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2020-05-31

【2019落選展を読む.5】「私性」と自由 古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む 上田信治

【2019落選展を読む.5】

「私性」と自由

古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む

上田信治



今回は「8.みみづくの散歩」(古川朋子)と「9.花のゆうべ」(丸田洋渡)の2作品を読み、あわせて、高山れおなさんが2019年のベストにあげていた句集、ふけとしこさんの『眠たい羊』についても書きます。

三つの作品を取りあげるのは、それらが俳句に表現される「私性」の現在地点をよく現しているように、思えたからです。



2. 古川朋子「みみづくの散歩」 >>読む

古川さんは「蒼海」(堀本裕樹主宰)所属。第6回星野立子新人賞を受賞。角川俳句賞でも2016年(*1)2017年と一次予選を通過した注目の作家です。 

春の川生きて可笑しなことを言ふ

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

みみづくの散歩はひとの肩の上

室咲やひとりにひとつ長机

初夢に見てにぎやかなお正月

戸を引けば階段のある寒さかな

いちにちは全き青のヒヤシンス

さて。

春の川生きて可笑しなことを言ふ

内容は、人がふつうに生きていて感じるであろう、生への肯定。けれど、この「生きて」は出そうで出ないフレーズで「盆踊人に生まれて手を叩く」(岩淵喜代子)「水無月や地球に生まれ傘をさす」(山本紫黄)のような、人間のどうしようもなさを描いた句を思い出した。つまり、この句は、日常のスケッチのようでとても思弁的で、生のストレートな肯定のようで、かすかに淋しい。

またそれは、単独では成立ぎりぎりの不安定なフレーズなわけだけれど、その不安定さとバランスする「春の川」によって価値が確定している。

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

「けふ日曜の」の調子の良さと「この感じ」の大胆さ。冗語に冗語を重ねることは、日曜日の感じを出すための、認識の引き延ばしであり、また「鯔跳ねて」のあとにしばらくの時間があったことの強調でもある。

ある時間の中の一瞬の偶然が、平板な生の持続に何の影響も与えない(かのように見えて、何かを動かしている)。それは誰もが見たことのある「鯔」がはねるという現象(季語でもある)から析出された、普遍的な何ものかだ。

この季語に対する意識の深さは「春の川」から生命感を浮かび上がらせる繊細な手つきにもあらわれている(擬人法と考えると全く面白くなくなるので、そうは取らない)。

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

室咲やひとりにひとつ長机

「牡丹雪」のやわらかさと終わった季節の名残であることが「かさぶた」に二重写しされること(この取り合わせは、津川絵理子さん的に上手い)。「菫草」の句に、さらりと芭蕉が重ねてあること。海水浴場だろうか、この「山の近」い海が、すでにすばらしく涼しく、それによって「氷水」の価値にさらに繊細なチューニングが加わっていること。「室咲」の句が、習字教室?を思わせつつ暗示にとどめ、物だけを書くことで(季語を場面の一要素に縮小することなく)くっきりとオブジェ化していること。

これらの句、言葉の運用も内容も人を驚かせることが少なくストレートでありながら、複雑なたくらみがしかけられ、立体化がなされている。

そうやって、俳句という小さな詩型のもつインティマシー(親密さ)を大切にしながら、詩として高度なものを作り出していることに、この作者の志向するものが見える。

微量の不自然さを含む語法に見られる新しさへの意志と、季語の扱いに現れる繊細さと複雑性。ここには、いわゆる「平成俳句」の可能性を生きのびさせる方向が現れているのではないかと、わりと本気で思っている。

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

みみづくの散歩はひとの肩の上

初夢に見てにぎやかなお正月

これらの句に現れた「親しさ」「かわいさ」もまた、俳句がまだ攻め尽くしてはいない可能性だろう。こういったものを「かわいい」と感じることを自分に許すことも、また「私性」の俳句への持ち込みである。(*2)

「滝の音すこし歩めば川の音」「しづけさのまま夜に入る野分あと」のような(俳句読者全体との距離を計量するような)常識的な作や「また少し夕日くづれて梨の花」「神さまに輪郭のある涼しさよ」「いきいきとおたまじやくしに蛙の目」のような、面白さはありつつも、ゆるさや強引さを感じる句もある。
 
古川さんには、この際、ご自身が、俳句の最も新しい価値の一部を作りつつあるということに、開き直ってしまわれることを期待したい。



*1 古川さんの2016年作品はこちら 

>>「逃水」

*2 2010年に「ゼロ年代の俳句100句」というミニアンソロジーを作った際「私性=ノーバディな私による「私」語り」という項目を立てたのだけれど、そこには、まだ野口る理さんも福田若之さんも名前がなかったわけです(あれから10年かあ、とこれは個人的つぶやき)。

