2020-04-19

【2019落選展を読む.3】中の人について 上田信治

【2019落選展を読む.3】




中の人について


西村麒麟「玉虫」と中田剛「猫は飼はねど」を読む



上田信治





「2019落選展を読む」今回は、受賞作である西村麒麟さんの「玉虫」50句と、中田剛さんの「猫は飼はねど」50句を読みつつ、あわせて、俳句の中の主体ということについても、考えていきたい。



尊敬する書き手二人の作品なので、力を尽くして読むつもりだ。



西村麒麟「玉虫」

2019角川俳句賞受賞作

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1句目から引いていく。



平成は静かに貧し涅槃雪



草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」の変奏。シリアスに見える句だけれど、時代が強いた貧しさを多くの人が「喰らって」しまっている現状にあって「涅槃雪」は誰目線のやさしさ?という気がしないでもない。平成哀歌(エレジー)といったところか。



涅槃図の迦陵頻伽が泣き止まず



麒麟さん自身の「夕べからぽろぽろ泣くよ鶯笛」(『鶉』)と比べれば、こちらは、ちょっと泣かせてみましたという、いわば絵空事の泣き。しかし、キモチワルイ人面鳥の迦陵頻伽が、昔風の美人の顔で(無表情で?)泣いているというのはおもしろい。ただ「泣き止まず」の「止まず」は、だいぶ演出が入っている。



「玉虫」の50句は、趣味的でよくコントロールされている、という印象ではじまる。



白魚の上を白魚流れをり

口開けて大黒天や春の山

まだ弱きぼうふらのゐる彼岸寺

田螺より出て来る顔のやうなもの



6句目まで、省略せずに引いた。「白魚」と「田螺」の句、いわゆる写生句のテンプレートを使って書かれているが、白魚が上と下でべつべつに流れるというのは、実際にありうるだろうか、田螺が出す頭部を「顔のやうなもの」と言えるだろうか。これらは、写生句のかたちをした句であって、写生の句ではないように思う。



「玉蟲」の句の多くは、虚子に源流を持つ昭和までの俳句に似て見えて、じつは、すこしフマジメに(と言って悪ければ)メタ的に書かれている。フェイクというか、フォニーというか。



それは、西村麒麟という人が、もともとやっていることでもある。



昼酒が心から好きいぬふぐり 『鶉』

どの部屋に行つても暇や夏休

マンゴーに喜び月に唄ひけり 『鴨』



彼は、こういうノンキナトウサンのような主体を句中に存在させることに、情熱を傾ける。そのように虚構的に生きること自体が、彼の願望でもあるのだろう(*) 



以前、麒麟さんは、すごい俳人になりたくて伊那谷に移住した若き日の話を書いていて、ものすごく面白かった。https://weekly-haiku.blogspot.com/2012/03/blog-post_3551.html



麒麟さんの俳句世界には、ちょっと甘えた弱っちい彼が、周囲の愛情と美の世界に支えられて楽しく生きる日常が描かれている。彼の多くの句は、その呑気なキャラクターが書くにふさわしい、ねじの一本抜けたようなふわふわ感が特徴で、そこにときどき、ふつうに見事な出来の句と、真情を伝える声がまじる。



大好きな春を二人で待つつもり 『鶉』

水浅きところに魚や夕焚火 『鴨』

朝食の西瓜が甘し思ひ出帳



「玉蟲」の50句にも、ふわふわした句と、見事な句がある。



川蟹をばちんばちんと切る鋏

スケートの下手で歩くや父と母

炬燵より出て丁寧なご挨拶



ふわふわした句の無造作さは、下手作りとでも呼ぶべき彼の方法で、日常語に近いふだんの意識から地続きの言葉(「ばちんばちん」「下手で歩く」「父と母」「ご挨拶」)によって、現実との接触を保ちつつ、それを書く「中の人の呑気さ」というメタ的な価値を主張する。



