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2020-05-31

【2019落選展を読む.5】「私性」と自由 古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む 上田信治

【2019落選展を読む.5】

「私性」と自由

古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む

上田信治



今回は「8.みみづくの散歩」(古川朋子)と「9.花のゆうべ」(丸田洋渡)の2作品を読み、あわせて、高山れおなさんが2019年のベストにあげていた句集、ふけとしこさんの『眠たい羊』についても書きます。

三つの作品を取りあげるのは、それらが俳句に表現される「私性」の現在地点をよく現しているように、思えたからです。



2. 古川朋子みみづくの散歩 >>読む

古川さんは「蒼海」(堀本裕樹主宰)所属。第6回星野立子新人賞を受賞。角川俳句賞でも2016年(*1)2017年と一次予選を通過した注目の作家です。 

春の川生きて可笑しなことを言ふ

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

みみづくの散歩はひとの肩の上

室咲やひとりにひとつ長机

初夢に見てにぎやかなお正月

戸を引けば階段のある寒さかな

いちにちは全き青のヒヤシンス

さて。

春の川生きて可笑しなことを言ふ

内容は、人がふつうに生きていて感じるであろう、生への肯定。けれど、この「生きて」は出そうで出ないフレーズで「盆踊人に生まれて手を叩く」(岩淵喜代子)「水無月や地球に生まれ傘をさす」(山本紫黄)のような、人間のどうしようもなさを描いた句を思い出した。つまり、この句は、日常のスケッチのようでとても思弁的で、生のストレートな肯定のようで、かすかに淋しい。

またそれは、単独では成立ぎりぎりの不安定なフレーズなわけだけれど、その不安定さとバランスする「春の川」によって価値が確定している。

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

けふ日曜の」の調子の良さと「この感じ」の大胆さ。冗語に冗語を重ねることは、日曜日の感じを出すための、認識の引き延ばしであり、また「鯔跳ねて」のあとにしばらくの時間があったことの強調でもある。

ある時間の中の一瞬の偶然が、平板な生の持続に何の影響も与えない(かのように見えて、何かを動かしている)。それは誰もが見たことのある「」がはねるという現象(季語でもある)から析出された、普遍的な何ものかだ。

この季語に対する意識の深さは「春の川」から生命感を浮かび上がらせる繊細な手つきにもあらわれている(擬人法と考えると全く面白くなくなるので、そうは取らない)。

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

室咲やひとりにひとつ長机

牡丹雪」のやわらかさと終わった季節の名残であることが「かさぶた」に二重写しされること(この取り合わせは、津川絵理子さん的に上手い)。「菫草」の句に、さらりと芭蕉が重ねてあること。海水浴場だろうか、この「山の近」い海が、すでにすばらしく涼しく、それによって「氷水」の価値にさらに繊細なチューニングが加わっていること。「室咲」の句が、習字教室?を思わせつつ暗示にとどめ、物だけを書くことで(季語を場面の一要素に縮小することなく)くっきりとオブジェ化していること。

これらの句、言葉の運用も内容も人を驚かせることが少なくストレートでありながら、複雑なたくらみがしかけられ、立体化がなされている。

そうやって、俳句という小さな詩型のもつインティマシー(親密さ)を大切にしながら、詩として高度なものを作り出していることに、この作者の志向するものが見える。

微量の不自然さを含む語法に見られる新しさへの意志と、季語の扱いに現れる繊細さと複雑性。ここには、いわゆる「平成俳句」の可能性を生きのびさせる方向が現れているのではないかと、わりと本気で思っている。

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

みみづくの散歩はひとの肩の上

初夢に見てにぎやかなお正月

これらの句に現れた「親しさ」「かわいさ」もまた、俳句がまだ攻め尽くしてはいない可能性だろう。こういったものを「かわいい」と感じることを自分に許すことも、また「私性」の俳句への持ち込みである。(*2)

滝の音すこし歩めば川の音」「しづけさのまま夜に入る野分あと」のような(俳句読者全体との距離を計量するような)常識的な作や「また少し夕日くづれて梨の花」「神さまに輪郭のある涼しさよ」「いきいきとおたまじやくしに蛙の目」のような、面白さはありつつも、ゆるさや強引さを感じる句もある。
 
古川さんには、この際、ご自身が、俳句の最も新しい価値の一部を作りつつあるということに、開き直ってしまわれることを期待したい。



*1 古川さんの2016年作品はこちら 

>>「逃水」

*2 2010年に「ゼロ年代の俳句100句」というミニアンソロジーを作った際「私性=ノーバディな私による「私」語り」という項目を立てたのだけれど、そこには、まだ野口る理さんも福田若之さんも名前がなかったわけです(あれから10年かあ、とこれは個人的つぶやき)。

ここしばらくの、俳壇で話題となった作者・句集を固めて読んでいて気がついたのは、非常に小さな、ささやきやつぶやきのような句の多さです。それらを、ノーバディな=誰でもない、誰でもいい、どこにでもいる(しかしまぎれもなく、どこかにいる)「私」の声、というふうに名付けてみたら、ふに落ちるものがありました。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/06/100_2462.html