ここしばらくの、俳壇で話題となった作者・句集を固めて読んでいて気がついたのは、非常に小さな、ささやきやつぶやきのような句の多さです。それらを、ノーバディな=誰でもない、誰でもいい、どこにでもいる(しかしまぎれもなく、どこかにいる)「私」の声、というふうに名付けてみたら、ふに落ちるものがありました。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/06/100_2462.html

○

9.  丸田洋渡「花のゆうべ」>>読む

丸田さんは、20代前半の若い書き手。平野皓大、柳元佑太、吉川創揮さん達とともに、短詩形ブログ「箒」を創刊。こちらで、定期的に近作が読めます。

http://houkipoetry.com/



春暁の谷を隔てて鳥と鳥

鷲の巣や静かな場所で書き直す

噴水のひよひよとでて巻きもどる

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

風鈴を繋げるように坂上る

朝曇二つしかない家の鍵

吾亦紅夢に出てくる町の地名

鹿の毛の斑らに光るところあり

鵯や妹にまだ小さな手

寒鯉は手をかえす踊りのように

この人も、俳句を「私的」に書こうとしている。

俳句はともすれば、いわゆる「個性」をいったん棚上げし、共通の価値観によって、作品を律することを好む。とりわけそれは「修練」や「師承」を強調する、結社の主流をなす考え方で、それは、若書きが素朴派的に面白くなってしまうことを、「いったん」抑圧しておくことに大きな意味があるのかもしれない。(*3)

逆に短歌は「一人称」であることが、エートスとして、はじめから分けもたれているらしい。少なくとも入り口段階において、共同性のあり方が、私性をめぐって逆なのだ。

しかし、もしまだジャンルに試し尽くしていないエリアが見えたなら、そこへ突っ込むように試行を重ねることは、あとから来た者の務めだろう。とりわけ、はじめから作家であろうとする自恃のある書き手であれば。

鷲の巣や静かな場所で書き直す

「鷲の巣」を見て、それに背をむけて、自分の場所に戻る。見たと思ったらもう自分の場所に帰っている(ここには時制の齟齬があるのだけれど)その性急さに、俳句的な私性のあらわれがある。つまり、自分は、この人が「静かな場所で書き直そう!」と言っていると読んだのだ(「鷲の巣」と「静かな場所」が同じ一つのもののように取れることは、句の結構を弱くしているかもしれない)。

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

やはり、さいごに「!」を足して読みたくなる性急さを感じる二句。「芍薬」の川柳的な言明もいいけれど、「五月の犬」の、そこまでゆるく進んできて(「さしかかり」は相当ゆるい)下五で急に、そう思ったからそう言った感じ(つまり「五月の犬!」)は楽しい。

春暁の谷を隔てて鳥と鳥

噴水のひよひよとでて巻きもどる

朝曇二つしかない家の鍵

鹿の毛の斑らに光るところあり

こちらは、採点競技的にも、得点がねらえそうな句。

この人は、ウェルメイドな句ものへの志向と、私的なものへの志向を合わせ持っていて、そのバランスを見つけようとしている所なのかもしれない。筆者はそのゆらぎに魅力を感じている。

とりわけ「朝曇」の句の、なにに文句を言ってるんだか分からない(イコール詩的に上質な)淋しさと、色彩に惹かれた。

鵯や妹にまだ小さな手

はじめ「カササギ」と空目して恋の句と思ったのだけれど、「鵯」であれば、現実の記憶。「まだ/小さな」と句切れをはさんで読み進めると、手の中の妹の手がしゅーっと小さくなっていくような、時間が巻きもどって自分も子供にもどってしまうような、魔法的な美しいイメージが手渡される。

「や」と打ちだして、遡行の出発点に眼前性を加えたこともよい。

既視感がないとは言えない内容だけれど、むしろ、普遍的なものに、言葉で微量のマジックを加えているというべきだろう。佳句だと思う。

*3 若い落語家たちの群像劇である映画「のようなもの」(森田芳光)は、そのあたりの事情をうまく点描していた。



○



ふけとしこ句集『眠たい羊』(ふらんす堂)

ふらんす堂オンラインショップ

ふけとしこさんは、「カリヨン」(市村究一郎)をへて「椋」(石田郷子)「船団」(坪内稔典)に参加。『眠たい羊』が第五句集となるキャリアの長い作者。

ふけさんのような作家の句集と「落選展」の作品を、並べて鑑賞することに、失礼さを感じる方もいらっしゃるかもしれない。

しかし新人賞の応募作には、同時代のもっとも先端の問題意識があらわれている(あるいは、少なくとも「べきだ」)と、自分は思っていて、その同じ課題を、ふけさんの句集は「分けもっている」と感じたのだ。(新人賞の応募作もまた、作家の作品として読まれるべき、ということも思います)

