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2020-05-31

【2019落選展を読む.5】「私性」と自由 古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む 上田信治

【2019落選展を読む.5】

「私性」と自由

古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む

上田信治



今回は「8.みみづくの散歩」(古川朋子)と「9.花のゆうべ」(丸田洋渡)の2作品を読み、あわせて、高山れおなさんが2019年のベストにあげていた句集、ふけとしこさんの『眠たい羊』についても書きます。

三つの作品を取りあげるのは、それらが俳句に表現される「私性」の現在地点をよく現しているように、思えたからです。



2. 古川朋子「みみづくの散歩」 >>読む

古川さんは「蒼海」(堀本裕樹主宰)所属。第6回星野立子新人賞を受賞。角川俳句賞でも2016年(*1)2017年と一次予選を通過した注目の作家です。 

春の川生きて可笑しなことを言ふ

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

みみづくの散歩はひとの肩の上

室咲やひとりにひとつ長机

初夢に見てにぎやかなお正月

戸を引けば階段のある寒さかな

いちにちは全き青のヒヤシンス

さて。

春の川生きて可笑しなことを言ふ

内容は、人がふつうに生きていて感じるであろう、生への肯定。けれど、この「生きて」は出そうで出ないフレーズで「盆踊人に生まれて手を叩く」(岩淵喜代子)「水無月や地球に生まれ傘をさす」(山本紫黄)のような、人間のどうしようもなさを描いた句を思い出した。つまり、この句は、日常のスケッチのようでとても思弁的で、生のストレートな肯定のようで、かすかに淋しい。

またそれは、単独では成立ぎりぎりの不安定なフレーズなわけだけれど、その不安定さとバランスする「春の川」によって価値が確定している。

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

「けふ日曜の」の調子の良さと「この感じ」の大胆さ。冗語に冗語を重ねることは、日曜日の感じを出すための、認識の引き延ばしであり、また「鯔跳ねて」のあとにしばらくの時間があったことの強調でもある。

ある時間の中の一瞬の偶然が、平板な生の持続に何の影響も与えない(かのように見えて、何かを動かしている)。それは誰もが見たことのある「鯔」がはねるという現象(季語でもある)から析出された、普遍的な何ものかだ。

この季語に対する意識の深さは「春の川」から生命感を浮かび上がらせる繊細な手つきにもあらわれている(擬人法と考えると全く面白くなくなるので、そうは取らない)。

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

室咲やひとりにひとつ長机

「牡丹雪」のやわらかさと終わった季節の名残であることが「かさぶた」に二重写しされること(この取り合わせは、津川絵理子さん的に上手い)。「菫草」の句に、さらりと芭蕉が重ねてあること。海水浴場だろうか、この「山の近」い海が、すでにすばらしく涼しく、それによって「氷水」の価値にさらに繊細なチューニングが加わっていること。「室咲」の句が、習字教室?を思わせつつ暗示にとどめ、物だけを書くことで(季語を場面の一要素に縮小することなく)くっきりとオブジェ化していること。

これらの句、言葉の運用も内容も人を驚かせることが少なくストレートでありながら、複雑なたくらみがしかけられ、立体化がなされている。

そうやって、俳句という小さな詩型のもつインティマシー(親密さ)を大切にしながら、詩として高度なものを作り出していることに、この作者の志向するものが見える。

微量の不自然さを含む語法に見られる新しさへの意志と、季語の扱いに現れる繊細さと複雑性。ここには、いわゆる「平成俳句」の可能性を生きのびさせる方向が現れているのではないかと、わりと本気で思っている。

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

みみづくの散歩はひとの肩の上

初夢に見てにぎやかなお正月

これらの句に現れた「親しさ」「かわいさ」もまた、俳句がまだ攻め尽くしてはいない可能性だろう。こういったものを「かわいい」と感じることを自分に許すことも、また「私性」の俳句への持ち込みである。(*2)