9.  丸田洋渡「花のゆうべ」>>読む

丸田さんは、20代前半の若い書き手。平野皓大、柳元佑太、吉川創揮さん達とともに、短詩形ブログ「箒」を創刊。こちらで、定期的に近作が読めます。

http://houkipoetry.com/



春暁の谷を隔てて鳥と鳥

鷲の巣や静かな場所で書き直す

噴水のひよひよとでて巻きもどる

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

風鈴を繋げるように坂上る

朝曇二つしかない家の鍵

吾亦紅夢に出てくる町の地名

鹿の毛の斑らに光るところあり

鵯や妹にまだ小さな手

寒鯉は手をかえす踊りのように

この人も、俳句を「私的」に書こうとしている。

俳句はともすれば、いわゆる「個性」をいったん棚上げし、共通の価値観によって、作品を律することを好む。とりわけそれは「修練」や「師承」を強調する、結社の主流をなす考え方で、それは、若書きが素朴派的に面白くなってしまうことを、「いったん」抑圧しておくことに大きな意味があるのかもしれない。(*3)

逆に短歌は「一人称」であることが、エートスとして、はじめから分けもたれているらしい。少なくとも入り口段階において、共同性のあり方が、私性をめぐって逆なのだ。

しかし、もしまだジャンルに試し尽くしていないエリアが見えたなら、そこへ突っ込むように試行を重ねることは、あとから来た者の務めだろう。とりわけ、はじめから作家であろうとする自恃のある書き手であれば。

鷲の巣や静かな場所で書き直す

鷲の巣」を見て、それに背をむけて、自分の場所に戻る。見たと思ったらもう自分の場所に帰っている(ここには時制の齟齬があるのだけれど)その性急さに、俳句的な私性のあらわれがある。つまり、自分は、この人が「静かな場所で書き直そう!」と言っていると読んだのだ(「鷲の巣」と「静かな場所」が同じ一つのもののように取れることは、句の結構を弱くしているかもしれない)。

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

やはり、さいごに「!」を足して読みたくなる性急さを感じる二句。「芍薬」の川柳的な言明もいいけれど、「五月の犬」の、そこまでゆるく進んできて(「さしかかり」は相当ゆるい)下五で急に、そう思ったからそう言った感じ(つまり「五月の犬!」)は楽しい。

春暁の谷を隔てて鳥と鳥

噴水のひよひよとでて巻きもどる

朝曇二つしかない家の鍵

鹿の毛の斑らに光るところあり

こちらは、採点競技的にも、得点がねらえそうな句。

この人は、ウェルメイドな句ものへの志向と、私的なものへの志向を合わせ持っていて、そのバランスを見つけようとしている所なのかもしれない。筆者はそのゆらぎに魅力を感じている。

とりわけ「朝曇」の句の、なにに文句を言ってるんだか分からない(イコール詩的に上質な)淋しさと、色彩に惹かれた。

鵯や妹にまだ小さな手

はじめ「カササギ」と空目して恋の句と思ったのだけれど、「」であれば、現実の記憶。「まだ/小さな」と句切れをはさんで読み進めると、手の中の妹の手がしゅーっと小さくなっていくような、時間が巻きもどって自分も子供にもどってしまうような、魔法的な美しいイメージが手渡される。

「や」と打ちだして、遡行の出発点に眼前性を加えたこともよい。

既視感がないとは言えない内容だけれど、むしろ、普遍的なものに、言葉で微量のマジックを加えているというべきだろう。佳句だと思う。

*3 若い落語家たちの群像劇である映画「のようなもの」(森田芳光)は、そのあたりの事情をうまく点描していた。







ふけとしこ句集『眠たい羊』(ふらんす堂)

ふらんす堂オンラインショップ

ふけとしこさんは、「カリヨン」(市村究一郎)をへて「椋」(石田郷子)「船団」(坪内稔典)に参加。『眠たい羊』が第五句集となるキャリアの長い作者。

ふけさんのような作家の句集と「落選展」の作品を、並べて鑑賞することに、失礼さを感じる方もいらっしゃるかもしれない。

しかし新人賞の応募作には、同時代のもっとも先端の問題意識があらわれている(あるいは、少なくとも「べきだ」)と、自分は思っていて、その同じ課題を、ふけさんの句集は「分けもっている」と感じたのだ。(新人賞の応募作もまた、作家の作品として読まれるべき、ということも思います)

『眠たい羊』は、本当に佳句揃いの句集なので、ランダムに引いていきます。

日が溜まる大根畑の足跡に 

足跡が刻印された瞬間と、そこから経過した時間、そしていま私がそこに視線を向けている時間、と一つのアングルに、いくつかの時間が書きこまれている。それは、そこに痕跡をのこした人が今はいないということだけが、描かれている絵でもある。土の軟らかさと、色彩の対比が心地よい。

鉄橋の三角三角春がくる

淡雪や干菓子焙じ茶いただいて

調子でできているような二句。

なのだけれど「三角四角」といえば字数が合うところを、あえて「三角三角」で中八にしている、この破調、胸にきませんか? 「春が来る」をこう配してのこの「三角三角」は、人をはげます調子であるように思えた。

淡雪」の句。「干菓子焙じ茶いただいて」の助詞を飛び石のように飛ばしていく軽さと、主人公が室内画の一部にでもなったような静かさとの、微量のアンバランスに興趣がある。

自分が「三角三角」や「干菓子焙じ茶いただいて」に句会で出会ったら「わがままな言い方」と評すだろう。もちろんいい意味で。

前回取り上げたクズウさんのような(あるいは、生駒さんや青本さん達のような)言葉に負荷をかけてたわめていくのではなく、もう少しカジュアルに、楽に、言いたいように言葉が使われている。