『眠たい羊』は、本当に佳句揃いの句集なので、ランダムに引いていきます。

日が溜まる大根畑の足跡に 

足跡が刻印された瞬間と、そこから経過した時間、そしていま私がそこに視線を向けている時間、と一つのアングルに、いくつかの時間が書きこまれている。それは、そこに痕跡をのこした人が今はいないということだけが、描かれている絵でもある。土の軟らかさと、色彩の対比が心地よい。

鉄橋の三角三角春がくる

淡雪や干菓子焙じ茶いただいて

調子でできているような二句。

なのだけれど「三角四角」といえば字数が合うところを、あえて「三角三角」で中八にしている、この破調、胸にきませんか? 「春が来る」をこう配してのこの「三角三角」は、人をはげます調子であるように思えた。

「淡雪」の句。「干菓子焙じ茶いただいて」の助詞を飛び石のように飛ばしていく軽さと、主人公が室内画の一部にでもなったような静かさとの、微量のアンバランスに興趣がある。

自分が「三角三角」や「干菓子焙じ茶いただいて」に句会で出会ったら「わがままな言い方」と評すだろう。もちろんいい意味で。

前回取り上げたクズウさんのような(あるいは、生駒さんや青本さん達のような)言葉に負荷をかけてたわめていくのではなく、もう少しカジュアルに、楽に、言いたいように言葉が使われている。

要するに、自由度が高い。

というと「型や形式を逸脱しない中にも自由はある」という話を出してくる人がいそうだけれど、そういう「不自由」を感じない(感じさせない)から「自由」ということではなく、もっと積極的に、書きたいように書いてはみだしてしまう、むしろはみ出してしまう自分の勝手さを面白がるという、私性と自由を、一つのものとして追求していく書き方がある。

もっとも、自由であろうとすることは、それなりに「家賃の高い」行き方でもあって、それこそ天然ものの「上手さ」と「品の良さ」がないと、目も当てられないことになるのだけれど。

梅花藻の水にタオルを絞りけり

ご無体なようだけれど、雑巾じゃないんだから、きっとこのタオルの水もきれいなんだろう(というような「品の良さ」の話をしている)。

季語・水草の花の本意(*4)は、たぶん「別天地」なので(「河骨に金鈴ふるふ流れかな 茅舎」「水草に白楼ひくき門もてり 多佳子」)、タオルの水をジャーとしぼるのは、あの世とこの世、肉体と抽象の次元のちがいを攪乱し、ひとつながりにしてしまうことだ。

山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり

この理屈の通らなさ。というか、あやうく通ってしまいそうになる理屈の、念の入ったナンセンスには、滋味掬すべきものがある。優雅と言えばいいのかな。ほんとうに何の意味もないけれど、なんとなく色合いもキレイだ。

春昼や壁へ広がる湯気の影 

擂粉木をつるりと洗ひ夕長し

風鈴や酢へ放つべく魚を切り

待春やスープの底にひよこ豆 

発想が、生活感情に近い。

偉大なる明治大正時代に生きあるいは生まれた人々(主に男性)とは、どうにも、もともと人間が違う。偉大さや荘厳さが身に沿わないという「私たち」が、この世にいる。

小さくひそやかで親密であることで、その感受性の正当性を訴える。それがいわゆる「石田郷子ライン」(と筆者を含む何人かが一括りに呼んでしまった作家たち)の、分けもった時代精神なのだと思う。

そして「擂粉木」の句の「つるりと」、「風鈴」の句の「放つべく」という言葉の軽さに、この人の固有性がある(もちろん「船団」の流儀でもある)。

雀蛾に小豆の煮えてゐる匂ひ

山の日の丸テーブルを三つ寄せ

義士の日の混み合うてゐる足湯かな

雪の日を眠たい羊眠い山羊 

「雀蛾」という、蛾の中に雀がいるような奇体ないきものに赤茶色の小豆の匂いを重ねて混乱させたり、「丸テーブル」を三つ寄せることの落ち着かなさと由来のない祝日「山の日」のよるべなさを寄り添わせたり。「羊」と「山羊」と「眠たい」と「眠い」の違い(字数でしかない!羊と山羊は違う生きものなのに)などなど。この句集の、オリジナルな面白さを数えていけば切りがない。

とりわけ「義士の日」の句。ごく当たり前の日常風景なようで(忠臣蔵といえば雪の日にざっざっざっと歩いて行くわけですから)四十七士の足だけの幽霊が現れたかのようにも読める、その知的なはからいに大いに喜びました。

