2008-07-13

【週俳6月の俳句を読む】鈴木茂雄

【週俳6月の俳句を読む】
鈴木茂雄
ゴムでもプラスチックでもなく



ぼうたんの崩るるときや全て見ゆ  八田木枯

この作品の「ぼうたん」は白牡丹だろう。「ぼうたん」が咲き、「ぼうたん」と「ぼうたん」が咲き競い、そしていま「ぼうたん」がその盛りを過ぎようとしている。この句は、その「ぼうたん」が「ぼうたん」としての花の形が定まり、ひとつのまとまった群れを形づくり、その形が一定の期間のあいだ安定していたものが、まるで引力を失ったかのように、あるいは何かの力によって支えられていたものが、あるときふいに力をを失って、「ぼうたん」がその美しい花の形を突如として失う、まさにその一瞬を詠んだものである。廃墟は「全て」を物語る。力強い写生の句というのはこういう作品のことを言うのだろう。つまり、下の句「全て見ゆ」に示した俳句的把握は実景よりさらに鮮明に「ぼうたん」のある風景を読者ひとりひとりの脳裡に刻み、そしてその想像力を刺激する。「崩るる」の一語に示した眼の確かさも指摘しておきたい。


硬球の縫目のごとき百足虫かな  齋藤朝比古

齋藤朝比古氏の作品もまた見事な写生句である。写生の対象であるこの「百足虫(ムカデ)」の異様なその風貌や色・形には触れず、いきなり「硬球の縫目」とはまさに言い得て妙な作者実感の感覚的な把握と、「ごとき」に示した直感的な比喩の表現力は見事というほかはない。ゴムでもプラスチックでもなく、皮革ともまた違う「百足虫」のあの質感と多足体のイメージを「硬球の縫目」と譬えたのである。そう言われると、リアルにひびくのはあのムカデの特徴をより具体的なイメージとして読者に提示したからではない。読者であるわたしの脳裡に鮮やかにしかもリアルな質感を持って喚起されるのは、「硬球の縫目」というおよそこの虫の形態とか色彩とは懸け離れた意表を突くこの表現の新鮮さが、読み手であるわたしの脳裡を刺激して、いかにもあのムカデのムカデたる全身像を思い描かせるのである。比喩は言語表現、とくに詩における修辞的技法の一方法であるが、俳句では「如し俳句」と言われ、俳句をよく知っている人は隠喩はさておき直喩は余程の自信がないと使わない。使っても失敗するのが落ちだとわかっているからである。


敵味方入り乱れたるシャワーかな  齋藤朝比古

この句は、ついさっきまで文字通り「敵味方」に分かれて戦った選手たちが同じシャワー室にいる光景を活写したものだが、「(まるで)敵味方入り乱れたる」ごとくに「シャワー」を使っているというこの表現の巧みさが、さらにシャワー室の混雑ぶりと若さ漲る熱気が実景よりさらに鮮明に浮かび上がらせるのに成功している。


峰雲の縁よりだらしなくなりぬ  齋藤朝比古

これは「峰雲」が崩れていく様を描いたものである。その様子がまるでTシャツの首まわりが「だらしなく」なったようだと言う。自分が着ているTシャツの首まわりと遠方の雲の峰との対比。一読、Tシャツを頭からかぶったその瞬間、Tシャツの触感からむくむくと湧き上がる「峰雲」を想起、再読、「峰雲の縁より」Tシャツの首まわりのやうに「だらしなく」崩れていく様子がリアルな触感をともなって読者の脳裡を刺激する。「むちうちのやうな首もて扇風機」の句の「やうな」もまた然り、一読、あの古くて黒い「扇風機」がガックリと首を垂れ、リアルな重量感をともなってわたしの眼前に現れる。


ソラマメのやうに足指天瓜粉  榊 倫代

この作品は「やうに」の一語が鑑賞のすべてだ。「やうな」とすると陳腐な如し俳句に堕すところだったが、「やうに」とすることによって、かろうじてこの句を詩の領域に踏み止まらせ、かつ「天瓜粉しんじつ吾子は無一物 鷹羽狩行」に見られるような愛くるしい赤子の姿とその仕草を鮮明に読者にも伝えることが出来た。


八田木枯「華」10句 →読む
佐藤文香 「標本空間」10句  →読む
齋藤朝比古 「縫 目」10句  →読む
望月哲土 「草」10句  →読む
大野朱香 「来し方」 10句 →読む
榊 倫代 「犬がゐる 10句 →読む

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