「滝の音すこし歩めば川の音」「しづけさのまま夜に入る野分あと」のような(俳句読者全体との距離を計量するような)常識的な作や「また少し夕日くづれて梨の花」「神さまに輪郭のある涼しさよ」「いきいきとおたまじやくしに蛙の目」のような、面白さはありつつも、ゆるさや強引さを感じる句もある。
 
古川さんには、この際、ご自身が、俳句の最も新しい価値の一部を作りつつあるということに、開き直ってしまわれることを期待したい。



*1 古川さんの2016年作品はこちら 

>>「逃水」

*2 2010年に「ゼロ年代の俳句100句」というミニアンソロジーを作った際「私性=ノーバディな私による「私」語り」という項目を立てたのだけれど、そこには、まだ野口る理さんも福田若之さんも名前がなかったわけです(あれから10年かあ、とこれは個人的つぶやき)。

ここしばらくの、俳壇で話題となった作者・句集を固めて読んでいて気がついたのは、非常に小さな、ささやきやつぶやきのような句の多さです。それらを、ノーバディな=誰でもない、誰でもいい、どこにでもいる(しかしまぎれもなく、どこかにいる)「私」の声、というふうに名付けてみたら、ふに落ちるものがありました。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/06/100_2462.html

○

9.  丸田洋渡「花のゆうべ」>>読む

丸田さんは、20代前半の若い書き手。平野皓大、柳元佑太、吉川創揮さん達とともに、短詩形ブログ「箒」を創刊。こちらで、定期的に近作が読めます。

http://houkipoetry.com/



春暁の谷を隔てて鳥と鳥

鷲の巣や静かな場所で書き直す

噴水のひよひよとでて巻きもどる

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

風鈴を繋げるように坂上る

朝曇二つしかない家の鍵

吾亦紅夢に出てくる町の地名

鹿の毛の斑らに光るところあり

鵯や妹にまだ小さな手

寒鯉は手をかえす踊りのように

この人も、俳句を「私的」に書こうとしている。

俳句はともすれば、いわゆる「個性」をいったん棚上げし、共通の価値観によって、作品を律することを好む。とりわけそれは「修練」や「師承」を強調する、結社の主流をなす考え方で、それは、若書きが素朴派的に面白くなってしまうことを、「いったん」抑圧しておくことに大きな意味があるのかもしれない。(*3)

逆に短歌は「一人称」であることが、エートスとして、はじめから分けもたれているらしい。少なくとも入り口段階において、共同性のあり方が、私性をめぐって逆なのだ。

しかし、もしまだジャンルに試し尽くしていないエリアが見えたなら、そこへ突っ込むように試行を重ねることは、あとから来た者の務めだろう。とりわけ、はじめから作家であろうとする自恃のある書き手であれば。

鷲の巣や静かな場所で書き直す

「鷲の巣」を見て、それに背をむけて、自分の場所に戻る。見たと思ったらもう自分の場所に帰っている(ここには時制の齟齬があるのだけれど)その性急さに、俳句的な私性のあらわれがある。つまり、自分は、この人が「静かな場所で書き直そう!」と言っていると読んだのだ(「鷲の巣」と「静かな場所」が同じ一つのもののように取れることは、句の結構を弱くしているかもしれない)。

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

やはり、さいごに「!」を足して読みたくなる性急さを感じる二句。「芍薬」の川柳的な言明もいいけれど、「五月の犬」の、そこまでゆるく進んできて(「さしかかり」は相当ゆるい)下五で急に、そう思ったからそう言った感じ(つまり「五月の犬!」)は楽しい。

春暁の谷を隔てて鳥と鳥

噴水のひよひよとでて巻きもどる

朝曇二つしかない家の鍵

鹿の毛の斑らに光るところあり

こちらは、採点競技的にも、得点がねらえそうな句。

この人は、ウェルメイドな句ものへの志向と、私的なものへの志向を合わせ持っていて、そのバランスを見つけようとしている所なのかもしれない。筆者はそのゆらぎに魅力を感じている。

