【週俳6月の俳句を読む】
羽田野 令
いちばん美しくあるような組み合わせ
ぼうたんは崩れ太虚にかこまるる 八田木枯
牡丹は大輪の華麗な花だけに、花の終わりは一層無惨である。花びらも何枚か落ちて、縁から茶色っぽくなって崩れている牡丹が、太虚に囲まれているという。
太虚とは日常生活の語彙にない難しい言葉であるが、広辞苑では、おおぞら、虚空、とある。大と太は古代中国では音が同じだったのかどうかは知らないが、日本ではよく大=太として使われている。広辞苑の「2」には北宋時代の概念としての太虚が挙がっているが、語としてはもっと古くからあったのであろう。というのは、日本では上代から「太虚」「大虚」が出てきていているから。それは「おほぞら」と訓読され、現代語訳では「大空」と直して書かれたりする(『日本書紀』講談社学術文庫)。
そんな太虚という言葉が使われていると、単に虚空というよりも、それは時間を越えた原初からある洞のような、永遠であり絶対無であるようなイメージを抱く。咲き誇っていた時の牡丹は、きっとその時の現在の空がまわりにあって輝いていたはずだ。そして花を終えようとしている今、永遠の空(くう)に取り囲まれて、その中の一点として牡丹は潰えていこうとしている。
兄からは水晶もらふ夏の風邪 佐藤文香
登場しているものそれぞれが、他のものとの関係の中でいちばん美しくあるように組み合わせられている、そんな気がする。事物は抒情を出し過ぎないように選ばれているし、それぞれの間の距離はぴたりとゆるぎなく決まっている。兄から妹へ手渡されるのは、透明な鉱物の結晶体。妹である私の病の体の微熱の中にその結晶の光が差す。清らかに澄んだ光である。それは恋人からではなく兄からであるゆえの光だ。
又この句は、いろせ(同母兄)、いろも(同母妹)、という言葉をふと思い出させてくれる。「いろ」というのは複雑なことばで、今の語感からは少し離れる。恋人をせ(兄)、いも(妹)ときょうだい関係の語になぞらえて呼ぶのも、根は同じだと思うが、いろせ、いろもは、ある理想の異性のかたちとして存在したという。千何百年かの遠くのそれの延長線上にこの句を置くことは容易であろう。
正の字の書きかけのT大南風 齋藤朝比古
ああ本当にそうだ。正の字を書く時は、Tって書くんだ。そういうことはちょっと面白い。すごく面白いことではなく、ちょっとである。ごく些細なことだ。それが句になっている。
字の形や書き方のことを句にしたものは結構ある。そういう事がモチーフになるのは、短詩型ならではのことだろう。そう思う時、この詩型もいいなと思う。
■八田木枯「華」10句 →読む
■佐藤文香 「標本空間」10句 →読む
■齋藤朝比古 「縫 目」10句 →読む
■望月哲土 「草」10句 →読む
■大野朱香 「来し方」 10句 →読む
■榊 倫代 「犬がゐる」 10句 →読む
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2008-07-13
【週俳6月の俳句を読む】羽田野 令
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