蟇浅瀬を歩き続けをり

星涼し眠らぬ魚を釣り上げて

どの絵にも小さく猫や水の秋



」の句、夜の景だろうか、産卵のために水辺をずささずささと歩いている蟇を、見下ろしているのだろう。景をただ素直に言って、心境的なものを感じさせる。



星涼し」の句、夜釣りで釣り上げる魚を、自分と同じく「眠らぬ魚」なのだと述べる、その甘い抒情を支えているのが「星涼し」という甘い季語、というバランスがいい。



いちいち猫が描かれた「」は、そんなに立派な絵ではなさそうだけれど、彼はそれを親しく感じたのだろう。その低さの肯定と「水の秋」という美的かつ抽象的で水平の広がりを志向する季語とのバランスが、またいい。



いっぽう、この50句では、例の甘えた彼の姿を見かけることが少なかった(「友達の家に大きな甲虫」「待春や金魚ちらちら我を見て」「我もまた春の焚火を欲すもの」あたりは、そうか)。彼も、青年からおじさんへの転換を模索しているのかもしれない(ふつうに賞対策かもしれない)。



しかし、こういった句。



後列の頑張ってゐる燕の子

ほどほどに詰まらぬ話ところてん

その辺にどかと座るや夏祭

唐辛子ばかりの鍋の見えにけり

蘆刈の人がロビーで休みをり

消えさうなほどにおでんの大根煮え



ゆるキャラである「麒麟さん」が書いているという設定が効いていない。ゆるさに対する「中の人」(*)の操作意識が見えないので、伝統俳句の弛緩したマンネリズムの、フェイクをやるはずが「そのもの」になってしまっている。



「中の人」は、作中主体あるいは作品に現れる作者像を、着ぐるみを着るように操作する主体くらいの意味で使う。



前回も書いたけれど、麒麟さんの書法に大きな影響を与えているのが、高浜虚子の、ただごと、低佪趣味、平句性といった部分だ。



川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子『五百句』

梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け   〃   五百五十句時代



虚子は、自身の本領である練られた声調、蓄積された美意識といったものを、いきなり手放して、価値と見なせるものが何もない、ガランドウのような句を作る。



それは、虚子のライバルたちが誰も持っていなかった独特の領野で、けっきょくその部分が現代俳句に長く深い影響を残した(筆者自身、俳句への主たる関心は、ずっとそこにあった)。



以前「ただごと」の方法について、デュシャンの「泉」以後のオブジェにあらわれる私的なニュアンスになぞらえて、論じたことがある。

オブジェや「ただごと」の「空白」は、「約束」に対する期待とはぐらかしによって「空白」たりうる。基本的に「人が良い」立場を強制される観客は、提示された「空白」に吸引され、何ごとかと耳をすます。
そのとき展示台の上にあるものは、「約束された美」の不在という事態であり、世界から文脈が抜け落ちたあとに残る、捉えどころのないもののいくつか(たとえば質感とか)であり、最終的には、それを選んだ本人の消息のようなものである。(「ただごとについて」2009)
https://weekly-haiku.blogspot.com/2009/06/blog-post_28.html



筑紫磐井さんは、それを「ゼロ化」の手法と呼んでいた。

外部要素をゼロ化(形式化・記号化・無意味化)し、内部要素も極力ゼロ化する(…)このようにしてゼロ化した構文の上に微妙な意味を乗せることにより生まれる成功が、俳句は何かを答えてくれるであろう。(『近代定型の論理』2004)
虚子のガランドウの句には、無意識の底を見せるようにして、放心、孤独、ふてぶてしさなどが露出している。



麒麟さんの方法は、ゼロ化した構文に、キャラ的な自画像を直接間接に描き込むことだった。



それを操作的に意図的にすることで「中の人」の願望を、切実さにおいて読者に共有させるという、一回転したメタ性が、彼の句に作品と呼ぶに足る構造を与えていたのだと思う。