製材所の焚火のなんといい匂ひ

そして、この、そりゃそうだろうなあ、っていう、計らいの無さも。



*4 裏本意については、昔こちらに書きました。>>

2019-08-11

【句集を読む】首を打つ ふけとしこ『眠たい羊』の一句 西原天気

【句集を読む】
首を打つ
ふけとしこ『眠たい羊』の一句

西原天気


向日葵の首打つ雨となりにけり  ふけとしこ

花でも葉でもなく首を打つというのだから、どうしても打ち首(斬首刑)のイメージが脇から響いてくる。

おまけに、向日葵だから、

  向日葵や信長の首切り落とす  角川春樹

も連れ添うように響いてきて、掲句にバロックな趣きが加わる。

いっけんすんなり見たままを詠んだようでいて、多声的(ポリフォニック)な仕掛けが凝らされて、愉快。

下五「なりにけり」の古格めいた処理も、オーソドックスを装うに効果的。


ふけとしこ『眠たい羊』2019年7月/ふらんす堂

2017-08-20

【週俳6月7月の俳句を読む】僕として ふけとしこ

【週俳6月7月の俳句を読む】
僕として

ふけとしこ


山頂の石蹴り蛙の目借りどき  高橋洋子

そんなに高い山ではない。山頂もちょっとした遊び場のようになっているのだろう。初めは何人かで石を蹴り合う遊びでもしているのだろうかと思った。が、季語が「蛙の目借りどき」と置かれたから、考え直した。それならば一人で所在ない様子の人物を思う方がいいのではないだろうかと。「こんな所で石なんか蹴ってみたって……」と、少なからずアンニュイ。「目借りどき」といいながら、限りなく春愁に近いそれだろうと思わせられる。


さるとりいばら夜を流れる水のあり  高橋洋子

調べがとても美しいこともあり、実に気持ちのいい素直な句に見える。が、「さるとりいばら」の別名が「山帰来」であることを思うと、何気なく読んでいいのだろうか、と考えさせられる。そして、水は必ず低い方へと流れるものであることも。
いや、深読みしては句が濁る。きれいな緑(棘は鋭い)とやさしい水音とを楽しむ方がいい。

さるとりいばらは晩秋に赤い実を付け、色が褪せにくく野趣もたっぷりなところから、ドライフラワーやリース等にして楽しむ人が多いが、ここでは浅緑の艶々した葉と小さな花とを指しているだろう。初夏の心地いい夜。


おぼろ夜の浴槽細長い画集  高橋洋子

この画集が縦に細長いのか、横に細長いのかが不明なのだが、浴槽から続きのイメージだと横に長い画集の方が自然だろうか。浴槽という所は色々なことを思う場所でもあり、ゆったりとしているが故に眠気まで襲ってくるところでもある。「おぼろ夜」がさらにゆったりとした時間をもたらす。女体を描いたそれでも思い出しているのだろうか。自分の裸身を重ね合わせているならそれもいい。そうなれば、浴槽そのものが画集のようにも思えてくる。


瓜畑めざめて目鼻搔き集む  竹岡一郎

瓜畑に目覚めたのは誰? 瓜そのものか、それとも「私」か?

瓜が目鼻をつけて現れたら、まさに瓜実顔の出来上がりとなるのだが。

「私」だとしたら顔のパーツが流れ出すほどに熟睡して、寝ぼけ眼で取り敢えず顔を作らなきゃ、という図になる。えーと、えーと、これで全部かな、などと。そういえばそんな絵があった。溶けてゆく顔の絵が……。

無事に各々が揃いますように。「私」が例えばコオロギなどであったとしても。


草いきれ固めて僕として立たす  竹岡一郎

実はこの句が一番好きだった。好きなのはいいとして、ではどう解釈しよう? まずあり得ない話である。どう集めても気体は気体だ。でも作者は言う。このむんむんたる草いきれを集めて固めれば必ず僕になるのだと。僕の実態とは何? 僕とはすでに実体を失っているものなの? それとも……僕が自分で草いきれを集めているのだろうか。すると、「僕」は僕のたとえばクローン? 替え玉作戦か? どんどん話が面白くなってくる。


怖づ怖づと征きひまはりに振り向かれ  竹岡一郎

まず、向日葵はこちらを振り向かせることがあっても、自分から振り向くような花ではない。にも拘わらず振り向かせている。あの花の首は硬い。花の多くは東を向くが、いずれにせよ、動きはしないだろう。「征き」もこの字で書かれると戦場へ駆り出されるような印象を持ってしまう。「怖づ怖づ」がここで最適かどうかはさておき、勇んで赴いているとは思えない。この向日葵は振り向いて励ましてくれているのだろうか。何かの象徴として登場させているのだろうか。この花に作者は何を言わせたいのだろう。理解し難くもあるが、強い花であるがゆえに、奥を探りたくなる。