とりわけ「朝曇」の句の、なにに文句を言ってるんだか分からない(イコール詩的に上質な)淋しさと、色彩に惹かれた。

鵯や妹にまだ小さな手

はじめ「カササギ」と空目して恋の句と思ったのだけれど、「鵯」であれば、現実の記憶。「まだ/小さな」と句切れをはさんで読み進めると、手の中の妹の手がしゅーっと小さくなっていくような、時間が巻きもどって自分も子供にもどってしまうような、魔法的な美しいイメージが手渡される。

「や」と打ちだして、遡行の出発点に眼前性を加えたこともよい。

既視感がないとは言えない内容だけれど、むしろ、普遍的なものに、言葉で微量のマジックを加えているというべきだろう。佳句だと思う。

*3 若い落語家たちの群像劇である映画「のようなもの」(森田芳光)は、そのあたりの事情をうまく点描していた。



○



ふけとしこ句集『眠たい羊』(ふらんす堂)

ふらんす堂オンラインショップ

ふけとしこさんは、「カリヨン」(市村究一郎)をへて「椋」(石田郷子)「船団」(坪内稔典)に参加。『眠たい羊』が第五句集となるキャリアの長い作者。

ふけさんのような作家の句集と「落選展」の作品を、並べて鑑賞することに、失礼さを感じる方もいらっしゃるかもしれない。

しかし新人賞の応募作には、同時代のもっとも先端の問題意識があらわれている(あるいは、少なくとも「べきだ」)と、自分は思っていて、その同じ課題を、ふけさんの句集は「分けもっている」と感じたのだ。(新人賞の応募作もまた、作家の作品として読まれるべき、ということも思います)

『眠たい羊』は、本当に佳句揃いの句集なので、ランダムに引いていきます。

日が溜まる大根畑の足跡に 

足跡が刻印された瞬間と、そこから経過した時間、そしていま私がそこに視線を向けている時間、と一つのアングルに、いくつかの時間が書きこまれている。それは、そこに痕跡をのこした人が今はいないということだけが、描かれている絵でもある。土の軟らかさと、色彩の対比が心地よい。

鉄橋の三角三角春がくる

淡雪や干菓子焙じ茶いただいて

調子でできているような二句。

なのだけれど「三角四角」といえば字数が合うところを、あえて「三角三角」で中八にしている、この破調、胸にきませんか? 「春が来る」をこう配してのこの「三角三角」は、人をはげます調子であるように思えた。

「淡雪」の句。「干菓子焙じ茶いただいて」の助詞を飛び石のように飛ばしていく軽さと、主人公が室内画の一部にでもなったような静かさとの、微量のアンバランスに興趣がある。

自分が「三角三角」や「干菓子焙じ茶いただいて」に句会で出会ったら「わがままな言い方」と評すだろう。もちろんいい意味で。

前回取り上げたクズウさんのような(あるいは、生駒さんや青本さん達のような)言葉に負荷をかけてたわめていくのではなく、もう少しカジュアルに、楽に、言いたいように言葉が使われている。

要するに、自由度が高い。

というと「型や形式を逸脱しない中にも自由はある」という話を出してくる人がいそうだけれど、そういう「不自由」を感じない(感じさせない)から「自由」ということではなく、もっと積極的に、書きたいように書いてはみだしてしまう、むしろはみ出してしまう自分の勝手さを面白がるという、私性と自由を、一つのものとして追求していく書き方がある。

もっとも、自由であろうとすることは、それなりに「家賃の高い」行き方でもあって、それこそ天然ものの「上手さ」と「品の良さ」がないと、目も当てられないことになるのだけれど。

梅花藻の水にタオルを絞りけり

ご無体なようだけれど、雑巾じゃないんだから、きっとこのタオルの水もきれいなんだろう(というような「品の良さ」の話をしている)。

季語・水草の花の本意(*4)は、たぶん「別天地」なので(「河骨に金鈴ふるふ流れかな 茅舎」「水草に白楼ひくき門もてり 多佳子」)、タオルの水をジャーとしぼるのは、あの世とこの世、肉体と抽象の次元のちがいを攪乱し、ひとつながりにしてしまうことだ。