「ただごと」が、パターン化したゆるさを書き手に許すだけなら、何も生まれないのは当たり前のことだ。昭和平成と長らくそのあたりを掘り続けてきたので、ジャンルの現在がそれにだいぶ飽きてしまったというか、陳腐化すれすれのところに来ているのかもしれないということを、今回の受賞両作を読んで感じた。



玉虫のゐるとは聞いてゐたりしが



50句の表題句。けっきょく、玉虫はいたのだろう。しかし「玉虫がいた」ことと「玉虫がいると聞いていて、やっぱりいた」ことには、心持ちの違いがある。その微差は、言葉にするのがむずかしいけれど、言われてみればよく分かる。知っていて、触ったことのない、心の一部分があることに気づかされた。



それを提出する身ぶりには、分かっている者だけに向けた目配せがあって、このような(いわば後藤比奈夫的な)微差の追求とディレッタンティズムは依然として「ただごと」の可能性であり、麒麟さんの今後の方向でもあるのかと、思った。





中田 剛「猫は飼はねど」



6. 中田剛「猫は飼はねど」≫読む



中田剛さんは、先日惜しまれつつ休刊した「白茅」の代表(共同代表)。宇佐美魚目、飴山實に親炙し「晨」「翔臨」「古志」「円座」の創刊に参加した。



審査員諸氏とまったく同格の「俳句史に残る」(そらぞらしい言い方に聞こえるかも知れないが)側の作家だ。



端正で抽象的な句風は、やはり魚目あるいは裕明を連想させる。『セレクション俳人 中田剛集』に収録の評論には、虚子、槐太、耕衣の名もある。



日輪のほとりくらくて浮巣かな「翔臨」

うづくまる兎にはとり露の中

つちくれを握れば秋の湿りあり「白茅」

雪搔の果は氷砕くなり



と、そういう人なので、昨年の角川俳句賞への応募はそれ自体驚きだったし、「落選展」にご応募いただいた作品を一読し、また驚かされた。



女から生まれる男柏餅



1句目。

北大路翼さんの句のようだ。構造が単純で、言っていることの面白さに乗れるかどうかが第一関門になるようなタイプの。



しかし「女から生まれる男」という、意味は分かっても気持ちが確定しない言明と「柏餅」という両性具有的な季語の関係は、イメージを包摂し合って複雑である。



つづけて引いていく。



羽ばたきてばかり歯痒し燕の子

新緑や百葉箱の移されて

はからずもなかぞらに折れ鯉幟

ベランダの方から悲鳴子供の日

まつはれるものをほどきて子供の日

梅雨に入る四阿はうち捨てられて



7句目まで、略さずに引いた。



どの句も、言明すること述べることが前面に出ている(ゆえに、あまり成功していないと思う)。



ベランダ」「四阿」の句には、見逃しようのない崩壊の感覚があり、それはどの句にもうっすらと共通している。



新緑や」の句は、新緑と百葉箱の連想が自然だからだろう、いったん思い浮かべた百葉箱が、目の前で運び去られるような錯覚が生じるのが、面白い。この軽く言い流したような詠みぶりは、氏の「白茅」や「円座」での近詠に現れていた傾向だ。



つづけて引く。



瓜人大先達と梅雨疎みたる

かたつむり其角は酒の肴とす



それぞれ「虫偏の字なども厭ふ梅雨の夜は 瓜人」「かたつぶり酒の肴に這わせけり 其角」の本歌取り。



緑さす歌声喫茶しんかんと

緑さす京都は水の合はぬ地よ



この50句、同じ季語、同ベクトルの句が続きがちであることと、抑制しない詠みぶりとを見ると、比較的短い期間で書き下ろされたのかもしれない。



緑さす」の二句に戻る。『コレクション俳人』の年表によると、中田さんは、十代の頃から京都在住だそうだけれど、水が合わないと思われることもあるのか。



しかしその表出が「緑さす」とともに示されることには、複雑な興趣がある。初夏の季節のよろこびが身体的に入ってくる「緑さす」という季語を置き、しかも山も自慢、水も自慢の京都にありながら「水が合わないんだよな」と独りごつ。この、つぶやきの頑なさ、意識無意識の葛藤の提示はそうとうに面白い。