「鬼征伐」などに駆り出されることがないように、と、祈るばかりである。


■高橋洋子 ビー玉はすてる 10句 ≫読む
第535号
■竹岡一郎 バチあたり兄さん 40句 ≫読む

2016-02-21

【週俳1月の俳句を読む】ふけとしこ 耳の後ろに

【週俳1月の俳句を読む】 
耳の後ろに

ふけとしこ


魚ん棚に魚のかがやく淑気かな  森賀まり

初売りであろうか。整然と並べられた魚に淑気を感じるという。「魚ん棚」とは明石の商店街の名称。名の通り魚が中心の商いである。明石港が近く瀬戸内の新鮮な魚介が求められるとあって賑わう所だ。年末には正月用の買い物でごった返したであろう店や通りも、年が明けると落ち着いてくる。改めてゆっくりと見る魚の様子である。「魚」の字の繰返しで生きの良さ。「かがやく」の一語にめでたさを言い得た作品だと思った。


初空に鴨くちばしを上げにけり  対中いずみ

琵琶湖畔、堅田にお住いのいずみさんには湖の鳥は親しいものだ。鴨が潜ろうと天を仰ごうとそれは日常の景色と何ら変わることはない。変わるのは作者の方だ。

初空だ……と意識することによって見慣れた物にもちょっと改まった思いが湧く。ここでの鴨もそうだ。つと上げた嘴に目を留め、すかさず一句に仕立てるところに技を見る。「くちばし」の仮名書きも鴨と重ねたときの漢字やその画数の煩さを嫌ったものであるにせよ、平穏や明るさを現すのに効果を上げている。読み下したときの調べも心地よい。


正直に信号を待つお元日  河野けいこ

何とも正直な句である、馬鹿馬鹿しいほどに。元日といえば車も少ないだろう。この場合は赤信号であっても横断できるような状況ではなかったのか。一瞬「渡ってしまおうかな」と思い「いやいや、新年早々ルール違反はするもんじゃない」と思い直して、きちんと待つことにしたような……。改めて一句にするほどのことでもないのだが「お元日」であるが故に句にもなった、というところ。


そのちょろぎ生きていてまだ動くから  石原ユキオ

笑わせて頂いた。子ども相手の会話みたいだ。言われた方はちょっと怯むかも知れない。伸ばしかけた箸も止まろうというものだ。重箱の中の、或いは皿の上のちょろぎがウニュウニュと動き出したらどうだろう。シソ科の植物の根茎であるが、まるで巻貝のような形をしている。だから貝のようだとまでは誰でも言えるだろう。が「生きていて」「まだ動く」とまでは! こんな句も楽しくていいな。


揚羽蝶耳のうしろが痛くなり  曾根 毅

耳の後ろに釘かフックのような物でもあって、そこに首や肩や背中の筋肉がぶら下がっているとしたらどうだろう? その釘(フック)は疲れるだろうなあ。考えただけでズキズキしてくる。それはそれとしてここで何故「揚羽蝶」が出てくるのだろう。揚羽蝶には揚羽蝶の傷みや痛みがあるだろうが、ひらひらと飛んでいるのを見ている方はそんなことは思いもしない。むしろ、軽やかさの方を人は羨むものだろう。そんなことを考えていたら、この取り合わせの間がとんでもなく深いものに思えてきた。




第454号  2016「週俳」新年詠 ≫読む

■今泉礼奈 顔の高さ 10句 ≫読む

■椎野順子 身と海水 10句 ≫読む

第458号 2016年1月31日
■曾根 毅 国 旗 10句 ≫読む

2015-05-17

【週俳4月の俳句を読む】ふけとしこ 目のつけどころが

【週俳4月の俳句を読む】
目のつけどころが

ふけとしこ


戦争にいろんな事情九条葱  西原天気

って……確かにいろんな事情があって戦争になるわけですが、九条葱もこう書かれると葱よりも九条のところに目が吸い寄せられてしまいます。それが作者の狙いであったとしても。いろんな事情の中に「やってみたい」などという理由が含まれていないことを祈るばかりです。声高に語る人、呟く人、ただ思っている人、様々でしょうが、多くの人が漠然と感じていることなのです。戦争に近づいている、或いは近づかせたい人たちがいるのではないかと……。軽く言って見せていますが、内容は決して軽いものではありません。

街ぢゆうにネヂ軋ませて家具の恋  同

家具の恋という発想に驚きます。と言いながら私の頭の中はネジたちでいっぱいです。むしろネジの恋と言いたいほどに。もしもネジが家具から抜け出して思い思いに相手を見付けて、ということになれば、街はどんなことになるでしょう。誰か絵に描いて見せてくれませんか、と言いたくなります。でもネジが軋むような恋をして、この家具達は傷つくことはないのでしょうか。そういえばこの句には季語がないのですね。花も咲かない、鳥の声もない、そんな街を思って不安にもなりますが、それでも面白い。家具という物が色々な想像や勘繰りを誘うからでしょう。妙に好きな作品です。