山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり

この理屈の通らなさ。というか、あやうく通ってしまいそうになる理屈の、念の入ったナンセンスには、滋味掬すべきものがある。優雅と言えばいいのかな。ほんとうに何の意味もないけれど、なんとなく色合いもキレイだ。

春昼や壁へ広がる湯気の影 

擂粉木をつるりと洗ひ夕長し

風鈴や酢へ放つべく魚を切り

待春やスープの底にひよこ豆 

発想が、生活感情に近い。

偉大なる明治大正時代に生きあるいは生まれた人々(主に男性)とは、どうにも、もともと人間が違う。偉大さや荘厳さが身に沿わないという「私たち」が、この世にいる。

小さくひそやかで親密であることで、その感受性の正当性を訴える。それがいわゆる「石田郷子ライン」(と筆者を含む何人かが一括りに呼んでしまった作家たち)の、分けもった時代精神なのだと思う。

そして「擂粉木」の句の「つるりと」、「風鈴」の句の「放つべく」という言葉の軽さに、この人の固有性がある(もちろん「船団」の流儀でもある)。

雀蛾に小豆の煮えてゐる匂ひ

山の日の丸テーブルを三つ寄せ

義士の日の混み合うてゐる足湯かな

雪の日を眠たい羊眠い山羊 

「雀蛾」という、蛾の中に雀がいるような奇体ないきものに赤茶色の小豆の匂いを重ねて混乱させたり、「丸テーブル」を三つ寄せることの落ち着かなさと由来のない祝日「山の日」のよるべなさを寄り添わせたり。「羊」と「山羊」と「眠たい」と「眠い」の違い(字数でしかない!羊と山羊は違う生きものなのに)などなど。この句集の、オリジナルな面白さを数えていけば切りがない。

とりわけ「義士の日」の句。ごく当たり前の日常風景なようで(忠臣蔵といえば雪の日にざっざっざっと歩いて行くわけですから)四十七士の足だけの幽霊が現れたかのようにも読める、その知的なはからいに大いに喜びました。

製材所の焚火のなんといい匂ひ

そして、この、そりゃそうだろうなあ、っていう、計らいの無さも。



*4 裏本意については、昔こちらに書きました。>>

2019-11-10

■2019角川俳句賞「落選展」■ 8. 古川朋子「みみづくの散歩」

■2019角川俳句賞「落選展」■
8.  古川朋子「みみづくの散歩」






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みみづくの散歩  古川朋子

春の川生きて可笑しなことを言ふ
かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪
この先の靴跡深し菫草
暮るるまで窓のひなたのシクラメン
自転車を押して麗らか船に乗る
春昼のダクトの裏にずつと鳩
春泥のわづかに水を流すかな
囀や両手にアメリカンドッグ
また少し夕日くづれて梨の花
鉄塔は囲ひのなかに花は葉に
夏帽子濡れて夕方匂ひける
海に来て山の近さよ氷水
潮風に馴れて白シャツくしやくしやで
やかん置く扉ひとつの冷蔵庫
夏草を噛む山羊の目の半開き
滝の音すこし歩めば川の音
夕焼を来て口笛とタンバリン
矢印の空を指したる帰省かな
手拭ひを使ひあぐねて祭の子
神さまに輪郭のある涼しさよ
西日さす自動販売機のうしろ
右手より細き左手秋に入る
爽やかに如雨露を揺らしつつ来たる
秋めくやラスタカラーの少年も
立ちながら眠るペンギン秋の昼
僧侶いま眼鏡拭きをる曼珠沙華
しづけさのまま夜に入る野分あと
遠目にもわかるおむすび岸は秋
鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ
たてがきの表札ふたつ蔦の家
雨に寝て雨に目覚めて冬近し
色変へぬ松のかたまりより鴉
風狂のビルと思へば時雨なり
みみづくの散歩はひとの肩の上
鴨小鴨みづ広げつつ遡る
釣人の迷彩柄の小春かな
マフラーにそつと沈んでゆくあくび
室咲やひとりにひとつ長机
暮市の菜屑に足を取られけり
初夢に見てにぎやかなお正月
初凪や漁港に犬を遊ばせて
戸を引けば階段のある寒さかな
建物のおもてに向けて干す布団
寒鰤の半身やぴくりぴくりして
貝寄風に錦糸卵の吹かれとぶ
いちにちは全き青のヒヤシンス
夕桜墓地にベンチのなかりけり
いきいきとおたまじやくしに蛙の目
春はジープ車高のなかばまでタイヤ
ごきげんな一羽とおもふ春の鴨