要するに、自由度が高い。

というと「型や形式を逸脱しない中にも自由はある」という話を出してくる人がいそうだけれど、そういう「不自由」を感じない(感じさせない)から「自由」ということではなく、もっと積極的に、書きたいように書いてはみだしてしまう、むしろはみ出してしまう自分の勝手さを面白がるという、私性と自由を、一つのものとして追求していく書き方がある。

もっとも、自由であろうとすることは、それなりに「家賃の高い」行き方でもあって、それこそ天然ものの「上手さ」と「品の良さ」がないと、目も当てられないことになるのだけれど。

梅花藻の水にタオルを絞りけり

ご無体なようだけれど、雑巾じゃないんだから、きっとこのタオルの水もきれいなんだろう(というような「品の良さ」の話をしている)。

季語・水草の花の本意(*4)は、たぶん「別天地」なので(「河骨に金鈴ふるふ流れかな 茅舎」「水草に白楼ひくき門もてり 多佳子」)、タオルの水をジャーとしぼるのは、あの世とこの世、肉体と抽象の次元のちがいを攪乱し、ひとつながりにしてしまうことだ。

山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり

この理屈の通らなさ。というか、あやうく通ってしまいそうになる理屈の、念の入ったナンセンスには、滋味掬すべきものがある。優雅と言えばいいのかな。ほんとうに何の意味もないけれど、なんとなく色合いもキレイだ。

春昼や壁へ広がる湯気の影 

擂粉木をつるりと洗ひ夕長し

風鈴や酢へ放つべく魚を切り

待春やスープの底にひよこ豆 

発想が、生活感情に近い。

偉大なる明治大正時代に生きあるいは生まれた人々(主に男性)とは、どうにも、もともと人間が違う。偉大さや荘厳さが身に沿わないという「私たち」が、この世にいる。

小さくひそやかで親密であることで、その感受性の正当性を訴える。それがいわゆる「石田郷子ライン」(と筆者を含む何人かが一括りに呼んでしまった作家たち)の、分けもった時代精神なのだと思う。

そして「擂粉木」の句の「つるりと」、「風鈴」の句の「放つべく」という言葉の軽さに、この人の固有性がある(もちろん「船団」の流儀でもある)。

雀蛾に小豆の煮えてゐる匂ひ

山の日の丸テーブルを三つ寄せ

義士の日の混み合うてゐる足湯かな

雪の日を眠たい羊眠い山羊 

雀蛾」という、蛾の中に雀がいるような奇体ないきものに赤茶色の小豆の匂いを重ねて混乱させたり、「丸テーブル」を三つ寄せることの落ち着かなさと由来のない祝日「山の日」のよるべなさを寄り添わせたり。「」と「山羊」と「眠たい」と「眠い」の違い(字数でしかない!羊と山羊は違う生きものなのに)などなど。この句集の、オリジナルな面白さを数えていけば切りがない。

とりわけ「義士の日」の句。ごく当たり前の日常風景なようで(忠臣蔵といえば雪の日にざっざっざっと歩いて行くわけですから)四十七士の足だけの幽霊が現れたかのようにも読める、その知的なはからいに大いに喜びました。

製材所の焚火のなんといい匂ひ

そして、この、そりゃそうだろうなあ、っていう、計らいの無さも。



*4 裏本意については、昔こちらに書きました。>>

2020-04-26

【2019落選展を読む.4】「新しい」と「深い」 上田信治

【2019落選展を読む.4】



「新しい」と「深い」

橋本小たか「凄い坂」とクズウジュンイチ「水路」を読む

上田信治


今回の「落選展を読む」は、編集部による一次予選通過作であるクズウジュンイチさんの「水路」と、同じく予選通過作、橋本小たかさんの「凄い坂」(「俳句」2019年11月号掲載)を読みます。

合わせて、俳句の「新しさ」と「深さ」について、考えたことを書けたらと思っています。


橋本小たか「凄い坂」

2019角川俳句賞一次予選通過(本誌に50句掲載)
「俳句」2019年11月号 >> https://amzn.to/2yqQ4dG

「凄い坂」は小澤實さんの◎で、受賞2作に続く評価を得た作品。

橋本さんは「円座」「秋草」所属。「円座」の武藤紀子さんが、新しい感覚をもっていると橋本さんを、「秋草」の山口昭男さんに預ける格好で、二誌所属となったそうだ。橋本さんは『たてがみの掴み方 俳人・武藤紀子に迫る』という武藤さんが俳句人生と作品を語り尽くす、メチャクチャ面白い本の、聞き役まとめ役でもある。

1句目から7句目まで、略さずに引く。

飼つてゐる羊に梅の咲きにけり

南座に今灯のともる田螺かな

夏燕道路標識青と赤

見てゐれば家の人くる幟かな

棕櫚一本花さく家へ凄い坂

大皿の鰹にサランラップかな

門あけてすぐに玄関蝉丸忌

ここまで読んで、この人は「新しい」と思った。「新しい」に「 」(かっこ)をつけたのは、何を新しいとするかは、意見の分かれるところだからだけれど、そのことに同意してもらえるかどうか、一句ずつ検討していきたい。

飼つてゐる羊に梅の咲きにけり

一見ふつうの句に見えるけれど「飼つてゐる」という導入から「咲きにけり」への展開には異様なものがある。通常の構文意識であればこうは続けない。日常の意識のあり方から断絶した、と言って大げさなら、数センチの浮遊。よく見ると地に足が着いていないのが自分の俳句だということを、巻頭の1句めから表明しているのだ。