姫女苑ごまかしながら連れてくる  北大路翼

正直な句かも知れないな、と思います。ごまかしているのは何? とまずは気になるところではありますが。花は恋の場面での小道具としては欠かせないものでしょう。この一連の作品の中では私はこの句に惹かれました。ヒメジョオンは素朴で可憐な花ですが、字だけを見ると姫と女の二つの重なりが強い故に意味が出過ぎてしまうようにも思えます。他のシーンの花たちもどう働いているのかなと思いながら読みました。「見たことがない苧環が誕生花」は少々正直過ぎましたか。


腕組みのポケット歪む花見かな  阪西敦子

田楽の跡の皿掻く串の先  同

爪切りて手の皺新た百千鳥  同
 

目のつけどころが○○でしょ、というコピーがありましたが、まさにそれですね。腕組みによる上着の皴、それがポケットの端を持ち上げることになり、歪んでしまうわけですが、こう言われることで却って仕立ての良さを思わせたりもします。花見でこんな句が生まれるのか……ととても面白く読みました。

2句目、3句目も同様に視点のずれが成せるもの。目の働きを信じればまだまだ詠めることは多いとつくづく思ったことでした。手の皴など決して嬉しいものではありませんが、百千鳥を配されると、背後が明るくなって素敵です。




第415号2015年4月5日
■北大路翼 花の記憶 12句 ≫読む
 
■外山一機 捜龍譚 純情編 10句 ≫読む 
■阪西敦子 届いて 10句 ≫読む
第416号 2015年4月12日
■西原天気 戦 争 10句 ≫読む

2014-05-11

【週俳4月の俳句を読む】ふけとしこ 何が気に入らない? 

【週俳4月の俳句を読む】
何が気に入らない?

ふけとしこ



鳥帰る何度も書き直すひらがな  近 恵

ひらがなほど優しいものはない。
ひらがなほど美しい字はない。
ひらがなほど厄介な字はない。

さて、この人は何が気に入らないのだろう? さっきから書いては消し、新たに書き……繰り返してみても、やはり納得はできない、と。

どうでもいいことなのに、どうにも気になることが日常にはある。掃除が得意な人はちょっとした拭き残しが気になる。

絵を飾る人はほんの少しの額の歪みも気になる。

この句の主人公はきっと綺麗な字を書く人だ。雑な字を書いてすませている人は決してこんなことは気にしないものだから。拘って書き直すひらがなとはどんな文字だろうか。

帰る鳥に託したかった手紙かも知れない。

もっと綺麗に書けたら、もう少し、柔らかく書きたいのに……、涙さえ滲んでくる。最後は溜息。ああ、間に合わなかった! 

鳥は行ってしまった。手元には反古が残っただけ。この一年で託せるだけの字を書けるようになっておきたい……。

ということはないにしても、一つの季節の移ろいと、どうにも気になる筆跡とが歴然と残った。何よりもこの中句のもたらす屈折感! 

置かれた季語は「鳥帰る」だが、根底にあるのは春愁そのものであろう。


花吹雪から卵焼き守りけり 野口る理

昔々、汁や膾に散り込む花びらを喜んだ方がおいでだったが、彼女はそうではない。折角の花見弁当に入ってこないで! というところだろうか。

本当は楽しんでいるのだろうが、今更それを言っても俳句にならないことを重々承知。逆をついて成功したことになる。憎い句だ。

実際には守らねばならないほどの風と花びらの量だったのかもしれないが、読まされる側からはこの大げさ加減が何とも楽しく、色彩を感じられる一句だ。

春の野に貧乏神の黄色き歯  る理

ああ、もう、びっくりした。漫画なら「ゲエッ」とかなんとか吹き出しで入れるところ。こんな神様にはいくら春の野であっても会いたくないなあ。

それにしても、白い歯や痛む歯を詠まれることは多くても、黄色い歯を詠んだ人が今までにあったのだろうか。


百千鳥日当たる方が樹のおもて  川嶋一美

春の鳥は「囀り」といえば声中心、「百千鳥」といえば姿をいうのだとか。何れにしても、恋の季節の鳥たちの賑やかなことである。
   
樹木の片側がどうのこうのとはよく詠まれることで、目新しさはないかも知れない。が、こう言い切った断定と、調べの良さ、さらには季節感も加わって魅せる一句となったと思う。

一美俳句の面目からいえば、「土よりもすこしあかるく雉あゆむ」をあげるべきだろうが、土と雉の色の対比が面白いだけに、さらに雉の方を明るいと捉える感覚を持つ人だけに、この表現は私にはとても残念に思えた。