○

2016-11-13

2016「角川俳句賞」落選展(第4室) 13.すずきみのる  14.高梨 章  15.滝川直広  16.ハードエッジ  17.古川朋子

2016「角川俳句賞」落選展■第4室


13.すずきみのる 


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14.高梨 章 


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15.滝川直広 


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16.ハードエッジ 


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17.古川朋子


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13. 追記 すずきみのる

砲丸の手を離れ飛ぶ麦の秋
初夏の笑顔並べて医学生
老鶯や竹乱れ生え屋敷林
車道へと歩みやまずよ黒毛虫
声といふかたまり吐きて牛蛙
海が呑む浜昼顔も砂浜も
沸騰の一山にして新緑す
雲海の開けてダムとその湖と
緑陰や押してツインズ乳母車
白シヤツに翳りとなりて透く身体
いきもののいきれぬけたる繭しろし
われを呼ぶその朝声も秋めきぬ
雲母摺床にならべて処暑の餐
大路小路みごとに暮れて鉾祭
深吉野のつくばねの実を見しが縁
わたくしへと戻る途中や草の市
大玻璃に鉄線透けてゐる月見
一山を蒸し籠めの霧湧き立ちぬ
ロボットは性別不詳をとこへし
山の夜の酩酊深し猴酒
落ち鮎を食せ再々婚の友
浅漬の大根甘しワイン美味し
民家途切れし通学路峡氷雨
枝打のひとりは声の響くのみ
三山とならび称されつつ眠り
ほうと闇ほうほうと闇木菟いづこ
金色世界銀杏落葉と老幹と
スタンプを押して旅信や冬の虹
裸婦像の丸き肢体や冬の苑
寝具敷き終え湯たんぽの盛りあがり
月代やポケツトのもの当ててみよ
顔見世の鳥屋のあたりを伺ひぬ
山の影海に浮かべて初日の出
目を閉ぢて夢見の景を初景色
飾取り常の玄関へと戻る
行きずりの一人として若火見る
胴長の猫の斑の背に牡丹雪
はるあけぼの牛乳の膜しわみゐて
口移しにて春祝ぎの言の葉を
春のゆめ異郷にロバを商ひて
春灯そば湯に雲のごときもの
ケチヤツプの赤春昼の食見本
面構へ白眼なせる恋の猫
めまとひの堆肥の湯気の中に渦
揚げひばり吐声に色のあるごとし
げんげ田に音ばらまきてヘリコプター
春光の灯台のみが記憶の島
死に近き人を囲みて春障子
くつあとのかすかに続く花筵
朧夜や水面に浮かびくる記憶