南座に今灯のともる田螺かな

芭蕉の「田一枚」あるいは、岸本尚毅「手をつけて」と同じ取り合わせの「かな」という型。そのことはいいとして、その場所に田螺がいる? すぐ近くに川はありますけど、鴨川が。田螺が「蛙の女郎買い」のように、夕暮れの田んぼから町の灯を遠望しているのか、あるいは屋根の形からの連想か(だとしたら、ずいぶん豪勢な田螺)。ともかく一見ふつうに見えて、大きくデフォルメされた取り合わせだ。

夏燕道路標識青と赤

虚子の「線と丸電信棒と田植笠」を連想させる、写生の行きすぎた(やりすぎの)純粋主義の再現。「夏燕」の空への広がりがいい。

大皿の鰹にサランラップかな

冗談のような「かな」といい、素材といい、きわめて意識的にモダナイズされている。

見てゐれば」の句には「の人」というずいぶんな口語がすべり込ませてあるし「蝉丸忌」から連想される交通のイメージと「門開けて」の取り合わせも、まったく伝統的ではない。

棕櫚一本花さく家へ凄い坂

凄い」は活用も口語「坂」に接続することも口語的。これが表題句なのだから、ますます作者のスタンスは明らかで、この人は「新しい」ことをやって、賞を獲る気なのだ(その気持ちはすごく分かる)。

下から見上げる人の目に、高く伸びた棕櫚が見えているのだろう。それだけ伸びる時間が経過した家は(自分の生家ではなくても)誰かにとっての懐かしい家だ。そして、そこに到る道がめちゃくちゃな急坂だというw なんで、この家の人はこんなとこに住んじゃったか、という可笑しさ。棕櫚の花は初夏なので、その坂は気持ちよく登れるというものだけれど。

50句通して読んでみて、この人はまず「作り方」を意識して書く人だ、と思った。

1句目の「飼つてゐる」のような、すーっと入る導入(素十がよく使う型だ)の句は、今作に「見てゐれば家の人くる幟かな」「まづひとつ螢袋になってをり」「やってきて芋の葉ほめる漁師かな」「そのなかにアロエの猛る片かげり」「つよく吹く風の鳥籠昼寝覚」がある。

2句目の「田螺かな」のような、取り合わせの「かな」は「青田より帰りてひらく金庫かな」「バスケットシューズのきしむ菖蒲かな」「にはか雨軒に切りこむ牡丹かな」「菜の花の一列咲きし年賀かな」「道ばたに喪服かたまる青葉かな」と並ぶ。

冒頭の何句かのような、いい意味で頭のおかしい句ばかりではないし、特定の型の句が目だって多くなるのは、この人の使える「手」が、まだ、そこまで多くないということかもしれない。

とはいえ、面白い句、心惹かれる句がいくつもある。

玉葱を吊りさげてある脚立かな

取り合わせを現物でやっているような、さっぱりとしたオブジェ感。言葉は歌わず状態の説明につとめているのに、ものが季語だというだけで俳句に見える(「寝かしある庭梯子にもげんげかな」「衝立に子供の水着掛けてあり」という同形同想の句があるのは惜しい)。

農村に近い郊外の風景という俳句に親しい範囲に、道具立ては収めつつ、文体やモチーフがバレない程度に「動かして」ある。人があまりやらないやり方で、俳句を、自分の側に引きつけているのだ。

法然忌脚立の足を包む布

また脚立w 法然といえば、念仏を民衆に広めた人。その忌日がなぜ「脚立の足を包む布」なのかと問うても、説明の言葉が追いつくような取り合わせではない。

緑蔭のバターナイフとフォークかな

緑蔭の洋食器に意外性はないけれど、あの小さなバターナイフと普通のフォークの並びは、バランスをかすかに乱していて可笑しく、その間抜けさが不穏でもある。

ところで。

私たちは、いろいろな書き手がいろいろな価値基準で書いている俳句を読み、やろうとしていること自体が違う作品の、それぞれの価値を考えるわけだけれど、そのとき、芸術作品のプリミティブな実用性(なぐさめとか気晴らしとしての効用)を除いて、共通に使用可能な物差しがあるとすれば、それは「新しさ」と「深さ」ではないかと考えるようになった。

「新しい」というのは、通時的な蓄積の総体(と現時点で見えるそれ)から見て「外れ値」でありながら成立しているということで(だから、昔の人の句も、思い思いに新しい)。「深い」というのは、古い新しいは関係なく、見えないところで成立しているということだ。この「成立」は、単純に心が動くということと、俳句になっているということの両方だ(そして俳句になっていることの定義はむずかしい)。

橋本小たか「凄い坂」50句のいくつかの句は、間違いなくとても「新しい」。俳句にとってまだ例外的な方法を試み、成功していると思う。

その方法は、近年、若手作家を中心に多く試されているものにも連続していて(後半でとりあげるクズウジュンイチさんとも共通する部分がある)、方法自体で突出したオリジナリティや革新性を主張するものではない。

けれど、それらの句が穏当な「ふつう」の俳句としても読めることが、かえって、橋本さんのアプローチの私有性を目立たせている。わずかだけ違っていることが、その人の「わがまま」さの質をよくあらわすのだ、とも言えようか。

50句の半数を超える句は「ふつう」にかつてあった俳句を志向する俳句だけれど(「ライターの火の立つ匂ひ竹落葉」「さかさまに傘干す泰山木の花」「つよく吹く風の鳥籠昼寝覚」など)、自分には「棕櫚一本」のような新しみのある句が、叙景としても興趣深く読めた。

