、てのひらに包み込んだら、さぞかしひんやりとして気持ちよさそうだ。そして、その水晶をのぞきこむと、なにやら映りそう。ぼんやりとした頭で見つめる水晶には、過去・現在・未来のどんな景が浮かびあがるのだろう。また、この水晶をくれる「兄」は、永遠に少年のままのような気がする。


シトロンに手帳の路線図がうつる

黄色く澄んだ「シトロン」ならば、細かな「路線図」さえも鏡のように映りそう。ただし、この路線図、作者を異次元に誘い込んでしまいそうだ。


明易や吊れば滴るネガフィルム

暗室の中で現像液に漬けられた「ネガフィルム」を引き上げ、部屋に渡した紐に吊れば、ポタポタと滴る。夜を徹してそんな作業をしていたので、もういつのまにか夜明けがやってきていた。暗室の中では、いつも闇が君臨していて、昼夜の隔ては無い。熱中していた作業の様子とともに、暗室の外の明るさと、内の暗さの対比が際立ち、不思議な雰囲気のにじむ句となった。


八月や水面は岸に切りとられ

「八月」というと、つい自動的に終戦や原爆忌を思ってしまう。「岸に切りとられ」た「水面」からは、動かせない運命のようなものまで感じさせられる。

季節が夏から秋へかたむく水辺の景色として、叙情的に捉えても、どこか魅かれる句である。





望月哲土「草」


夏の草逃亡の時見失う

2通りの解釈ができると思う。一つは、夏草の中に逃亡者がひそみ、ターゲットの様子をうかがっていた。だが、その対象を「見失」ってしまった。もう一つは、夏草の草いきれに圧倒されたように、「逃亡の時」、すなわち逃げるのに格好な機会を失ってしまった。

後者として鑑賞すると、うっそうと茂る夏草の勢いに気おされて、せっかくのチャンスを逃した。何から逃げようとしたのか、何処へ行こうとしたのか。だが、逃してしまった今となっては、囚われの身として、心悩ますばかりなのである。いろいろ想像のふくらむ句。


瑠璃蜥蜴草葉の陰を出入りする

「草葉の陰」というので、写生句がとたんに重層的な意味を帯びてきた。「瑠璃蜥蜴」は、あたかも黄泉の国とこの世とを自由に往来しているようでもある。瑠璃色の鋭利な刃のような蜥蜴ならではの連想が広がる。





榊倫代「犬がゐる」


形代の回覧板で回りけり

ご近所を巡る回覧板に、「形代」もはさまって、ほかのご町内のチラシとともに回っている。きっと神社の形代流しに、ご参加下さいなどというメッセージも添えられていたのだろう。いまどきの行事のありかたに、ちょっと皮肉な視線をとどめた、諧謔味のある句だ。


夏水仙包む誤爆の記事濡れて
時事句を作るのは、ほんとうに難しいと思う。下手するとスローガンになってしまうし、時が流れると、作者の真意も伝わらなくなってしまう。

なにかの事件の記事が載った新聞紙で、筍や野菜をくるんだ、などという句はよく見るのだが、「記事濡れて」で、句になったのだと思う。


ソラマメのやうに足指天瓜粉
一読、楽しい句。赤ちゃんのぷくっとした足指を思い浮かべる。体中に「天瓜粉」をはたかれ、そのへんに転がって、にこにこと機嫌よくしている。「ソラマメのやう」から、健康な赤ん坊の肢体と笑顔まで見えてくる。





大野朱香「来し方」


蟻一匹やがてぞろぞろ柱より

電信柱などでなく、床柱、大黒柱などを思い描くと、とたんに怖い句になる。座敷に居て、おや、蟻が一匹這っているぞ、と思いつまみ上げたところ、「やがてぞろぞろ」柱から列をなして黒い流れがあふれ出してくる。いつの間にか柱の中は空洞になっていて、蟻の巣が広がっており、節目から蟻たちが這い出してきたのだ。シュールな光景は、ふとダリの偏執的な絵画さえ思いおこさせる。


来し方の暮るるや小屋の夏燈

山小屋の夜はひっそりとしている。疲れた登山家は、もう小屋の隅で寝息を立てている。ひんやりと点っている「夏燈」に目をやりながら、作者は「来し方」を思っている。それは、今日たどってきた道筋でもあり、自分のこれまでの人生のことかもしれない。「来し方の暮るるや」なので、実際に歩いてきた山の道程と過去の時間や事柄が重なり合い、闇に傾いてゆく。まもなく作者も、ウトウトとしだすのだろう。



八田木枯「華」10句 →読む
佐藤文香 「標本空間」10句  →読む
齋藤朝比古 「縫 目」10句  →読む
望月哲土 「草」10句  →読む
大野朱香 「来し方」 10句 →読む
榊 倫代 「犬がゐる 10句 →読む

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