●

14. 宇宙の犬 高梨 章

永き日や壺まだ口をあけてゐる 
アカシアの花ふんでゆく牛飼座
てふてふは空気のなかをはかなげに
たかくたかくヒバリは空に立つたまま
ヒバリ鳴くこはれてしまひさうに鳴く
揚雲雀おりてゆけない夢を見る
日向から出てゆく春の落葉かな
うぐひすのこゑや足なが蜂がゆく
春の日や灰皿の灰やはらかし
沈丁の花風に置かれゐたるかな 
石ふたつ空席となる春の丘
ふるさとはひばりのこゑのしたにあり
ひとのすがたでヒバリながむるこの世かな
くるぶしをさはられてゐるれんげさう  
白木蓮しまらく風にさはらせず
さはつたところにさはられたあと春の雪
ことごとく椿のかたちで落ちてゐる
春の闇犬に鳴かれて立つてゐる
幸福は枯葉のにほひ春の朝
春風や洗濯バサミなくなりぬ
てふてふを手ばなすやうに春はゆき
うへを見てうしろへさがる金魚かな
石置けば石にちかづく金魚かな
ゆふやけとなるまへ水を散らかして
糸とんぼ見てゐし草のすき間かな
大蟻の視野へわが足入りにけり
泣いたあとのやうな気がする金魚かな
金魚ゐぬところへ行きたい金魚かな
靴下の足音もある夏座敷
鳴きやみし木にまづおりてくる夜の秋
朝顔にあさがほのつる触れにゆく
草の花ちがふ高さの高さかな
見まはしてほかにはたれも草の花
水面はとても薄くて木の実落つ
木の葉ふりつねに明るい出口かな
つかまつて鳴いてゐたりし秋の蟬
あらはれて蜻蛉出てゆく空家かな
天高し空をうごかす雲ひとつ
木の実ふる下に地蔵ありてこつん
出られたらとおもふ胡桃の外に出る
表面にふとあらはるる秋の風
泣くこともできる秋の夜の食卓
秋の夜の帽子のなかの無言かな
露の世はしづかに下着ばかり干す
カマキリにあるかもしれぬかすれ声
望の夜のくらがりに立つ空気入れ
水を乱し水鳥うかむ北半球
水鳥もみづのせなかに寝しづまる
水鳥は水にかくれてしまひけり
湯ざめして宇宙の犬のことおもふ

●

15. 栞  滝川直広

草の岸きのふの雛とどまれり
春陰を漉き込まれたる出雲和紙
フェルト地の帽子に春の雨の粒
鳥の脚洗ふ流れや復活祭
さへづりや糊の利きたる衿立てて
まだ鳥の入らぬ巣箱雨したたる
ぬかるみを作務衣飛び越す鳥の恋
海のなき街のデパート蒸鰈
乗務後の車掌たたずむ山桜
夕桜土洗はれし一輪車
雲水の下駄ひくく鳴る養花天
やすらひの花傘の柄を地に着けず
北窓の下に稿書く遅日かな
砂時計遅日より時取り出だす
手鏡のうすきくもりや遠蛙
はこべらの際まできたるにはたづみ
武者人形手綱をさばく指細し
青梅に殻のやうなる薄き翳
五月雨や紅さわがしき中華街
ぬかるみを踏んで見にゆく半夏生
転舵するヨットの海をつねるごと
鳥除けのCD吊つてあるヨット
波がしらなき波つづく油照
さつきまで蛇ゐし岩に腰下ろす
夕暮が水に溶けだす金魚玉
灯のくらき歌舞練場の花氷
月光を浴び餅肌のなめくぢり
落蝉の翅を栞にできぬかと
錆釘の土よりのぞく糸瓜棚
秋草の穂より光の去りやすし
秋高し蛇口にお礼言ふこども
秋の日を編み込んであるおさげ髪
風向きの変はりて萩の揺れ直す
野も海もある能舞台鳥渡る
棘折れて洗濯槽の草虱
額縁の鍍銀をみがく鵙日和
冷ややかな灯を積み上げてホテルなり
杉玉の鳴らぬさびしさ水澄めり
火に落つる獣の脂冬来る
御火焚やそだちきつたる火の澄みて
焼藷屋にほひの罪の軽からず
冬の蝶あさき眠りをきれぎれに
天頂を雲のしりぞく初御空
休みつつ淑気を進む松葉杖
日は透り月影こもる氷柱かな
待春の日差しまみれのさかあがり
おのが身に風ひきうけて麦を踏む
一輪の水仙の香に糺さるる
遅れゐる一羽を待てり春の鴨
雛の間の朝につかふ棕櫚箒