飼つてゐる羊に梅の咲きにけり

羊と梅の取り合わせは(ちょっと意外ではあるけれど)自然に近い暮らしの、日常の範囲内のモチーフだ。しかし、その羊について「(自分が)飼つている羊だ」と認識することと「梅が咲いた」と認識することは、どうにも食い合わせが悪い。

もし上五が「ひとの飼ふ」なら「羊に梅の咲きにけり」で何の問題もない。「飼ひ山羊に」「飼ひ犬に」なら「梅の咲いたる藁家かな」とでも何とでも言える。

だから、たぶん「飼つている」に隠れた「(自分が)」が邪魔なのだ。羊も梅もそれぞれ無関係に世界の側に属していて、「羊」を「飼つてゐる」などと思っている自己意識は、その世界に置きどころがないということに気づかされる。

俳句が書いたことのない、しかも俳句でしか書けないような「深さ」に触れる、驚きがあった。


クズウジュンイチ「水路」

2. クズウジュンイチ「水路」≫読む

クズウジュンイチさんを、橋本小たかさんと合わせて読もうと思ったのは、クズウさんもまた「新しさ」を追求している書き手だ、と思ったからだ。

春泥や次次と来て頭数

ほほじろや橋は架かつてゐる水路

みつばちの外働きの終ひかな

稲刈の機械に親が乗つてゐる

これはという句を、4句引いた。「頭数」。「橋は」の「」。「外働き」。「」という語の、軽い乱暴さに、おどろき呆れつつ、味読してほしい。

たとえば、この「橋は」の「」のような助詞のずらしなどのことを、前半で「近年、若手作家を中心に多く試されているもの」と呼んだ。いまどき、その助詞を「を」にするか「は」にするかなどを意識せずに書く俳人は少数派だと思うけれど、そこを、さらに一歩も二歩も踏み外してみせるというやり方である(見たことあるでしょう?)。

仮に言語の恣意的運用と呼んでおくけれど、それは坪内稔典さんの言う「片言性」を、わざとらしいほどに加速し押し進めたものでもある。

古くは西鶴の阿蘭陀流や芭蕉の漢文調、子規や虚子にもあったけれど、数奇とバサラの滅茶苦茶流みたいなものが現れるのは、俳句形式のどこかに必然性のある、先祖返りなのではないかと思う。

春泥や次次と来て頭数

頭数(になってゆく)」とうしろを省略し、わざと舌っ足らずにしていることが、この句にドラマとして発生している馬鹿馬鹿しさと虚無感によく釣り合っている。次々きては単なる員数にされていく、影のような男たち(だよね)が、春光に包まれた泥人形のようにイメージされる。

ほほじろや橋は架かつてゐる水路

橋は」の「」は、わがままが過ぎる。橋「は」架かっている……じゃあ、この人はなにが不満なんだwと。

頬白が鳴くような郊外を、水路(用水路かもしれない)に沿って歩きながら「橋は架かっている」と思うことは可能だけれど、どうしてそう思ったかは確定しない。渡ろうと思えば渡れると思ったのか、この水路を渡る人などいまい、と思ったのか。感情移入を誘いながら、それを完了させないこの句は、じつは言い終えられていないのだ。

読む人は、その謎とともに、郊外風景のなかをいつまでも歩いて行かされる。これは、読む体験として新しい。

みつばち」の句は「外働き」の語がおもしろいのだけれど「終ひ」と言ってその蜂がつぎつぎと巣に帰ってくる絵を見せるところが上手い。「稲刈の」の句、父とか母というかわりに「」という現代の若者語(いまの50代は若者)を出されて、まんまと驚かされた。この「」の言い方は、あまりに内面語に近いので、まるで、自分の親が、そして親のことを言っている自分が、俳句内に現れたようだったからだ。

この作者は、言葉をああしてみたりこうしてみたり、俳句としてぎりぎりアウトなものを、せっせと持ち込んでくる。

成功しているものも、失敗と思われるものもあるのだけれど、その失敗が返って信頼に足る。新しい何かを自前で開拓することに、価値を置いていることが、分かるからだ。

そして、もう一つ気づいたのは、クズウさんが、自前の現実をつかんでくる人だということだ。

しやわしやわと夜通し食んで夏蚕かな

鳴かずとも振る鈴虫の髭白し

駅前のカンナは錆びて話し声

秋鯖の大きな顔を落としけり

消えぎはの焚火の芯を蹴り出しぬ

横薙ぎの鳥が返してくる枯野

たとえば、動植物の登場する句に顕著だけれど、なにより、はじめに挙げた「春泥」から「稲刈」の4句。それぞれが、感情的実質と、それをはみ出す人のたたずまいのようなものを含んだ叙景になっていることは見逃せない。

その言うに言われぬものは、あらかじめどこかにあったのではなく、言葉が言葉として生まれる時に「俳句として新しいものになれ」という、無理極まる珍妙ともいえる負荷をかけられて、ねじれにねじれた末に現れたものだ。だから新しくあろうとすることこそ詩としての「王道」なのだし、そのような句を作る人は(前言をひるがえすようだけれど)やはり前もって、世界を「深く」感じているのだろうと思う。