第363号 2014年4月6日
■川嶋一美 あゆむ 10句 ≫読む  
■近 恵 桜さよなら 10句 ≫読む
第364号 2014年4月13日
■西村麒麟 栃木 10句 ≫読む
■野口る理 四月10句 ≫読む

第365号 2014年4月20日
■曾根 毅 陰陽 10句 ≫読む
第366号 2014年4月27日 ふらここ・まるごとプロデュース号

■山本たくや 少年 10句 ≫読む
■仮屋賢一 手紙 10句 ≫読む
■木田智美 さくら、散策 10句 ≫読む
■山下舞子 桜 10句 ≫読む


●

2009-09-13

ふけとしこ 人の名 10句


週刊俳句第125号 2009-9-13 ふけとしこ 人の名
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2008-08-10

ふけとしこ 何じゃなんじゃと 榎本享さんのこと

〔俳句つながり〕雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子→麻里伊→ふけとしこ→榎本享

何じゃなんじゃと 榎本享さんのこと 

ふけとしこ



もう十年が経とうか。あるパーティーの二次会で、向い合せに座りニコッと微笑んでくれた人がいた。誰かしら? それが榎本享さんだった。享と書いて「みち」と読む。女性である。

お酒が強そう……人柄は良さそう……などと思って見ていたような気がする。

親しくなったのはここ2年ばかりのことだ。

その榎本享さんが「なんぢゃ」という8名からなる同人誌を創刊された。

  春やあかつき一艘に一人立ち
  嘴を持つなり巣藁はこぶなり  

  紙風船舟のかたちに畳まるる


創刊号掲載の10句の中から。

どの句にも、しっかりと目が働いていることが明らかである。

そもそもは波多野爽波門、そう聞くだけで鍛えられただろう、叩き込まれたものがあろう…と想像できる。見ることの大事、写すことの大事等々を。愛弟子なればこその厳しさもあっただろう。それらは享俳句を貫くものとして今に至っているはず。爽波師亡きあとは、先頃終刊となった西野文代主宰の「文」を編集長として支え「先生」と呼ぶことは当の西野氏から禁じられて「文代さん」で通されたが、師事に変りはなくここでは「あるがままを、あるがままに」と、自然体の大切さを説かれてきた。

私が「いいなあ!」と記憶に留めた新しいところでは…

  年あらたまる松の屑竹の屑

…がある。年用意のために使われたであろう松や竹のその本体を言わず、敢えて屑の方へ焦点が当てられている。それはある程度の句歴を経れば身に付く一つの技と言えなくはないが、正月・松・竹の取合せでは陳腐そのものになるところを、こう仕立てて背景を広げて見せるのは、この作者なればこそ、と感銘を受けたのであった。

ここで改めて過去の句集を読ませていただいた。

  手鉤打ち込みて鱸のひれ立ちぬ (第一句集『明石』)

  先刻までたんぽぽの絮ありし萼

明石にお住まいである。漁港があり、主として魚を扱う大きな市場・魚の棚もある。1句目はそこでの取材であろうか。まさに、その瞬間を写し得た句である。手鉤の打ち込まれるのを見たのも出会いなら、それが鱸だったのも出会いである。同様に絮が飛んでしまった萼も出会い、見過ごさないところに臨場感を伴った詩が生まれることを教えられる。

  げんげ田や別れの刻に今すこし  (第二句集『鬼の子』)

  寒肥の穴掘りかけにして居らず

吟行句だろう。「泊まりがけの吟行なんて夢の夢だったわ」との述懐も聞いたが、それは主婦俳人なら誰しも思うところである。それでも吟行を頻繁に行うグループにいた人と、私のように初めて所属したのが、吟行は年1回のイベント、というところとでは大きな差がついてしまう。

この上記二句からは、地に足をつけて!ということ。さらに、景色だけではなく、そこに人を置くこと、時間なり動作なりの動きを見せてこそ、句の世界に奥行が出るのだと教わる。

  春の雪すくふや土の付いてくる (第三句集『抽斗』)

  萍に水位の上りはじめたる
  あさがほの種にまじつてゐる小石

  もういちど波に戻してやる海月

  ヨーグルト上澄みに春立ちにけり
  やどかりを数へるたびに数ちがふ

  燕くる下駄ひつかけて息子くる

  野分くる山羊のお腹に仔がうごき

  村芝居はねる綿虫ふえてくる

  煤の日の抽斗に何閊へをる

独特の視座を得、景の切取り方にセンスを見せ、ここに表現力が備わればいうことはない。享さんの俳句で好きなところは決して言葉に無理をさせないということ。どの言葉も心地悪そうに見えることがない。言葉たちが「ここ、私の場所!」と言わんばかりに落ち着いているところだ。写生も抒情もユーモアも表現するのはすべて言葉なのだから、これはとても大切なことだと思う。

