2008-07-20

冬三日月 ふけとしこさんとの出逢い 麻里伊

〔俳句つながり雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子→麻里伊→ふけとしこ

冬三日月 ふけとしこさんとの出逢い 

麻里伊




目が醒めると、薄暗がりの部屋にいた。早々と、町の起き出すかすかな物音が、夢うつつに聞こえていた。ぼんやりとした目に、ふけさんの姿があった。句帳であろうか何か書き付けていらっしゃる。みなを起こさないように、そっと体を起こしているという風情であった。そこは祇園の、昔はお茶屋だったという小さな宿だった。

俳句の縁とは不思議なものだ。住む場所や活動の場が違っても、こうして、祇園の一夜を過ごすこともあるものだ。人通りのない夜更け、総勢五人の喧しい祇園闊歩。花見小路から見上げた冬三日月に、ふけさんとの嬉しき出逢いの印象を留めた。しかし、せっかくの祇園にも、やはり句会だ。それから食べる、飲む。ふけさんをよく存知あげないままお別れしてしまった。

あれから一年と少し、俳句、エッセイ、写真で構成された、『草あそび』(2008年2月・郁書房)という美しい本が送られて来た。昔を語ったエッセイの中には、同時代あたりの共感する部分がいくつもあり、ふけさんが俄然身近に感じられて来た。

  三月来る葦の根に泡貝に泡

  六月のポプラは風に傾く木

  溺れていてもいい葦原のこの青さ

俳句を始めるきっかけが俳画だったそうで、添えられた植物の素描画に、繊細な観察力を感じる。

  仏の座光の粒が来て泊まる

  子雀に槍や鉄砲や帷子や

  枯れきつて高三郎が呼び止める

  野の草へ露を配りにゆくところ

  ひよんの実の鳴るたびに君若くなる

  種採って百年ほどを眠ろうか


人間にも一人一人大切な名前があるように、小さな草花の名の一つ一つを大切に扱って一句が成されている。しかし、知っているというだけで終わるのではなく、季語としての植物の本意を膨らませ飛躍させ、ふけさんならではの個性ある俳句となって、私達を驚かせ楽しませてくれる。

  春昼のわれを包むに足りる紙

包装紙であろうか、開くと意外にも大きかった紙が居場所を占領することがある。その大きさを「われを包む」と言ったところから、「われ」と「紙」とが、同次元に存在を果たす。「春昼」がこの物言いを大袈裟にもし、ぐっとリアル感を持たせてもいる。繊細な描写の句群の中に、時折あらわれるこの大胆さ。かといって面喰らうわけでもない。あの祇園の朝、夜明けの窓のうす明かりに向かい、ぬっと座したふけさんのシルエットを思い出した。

  鎌の刃も菖蒲も雫してをりぬ

  薔薇を見てゐて欲しくなるシャーベット

  夏果てや胸打つ草を胸で分け
  わたくしの分量のこれ花吹雪

俳句を感受した後に、印象鮮明な写真が現れ、前の一句を増幅させる。また、その写真のイメージが次の俳句によって拡がって行く。

  おとうとをトマト畑に忘れきし  「伝言」

忘れて来たと言い、弟なんか知ーらないっと! というところか。ちょっと心配になったところに、何くわぬ顔で帰ってくるのも弟なのだ。私も弟と二つ違い。弟は私よりずっと弱かった。…なのに、大きくなるにつれ、いつの間にか力が拮抗してくる。姉や妹、兄にはない、身近なライバル関係と言うべきか。

『草あそび』は、そんな弟さんの写真と俳句のコラボレーションである。ありがちな身内との馴れ合った共演に陥ることなく、火花を散らしあいながらの、素敵な一冊となっている。  




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