春風の抜けて素焼の耳飾り

ひばりごと空の流れてゆきにけり

レモンふふむ大きなバスは遠くまで

小春日にいくらか笑ひ合つてゐる

このような、ひどくやさしい抒情があり、

うぐひすは北にひらけてゐる敷地

夏薊目玉に膜のあるくらし

光沢のシャツがめじろの木の根元

短くて猿のしつぽや山椒の実

このような(ときに失敗もしているけれど)軽口に近い言葉の自由がある。

今回、この50句を予選通過させたのは、編集部のヒットではないでしょうか。

舟底に寒鮒生きてゐて静か

舟底も平ら、鮒も平ら。この句の視点は、真上だろう。鮒も静か、水も静か。すべてを見下ろす神のような視点に移入する私たちも、しーんとした心持ちになる。


落選展を読む.1
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/03/20191.html

落選展を読む.2
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/04/20192.html

落選展を読む.3
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/04/20193.html

>> 2019「角川俳句賞」落選展 
http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/655-2019-11-10-2019-1.html


2020-04-19

【2019落選展を読む.3】中の人について 上田信治

【2019落選展を読む.3】




中の人について


西村麒麟「玉虫」と中田剛「猫は飼はねど」を読む



上田信治





「2019落選展を読む」今回は、受賞作である西村麒麟さんの「玉虫」50句と、中田剛さんの「猫は飼はねど」50句を読みつつ、あわせて、俳句の中の主体ということについても、考えていきたい。



尊敬する書き手二人の作品なので、力を尽くして読むつもりだ。



西村麒麟「玉虫」

2019角川俳句賞受賞作

https://amzn.to/2yqQ4dG



1句目から引いていく。



平成は静かに貧し涅槃雪



草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」の変奏。シリアスに見える句だけれど、時代が強いた貧しさを多くの人が「喰らって」しまっている現状にあって「涅槃雪」は誰目線のやさしさ?という気がしないでもない。平成哀歌(エレジー)といったところか。



涅槃図の迦陵頻伽が泣き止まず



麒麟さん自身の「夕べからぽろぽろ泣くよ鶯笛」(『鶉』)と比べれば、こちらは、ちょっと泣かせてみましたという、いわば絵空事の泣き。しかし、キモチワルイ人面鳥の迦陵頻伽が、昔風の美人の顔で(無表情で?)泣いているというのはおもしろい。ただ「泣き止まず」の「止まず」は、だいぶ演出が入っている。



「玉虫」の50句は、趣味的でよくコントロールされている、という印象ではじまる。



白魚の上を白魚流れをり

口開けて大黒天や春の山

まだ弱きぼうふらのゐる彼岸寺

田螺より出て来る顔のやうなもの



6句目まで、省略せずに引いた。「白魚」と「田螺」の句、いわゆる写生句のテンプレートを使って書かれているが、白魚が上と下でべつべつに流れるというのは、実際にありうるだろうか、田螺が出す頭部を「顔のやうなもの」と言えるだろうか。これらは、写生句のかたちをした句であって、写生の句ではないように思う。



「玉蟲」の句の多くは、虚子に源流を持つ昭和までの俳句に似て見えて、じつは、すこしフマジメに(と言って悪ければ)メタ的に書かれている。フェイクというか、フォニーというか。



それは、西村麒麟という人が、もともとやっていることでもある。



昼酒が心から好きいぬふぐり 『鶉』

どの部屋に行つても暇や夏休

マンゴーに喜び月に唄ひけり 『鴨』



彼は、こういうノンキナトウサンのような主体を句中に存在させることに、情熱を傾ける。そのように虚構的に生きること自体が、彼の願望でもあるのだろう(*) 



以前、麒麟さんは、すごい俳人になりたくて伊那谷に移住した若き日の話を書いていて、ものすごく面白かった。https://weekly-haiku.blogspot.com/2012/03/blog-post_3551.html



麒麟さんの俳句世界には、ちょっと甘えた弱っちい彼が、周囲の愛情と美の世界に支えられて楽しく生きる日常が描かれている。彼の多くの句は、その呑気なキャラクターが書くにふさわしい、ねじの一本抜けたようなふわふわ感が特徴で、そこにときどき、ふつうに見事な出来の句と、真情を伝える声がまじる。



大好きな春を二人で待つつもり 『鶉』

水浅きところに魚や夕焚火 『鴨』

朝食の西瓜が甘し思ひ出帳



「玉蟲」の50句にも、ふわふわした句と、見事な句がある。



川蟹をばちんばちんと切る鋏

スケートの下手で歩くや父と母

炬燵より出て丁寧なご挨拶



ふわふわした句の無造作さは、下手作りとでも呼ぶべき彼の方法で、日常語に近いふだんの意識から地続きの言葉(「ばちんばちん」「下手で歩く」「父と母」「ご挨拶」)によって、現実との接触を保ちつつ、それを書く「中の人の呑気さ」というメタ的な価値を主張する。



蟇浅瀬を歩き続けをり

星涼し眠らぬ魚を釣り上げて

どの絵にも小さく猫や水の秋



」の句、夜の景だろうか、産卵のために水辺をずささずささと歩いている蟇を、見下ろしているのだろう。景をただ素直に言って、心境的なものを感じさせる。



星涼し」の句、夜釣りで釣り上げる魚を、自分と同じく「眠らぬ魚」なのだと述べる、その甘い抒情を支えているのが「星涼し」という甘い季語、というバランスがいい。



いちいち猫が描かれた「」は、そんなに立派な絵ではなさそうだけれど、彼はそれを親しく感じたのだろう。その低さの肯定と「水の秋」という美的かつ抽象的で水平の広がりを志向する季語とのバランスが、またいい。