最近は吟行や句会にご一緒する機会が増えたが、ひとつだけ気になることがある。

それは軽妙を超えて「面白がり過ぎ」では?という句をたまに見せられること。

「お互い様でしょ!」と返ってきそうだが、お互い様といえば、私の句歴も二十年を過ぎ、大先輩(実年齢ではなく)の享さんはもう四十年を過ぎているだろう。一番心せねばならないのは自己模倣かも知れない。はい、お互いに……。

ともあれ、その大先輩の面倒見のいいことにかまけて、甘えっぱなしの昨今の私である。
ご本人は「なんぢや」第2号へ向けて忙しい頃だろう。

「なんぢや」とは? と訊けば「あれは何じゃ、これはなんじゃ」の好奇心を表すとののこと。ちなみに命名されたのは西野文代さんとのことである。

ちょうど家にあったヒトツバタゴ、通称ナンジャモンジャの苗を創刊祝い(?)にプレゼントした。大木になるが成長はゆっくりだとのこと。

享さんたちの「なんぢや」の成長もこの木の成長と共に楽しみである。
 

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2008-07-20

冬三日月 ふけとしこさんとの出逢い 麻里伊

〔俳句つながり〕雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子→麻里伊→ふけとしこ

冬三日月 ふけとしこさんとの出逢い 

麻里伊




目が醒めると、薄暗がりの部屋にいた。早々と、町の起き出すかすかな物音が、夢うつつに聞こえていた。ぼんやりとした目に、ふけさんの姿があった。句帳であろうか何か書き付けていらっしゃる。みなを起こさないように、そっと体を起こしているという風情であった。そこは祇園の、昔はお茶屋だったという小さな宿だった。

俳句の縁とは不思議なものだ。住む場所や活動の場が違っても、こうして、祇園の一夜を過ごすこともあるものだ。人通りのない夜更け、総勢五人の喧しい祇園闊歩。花見小路から見上げた冬三日月に、ふけさんとの嬉しき出逢いの印象を留めた。しかし、せっかくの祇園にも、やはり句会だ。それから食べる、飲む。ふけさんをよく存知あげないままお別れしてしまった。

あれから一年と少し、俳句、エッセイ、写真で構成された、『草あそび』(2008年2月・郁書房)という美しい本が送られて来た。昔を語ったエッセイの中には、同時代あたりの共感する部分がいくつもあり、ふけさんが俄然身近に感じられて来た。

  三月来る葦の根に泡貝に泡

  六月のポプラは風に傾く木

  溺れていてもいい葦原のこの青さ

俳句を始めるきっかけが俳画だったそうで、添えられた植物の素描画に、繊細な観察力を感じる。

  仏の座光の粒が来て泊まる

  子雀に槍や鉄砲や帷子や

  枯れきつて高三郎が呼び止める

  野の草へ露を配りにゆくところ

  ひよんの実の鳴るたびに君若くなる

  種採って百年ほどを眠ろうか


人間にも一人一人大切な名前があるように、小さな草花の名の一つ一つを大切に扱って一句が成されている。しかし、知っているというだけで終わるのではなく、季語としての植物の本意を膨らませ飛躍させ、ふけさんならではの個性ある俳句となって、私達を驚かせ楽しませてくれる。

  春昼のわれを包むに足りる紙

包装紙であろうか、開くと意外にも大きかった紙が居場所を占領することがある。その大きさを「われを包む」と言ったところから、「われ」と「紙」とが、同次元に存在を果たす。「春昼」がこの物言いを大袈裟にもし、ぐっとリアル感を持たせてもいる。繊細な描写の句群の中に、時折あらわれるこの大胆さ。かといって面喰らうわけでもない。あの祇園の朝、夜明けの窓のうす明かりに向かい、ぬっと座したふけさんのシルエットを思い出した。

  鎌の刃も菖蒲も雫してをりぬ

  薔薇を見てゐて欲しくなるシャーベット

  夏果てや胸打つ草を胸で分け
  わたくしの分量のこれ花吹雪

俳句を感受した後に、印象鮮明な写真が現れ、前の一句を増幅させる。また、その写真のイメージが次の俳句によって拡がって行く。

  おとうとをトマト畑に忘れきし  「伝言」

忘れて来たと言い、弟なんか知ーらないっと! というところか。ちょっと心配になったところに、何くわぬ顔で帰ってくるのも弟なのだ。私も弟と二つ違い。弟は私よりずっと弱かった。…なのに、大きくなるにつれ、いつの間にか力が拮抗してくる。姉や妹、兄にはない、身近なライバル関係と言うべきか。

『草あそび』は、そんな弟さんの写真と俳句のコラボレーションである。ありがちな身内との馴れ合った共演に陥ることなく、火花を散らしあいながらの、素敵な一冊となっている。  



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