そして「歌声喫茶」の句、また青春にふさわしい季節がきているのに、この場所は、窓からその外光を入れながら、すっかり老いてしまっている。「しんかん」=「森閑」の皮肉が効いて、歌声喫茶は苔むす森のように静かだ。



以下、これはと思う句を引いていく。



碑をでたらめ読みす爽やかに



」は歴史で死者で「でたらめ読み」は現代人の感性だ。そして、生きて身体のある自分だけが感じる風が吹いている。



俳諧の野卑愛すべし烏瓜



そういうことかと思う。



宇佐美魚目や田中裕明は現代俳句の極北であり、中田剛は彼らと共通する境位で書いてきた作家だと思う。しかし、人間の生は長いようで短く、短いようで長い。中田さんは変化することを選んだのだろう。それは「夾雑物を廃した洗練」(宇多喜代子『戦後生まれの俳人たち』2012)「一句の向こう側に作者が居て、その作者の周りに世界が広がっているというのではない世界のあり方」(山西雅子『セレクション俳人 中田剛集』2003)を、いったん離れるということだ。



かつて中田剛は「私」を主体として句中に書き込むことがほとんどない作家だった。



私は俳句にダイアローグではなくモノローグをもとめたい」(『セレクション俳人』あとがき)といいつつ「見ているものと見られているものの閾がない俳句を作りたいと思う」(同)という、中田自身の言葉をベタにつなげば、「私」が読者に語りかけるのではなく「もの」をしてそのモノローグを語らせる、ということになるだろうか(*)



「見ている」私が句中に書き込まれることが多いと指摘される西村麒麟とは対照的だ。



しかし「俳諧の野卑愛すべし」とは、作句の構えを転換し、自らのナマな感情を描きこむことで、一句の中に「いてやろう」そして「歌ってやろう」という意志の表明ではないか。



結果、この一連においては、「中の人」の存在を想定する必要がない。私性のありようがストレートかつナイーブなのだ。



くたくたの背広で芭蕉忌を修す

生真面目に戯けてみせて年忘

拡げたる翼引きずり初鴉



いずれも、多分に言い過ぎで名吟とまではいかなくても、だからこそ生真面目すぎて哀しく、そして可笑しい。



「人間を書く」といういわゆる「文学」的な主題を、私たちの世代は気恥ずかしいものにしてしまったけれど、人が書いて人を動かすものなのだから、そこに(どんな迂回路を使っているとしても)「人間」は扱われている。



てのひらの僅かな水に蝌蚪うごく

桜咲きほどなく忘れ人の恩

上げし足降ろすの止めて子猫それ

握り飯だらだらと食ひ花疲れ

春のくれ野良猫を撫で蔑まれ



このような句の数が揃っていたら、ふつうに受賞して、そして作者の名を知った審査員を絶句せしめていたと思う。



桜の下で関係のない「人の恩」の話をしている人「子猫」の足の動きを精妙に観察している人(怪我をした烏を見ていたのときっと同じ人だ)、ほどけおちる「握り飯」と散る桜のアナロジーを感じている人。いずれも、ひどく疲れているけれど、そのまま世界と親和してもいる。季語と五七五定型との調和によって(つまり一句の成功によって)人が遡行的に救われているのだ。



花散るや幹を叩かば堰切りて



堰を切ったように、花が、感情があふれ出すのを見たいというのは、人の願望である。はたして、幹を叩くこの人は、花を散らすことができたのか。満開の花の幹を、さあ散れ、あふれ出すところを見せろと、叩く手は痛かろうし「幹を叩かば堰切りて」と詠う心は泣いている。集中随一の一句と思った。





落選展を読む.1

https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/03/20191.html



落選展を読む.2

https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/04/20192.html



2019「角川俳句賞」落選展 

http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/655-2019-11-10-2019-1.html


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