いっぽう、この50句では、例の甘えた彼の姿を見かけることが少なかった(「友達の家に大きな甲虫」「待春や金魚ちらちら我を見て」「我もまた春の焚火を欲すもの」あたりは、そうか)。彼も、青年からおじさんへの転換を模索しているのかもしれない(ふつうに賞対策かもしれない)。



しかし、こういった句。



後列の頑張ってゐる燕の子

ほどほどに詰まらぬ話ところてん

その辺にどかと座るや夏祭

唐辛子ばかりの鍋の見えにけり

蘆刈の人がロビーで休みをり

消えさうなほどにおでんの大根煮え



ゆるキャラである「麒麟さん」が書いているという設定が効いていない。ゆるさに対する「中の人」(*)の操作意識が見えないので、伝統俳句の弛緩したマンネリズムの、フェイクをやるはずが「そのもの」になってしまっている。



「中の人」は、作中主体あるいは作品に現れる作者像を、着ぐるみを着るように操作する主体くらいの意味で使う。



前回も書いたけれど、麒麟さんの書法に大きな影響を与えているのが、高浜虚子の、ただごと、低佪趣味、平句性といった部分だ。



川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子『五百句』

梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け   〃   五百五十句時代



虚子は、自身の本領である練られた声調、蓄積された美意識といったものを、いきなり手放して、価値と見なせるものが何もない、ガランドウのような句を作る。



それは、虚子のライバルたちが誰も持っていなかった独特の領野で、けっきょくその部分が現代俳句に長く深い影響を残した(筆者自身、俳句への主たる関心は、ずっとそこにあった)。



以前「ただごと」の方法について、デュシャンの「泉」以後のオブジェにあらわれる私的なニュアンスになぞらえて、論じたことがある。

オブジェや「ただごと」の「空白」は、「約束」に対する期待とはぐらかしによって「空白」たりうる。基本的に「人が良い」立場を強制される観客は、提示された「空白」に吸引され、何ごとかと耳をすます。
そのとき展示台の上にあるものは、「約束された美」の不在という事態であり、世界から文脈が抜け落ちたあとに残る、捉えどころのないもののいくつか(たとえば質感とか)であり、最終的には、それを選んだ本人の消息のようなものである。(「ただごとについて」2009)
https://weekly-haiku.blogspot.com/2009/06/blog-post_28.html



筑紫磐井さんは、それを「ゼロ化」の手法と呼んでいた。

外部要素をゼロ化(形式化・記号化・無意味化)し、内部要素も極力ゼロ化する(…)このようにしてゼロ化した構文の上に微妙な意味を乗せることにより生まれる成功が、俳句は何かを答えてくれるであろう。(『近代定型の論理』2004)
虚子のガランドウの句には、無意識の底を見せるようにして、放心、孤独、ふてぶてしさなどが露出している。



麒麟さんの方法は、ゼロ化した構文に、キャラ的な自画像を直接間接に描き込むことだった。



それを操作的に意図的にすることで「中の人」の願望を、切実さにおいて読者に共有させるという、一回転したメタ性が、彼の句に作品と呼ぶに足る構造を与えていたのだと思う。



「ただごと」が、パターン化したゆるさを書き手に許すだけなら、何も生まれないのは当たり前のことだ。昭和平成と長らくそのあたりを掘り続けてきたので、ジャンルの現在がそれにだいぶ飽きてしまったというか、陳腐化すれすれのところに来ているのかもしれないということを、今回の受賞両作を読んで感じた。



玉虫のゐるとは聞いてゐたりしが



50句の表題句。けっきょく、玉虫はいたのだろう。しかし「玉虫がいた」ことと「玉虫がいると聞いていて、やっぱりいた」ことには、心持ちの違いがある。その微差は、言葉にするのがむずかしいけれど、言われてみればよく分かる。知っていて、触ったことのない、心の一部分があることに気づかされた。



それを提出する身ぶりには、分かっている者だけに向けた目配せがあって、このような(いわば後藤比奈夫的な)微差の追求とディレッタンティズムは依然として「ただごと」の可能性であり、麒麟さんの今後の方向でもあるのかと、思った。





中田 剛「猫は飼はねど」



6. 中田剛「猫は飼はねど」≫読む



中田剛さんは、先日惜しまれつつ休刊した「白茅」の代表(共同代表)。宇佐美魚目、飴山實に親炙し「晨」「翔臨」「古志」「円座」の創刊に参加した。



審査員諸氏とまったく同格の「俳句史に残る」(そらぞらしい言い方に聞こえるかも知れないが)側の作家だ。



端正で抽象的な句風は、やはり魚目あるいは裕明を連想させる。『セレクション俳人 中田剛集』に収録の評論には、虚子、槐太、耕衣の名もある。



日輪のほとりくらくて浮巣かな「翔臨」

うづくまる兎にはとり露の中

つちくれを握れば秋の湿りあり「白茅」

雪搔の果は氷砕くなり



と、そういう人なので、昨年の角川俳句賞への応募はそれ自体驚きだったし、「落選展」にご応募いただいた作品を一読し、また驚かされた。



女から生まれる男柏餅



1句目。

北大路翼さんの句のようだ。構造が単純で、言っていることの面白さに乗れるかどうかが第一関門になるようなタイプの。



しかし「女から生まれる男」という、意味は分かっても気持ちが確定しない言明と「柏餅」という両性具有的な季語の関係は、イメージを包摂し合って複雑である。



つづけて引いていく。



羽ばたきてばかり歯痒し燕の子

新緑や百葉箱の移されて

はからずもなかぞらに折れ鯉幟

ベランダの方から悲鳴子供の日

まつはれるものをほどきて子供の日

梅雨に入る四阿はうち捨てられて



7句目まで、略さずに引いた。



どの句も、言明すること述べることが前面に出ている(ゆえに、あまり成功していないと思う)。



ベランダ」「四阿」の句には、見逃しようのない崩壊の感覚があり、それはどの句にもうっすらと共通している。



新緑や」の句は、新緑と百葉箱の連想が自然だからだろう、いったん思い浮かべた百葉箱が、目の前で運び去られるような錯覚が生じるのが、面白い。この軽く言い流したような詠みぶりは、氏の「白茅」や「円座」での近詠に現れていた傾向だ。



