2008-07-13

【週俳6月の俳句を読む】田中亜美

【週俳6月の俳句を読む】
田中亜美
上書き保存のように漂い流れながら



あやめ咲ききつて古鏡となりにけり   八田木枯

空井戸をのぞき渓蓀なつてゐる

「華」と題された一連の作品には、ぼうたんや薔薇の句もあるが、終わりにおかれた「あやめ」の二句に、とりわけ魅かれた。

深い青紫や白色の花をつけるアヤメの花は、杜若や菖蒲の花によく似ている。「いずれアヤメかカキツバタ」ではないが、実際、「あやめ祭り」といっても、咲いているのは、菖蒲だったり杜若だったりすることもあるらしい。大きな違いは、杜若や菖蒲が水辺に咲くのに対して、アヤメは、草原などの乾燥した土地に咲く花であるということだという。もっとも、「あやめ Ayame」という言葉の響きは、五月から六月の、水気をたっぷりふくんだ、薄暗い、少し重い空気と、親和性があるような気がする。(むしろ「杜若 Kakitsubata」という乾いた語感の方が、よほど乾燥した土地に咲く花に、ふさわしいのではないか)。紛らわしいのは、仕方がないのかもしれない。

この句の面白さは、アヤメの花をめぐるそうした揺らぎを、平仮名の「あやめ」と、漢字の「渓蓀」で表記している点だ。「あやめ」と表記されるとたおやかで、少し湿度を帯びた感じがある。それが、古来は呪術的にも用いられたという古鏡のイメージと響きあい、翳りを帯びた、神秘的な世界を創り出している。

それに対し、空井戸の「渓蓀」は、からっと乾いた、物質的な感じ。白昼の印象がある。

花そのものの実体がある。そして、言葉によって紡ぎだされる、現象的な花がある。

「あやめ」は花の実体であり、「渓蓀」はこの花の現象とかさなりあう、作者の存在を想像させる。「なりにけり」「なつてゐる」の措辞の微妙な差異も、とても素敵だ。

花のあいだを自在に往還しながら、「華」という独自の時空を、作者は生み出している。


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硬球の縫目のごとき百足虫かな   齋藤朝比古

むちうちのやうな首もて扇風機


機知(ウィット)の句である。既存の意味を、くるんと反転させているのが、面白い。

第一句目。硬球の縫い目を見て、百足虫のようだと思うのは、よくある発想だ。ところが、作者の視点は、百足虫に向けられている。うねうね動くこの生きものの方が、硬球の縫目という静止した像に、収斂されている。逆転の発想が、実にシュールだ。

第二句目。最近は、ますます首を振る扇風機が、増えた。彼らは目を合わせるのも気の毒なほど、首を振っている。

平成のスピードにむりやりあわせた、昭和の家電なのだろうか。

ペーソスとしては別の味わいだが、<縦よりも横に長くて泉なり>も可笑しかった。


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雪の日のやうな朝日が紫陽花に   佐藤文香

ひた並ぶ昼の街灯あげはてふ

第一句。紫陽花にかかる朝日を、「雪の日のやうな」と見立てているところ。繊細な感覚が通っていると思う。雨の日はもちろんのこと、明け方や黄昏の薄暗い光源こそ、紫陽花によく似合うものだ。「雪」という、時空(季節)の上では離れたものを、ふっと持ってきたのもいい。雪の日の清新な呼吸まで、伝わってくるようで、涼やかな情趣が生まれている。

第二句。静かなモノクロ映画を観ているような味わいがある。「ひた並ぶ」「昼の」のhi音の頭韻が、夏の昼どきの気だるい、蒸したような空気を伝えている。昼の月もそうだが、昼の街灯という存在は、もっとも心もとない感じがする。それを「ひた並ぶ」と、やや思い入れをこめて擬人化させるところに、作者の心象が見えてくるような気もする。

明易や吊れば滴るネガフィルム>という句もあるが、ちょっと不思議な仕方で、世界を感光させて、定着させている作者と思う。

ところで、「標本空間」というタイトルを、私は最初、無意識のうちに「漂本空間」と読んでいた。というのも、作品全体から何ともいえない、流浪の感触が伝わってきたからだ。

「標本」とは、「生物学、医学、鉱物学などで研究用または教育用とするため、個体またはその一部に適当な処理をほどこして保存したもの」(広辞苑より。傍点部筆者)である。それは一言でいえば、保存の欲求の産物である。 

このことを敷衍させていうならば、十七音という限られた器のなかに、言葉を盛りこむ俳句という形式、そもそも、言葉を発するというそのこと自体もまた、保存への志向性を孕んだ、「ヒョウホン」的空間なのかもしれない。

だがしかし、この作者の言葉の使い方は、―たとえば、パソコン上の<名前をつけて保存>のように―がっちりと「標(しる)す」というものではないのではないか。

保存ということ。生存ということ。まるで<上書き保存>のように、「漂い」流れながら、運動そのものを「標して」いる。そんな気がする。

「標本空間」。―魅惑的なタイトルである。




砂粒の光り出したる水着かな   榊 倫代

照り付ける太陽、潮風の匂い。子ども時代の海水浴の情景を、思い出した。焦点のぴたりと合った、気持ちのいい句だ。一抹の郷愁感も感じる。

「水着」には、<水着脱ぐにも音楽の要る若者たち 横山白虹>、<身にひしと乙女の頃の水着着る 赤松蕙子>など、その年代ならではの発見に満ちた句が多い。この句の場合は、小さい子どもの、小さな水着のような気がした。だからこそ、砂粒というごく小さなものが、自然にクローズアップされてくるのではないか、と。

全体の作品のなかには、<とんと背をたたき夏野へ子を放つ>などの分かりやすい吾子俳句もあるが、掲句の方に、よりつよく、母親の視点を感じた。

懐かしい、原風景に出会えるような喜び。吾子俳句を読む楽しさのひとつである。

夏休みが、待ち遠しい。



八田木枯「華」10句 →読む
佐藤文香 「標本空間」10句  →読む
齋藤朝比古 「縫 目」10句  →読む
望月哲土 「草」10句  →読む
大野朱香 「来し方」 10句 →読む
榊 倫代 「犬がゐる 10句 →読む

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