●

16. 半丁 ハードエッジ

地虫出て安土桃山時代かな
幼くてお玉と呼ばれ蛙の子
蝶生れて日当る石を懐しむ
さざ波を飛んでつばくらつばくらめ
春の草早も兎の耳の丈
今日こそは晴れて桜の出番なれ
咲き満ちて花の洛中洛外図
湯あがりのほろりと花よ花びらよ
花びらが吸取紙の上にかな
ならばこの紫雲英畑を買はぬかと
石鹸の刻印深き立夏かな
鯉の背に跨る五月来りけり
満ち足りて水田明りの水田なり
頭を上げて裳裾を引いて蝸牛
毛虫とは似ても似つかぬものとなる
蓮の花蜂かと見れば蠅がをる
灯台を廻る楽しさ夏燕
涼風とよくすれ違ふ日なりけり
ねたましや夕立の中を駆け行くは
うたかたのうすきみどりのソーダ水
囚はれの身をからからとラムネ玉
赤に黄に高さを競ふかき氷
割箸が置かれ冷奴が置かれ
丁半の博打半丁の冷奴
蛸足や肉の真白を胡瓜揉み
風に乗ることの哀しき祭笛
朝顔や歩いて通ふ勤め先
石ころを掃きたる秋の帚かな
髪乾くまで月の出を待たせある
満月や永遠に零るる崖の土
蓋開けて月の光のオルゴール
明月はけふ明日はあしたなり
青い目の人形青い目の野分
豊年や翅持つものは飛び廻り
色鳥を吹き消す風となりにけり
聞く耳を持たぬ人にも蚯蚓鳴く
プリズムの傷だらけなる夜食かな
子規庵の寝静まりたる糸瓜かな
神の旅大きな月を掲げたる
赤々と火中ありけり夜の焚火
膝の辺に猫より丸く毛糸玉
白鳥の湖に行き浮寝せむ
大根を抜きつ大根抜かれつつ
枯草の中の針金曲り錆び
降雪や花壇を囲む赤煉瓦
自転車の硬きタイヤも年用意
読み返すことの楽しき古日記
花のごと雪ふる中を宝船
屈強の白を重ねて鏡餅
どんど火の崩れむばかり崩れたり

●

17. 逃水 古川朋子

新緑や椅子に聖書を入るる場所
丸窓を緑の雨の充たしゆく
言問のさなかにはかにほととぎす
あしうらに砂の微熱や麦の秋
点になり線になり五月のとんび
廃墟つきぬけて新樹のそよぎけり
丹田の青むまで吸ふ若葉風
うつむいてゐればいつしか夏の海
ひまはりを見てゐるだけの停車かな
木の卓のらくがき青し百日紅
黄のアロハシャツ跳んで取るフリスビー
触るる手に傷ひとつある花火かな
白靴の赤い靴底とほざかる
朝顔や海に向かひて社員寮
秋暑し神社の鳩のふとりたる
西瓜食ひ終へし話のつづきなし
本棚に活字押しあふ残暑かな
匙に乾く一滴の水秋きざす
裸婦像の乳房を削り初嵐
いまだ見ぬ街の多さよ秋の蝶
少年のなごりの眉を秋の風
千々にものおもへば遠き花野かな
そぞろ寒となりに鶴を折る家族
夜通しの雨音に秋惜しみけり
かはほりの骨にあまねく冬来る
水の輪を毀して鳰が鳰に寄る
きれぎれに鳴るクラクション冬の虹
酢海鼠や逢へばかなしくなるをとこ
落葉掃く道をへだてて会釈して
枯枝の震へや鳥の睦みあふ
畳まれて雪の窓辺に車椅子
怒つてゐる嚔笑つてゐるくしやみ
暖簾のゆ二つに割つてクリスマス
剥製の熊に白息かけにけり
ねむるまで寝息をきいて小晦日
亀が首のばしてもどす去年今年
旅初うごく歩道の弾みけり
海に出でて国道細る水仙花
春雨や肘ついて割るピスタチオ
香水もなく花もなく猫の恋
水草生ふコンクリートの川底に
春分や日の丸なびく家しづか
春の夜のふせて置かるるマグカップ
外階段ひなぎくに行き止まりたり
桜蘂ふるドアノブにビニル傘
泪では落ちぬマスカラ雲雀鳴く
さみしいと先に言はれし春の月
背凭れに人のぬくもり鳥雲に
道迷ふたび逃水を追うてをり
手かざせば水流れけり春の雷