つづけて引く。



瓜人大先達と梅雨疎みたる

かたつむり其角は酒の肴とす



それぞれ「虫偏の字なども厭ふ梅雨の夜は 瓜人」「かたつぶり酒の肴に這わせけり 其角」の本歌取り。



緑さす歌声喫茶しんかんと

緑さす京都は水の合はぬ地よ



この50句、同じ季語、同ベクトルの句が続きがちであることと、抑制しない詠みぶりとを見ると、比較的短い期間で書き下ろされたのかもしれない。



緑さす」の二句に戻る。『コレクション俳人』の年表によると、中田さんは、十代の頃から京都在住だそうだけれど、水が合わないと思われることもあるのか。



しかしその表出が「緑さす」とともに示されることには、複雑な興趣がある。初夏の季節のよろこびが身体的に入ってくる「緑さす」という季語を置き、しかも山も自慢、水も自慢の京都にありながら「水が合わないんだよな」と独りごつ。この、つぶやきの頑なさ、意識無意識の葛藤の提示はそうとうに面白い。



そして「歌声喫茶」の句、また青春にふさわしい季節がきているのに、この場所は、窓からその外光を入れながら、すっかり老いてしまっている。「しんかん」=「森閑」の皮肉が効いて、歌声喫茶は苔むす森のように静かだ。



以下、これはと思う句を引いていく。



碑をでたらめ読みす爽やかに



」は歴史で死者で「でたらめ読み」は現代人の感性だ。そして、生きて身体のある自分だけが感じる風が吹いている。



俳諧の野卑愛すべし烏瓜



そういうことかと思う。



宇佐美魚目や田中裕明は現代俳句の極北であり、中田剛は彼らと共通する境位で書いてきた作家だと思う。しかし、人間の生は長いようで短く、短いようで長い。中田さんは変化することを選んだのだろう。それは「夾雑物を廃した洗練」(宇多喜代子『戦後生まれの俳人たち』2012)「一句の向こう側に作者が居て、その作者の周りに世界が広がっているというのではない世界のあり方」(山西雅子『セレクション俳人 中田剛集』2003)を、いったん離れるということだ。



かつて中田剛は「私」を主体として句中に書き込むことがほとんどない作家だった。



私は俳句にダイアローグではなくモノローグをもとめたい」(『セレクション俳人』あとがき)といいつつ「見ているものと見られているものの閾がない俳句を作りたいと思う」(同)という、中田自身の言葉をベタにつなげば、「私」が読者に語りかけるのではなく「もの」をしてそのモノローグを語らせる、ということになるだろうか(*)



「見ている」私が句中に書き込まれることが多いと指摘される西村麒麟とは対照的だ。



しかし「俳諧の野卑愛すべし」とは、作句の構えを転換し、自らのナマな感情を描きこむことで、一句の中に「いてやろう」そして「歌ってやろう」という意志の表明ではないか。



結果、この一連においては、「中の人」の存在を想定する必要がない。私性のありようがストレートかつナイーブなのだ。



くたくたの背広で芭蕉忌を修す

生真面目に戯けてみせて年忘

拡げたる翼引きずり初鴉



いずれも、多分に言い過ぎで名吟とまではいかなくても、だからこそ生真面目すぎて哀しく、そして可笑しい。



「人間を書く」といういわゆる「文学」的な主題を、私たちの世代は気恥ずかしいものにしてしまったけれど、人が書いて人を動かすものなのだから、そこに(どんな迂回路を使っているとしても)「人間」は扱われている。



てのひらの僅かな水に蝌蚪うごく

桜咲きほどなく忘れ人の恩

上げし足降ろすの止めて子猫それ

握り飯だらだらと食ひ花疲れ

春のくれ野良猫を撫で蔑まれ



このような句の数が揃っていたら、ふつうに受賞して、そして作者の名を知った審査員を絶句せしめていたと思う。



桜の下で関係のない「人の恩」の話をしている人「子猫」の足の動きを精妙に観察している人(怪我をした烏を見ていたのときっと同じ人だ)、ほどけおちる「握り飯」と散る桜のアナロジーを感じている人。いずれも、ひどく疲れているけれど、そのまま世界と親和してもいる。季語と五七五定型との調和によって(つまり一句の成功によって)人が遡行的に救われているのだ。



花散るや幹を叩かば堰切りて



堰を切ったように、花が、感情があふれ出すのを見たいというのは、人の願望である。はたして、幹を叩くこの人は、花を散らすことができたのか。満開の花の幹を、さあ散れ、あふれ出すところを見せろと、叩く手は痛かろうし「幹を叩かば堰切りて」と詠う心は泣いている。集中随一の一句と思った。





落選展を読む.1

https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/03/20191.html



落選展を読む.2

https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/04/20192.html



2019「角川俳句賞」落選展 

http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/655-2019-11-10-2019-1.html