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2022-05-01

【2020/2021「落選展」を読む3】髙柳克弘『涼しき無』のことも少し 上田信治

  【2020/2021「落選展」を読む3】13.14.ハードエッジ  16.松本てふこ 17.丸田洋渡 19.矢口 晃 20. 薮内小鈴

髙柳克弘『涼しき無』のことも少し
……上田信治

 

13. ハードエッジ プランA「小さき箱」 ≫読む
14. 
ハードエッジ プランB「明日を信じて」 ≫読む

落としても割れぬコップを今朝の冬
(プランA「小さき箱」より)
電柱が出水の町に灯を点す
白玉の熱きを冷ます氷水

(プランB「明日を信じて」)

上記の他にも〈トンネルを抜けて明るし春の雪〉〈波音は波の残骸松の芯〉〈満月やダム湖の中の取水口〉〈割箸の先に毛虫がくねくねと〉などが印象的で、合わせて読むと、作者がモチーフを、事物の関係から生じる面白さに定め、それを俳句的光景において実現していることが見てとれます。

作者は、多くの句で、彼が発見した「面白さ」を、明確に書き示している。このようなロジカルと言っていいアプローチで「面白さ」にフォーカスすることは、内容・意味といったものへの志向を強めます。これは、俳句の現在のトレンドの一つかも知れない(この話、16.松本てふこ「シャンパンタワー」に続きます)。

しかし自分は、書かれた意味に収まりきれないものがあると見える、次の二句に引かれました。

魚屋の雪ふるころの品揃へ
山一つ氷つてゐたる昼の酒



16.  松本てふこ シャンパンタワー(*)≫読む 

(*)一次予選通過作品

 
雨傘をくたりと開き年賀客
太ければたやすく透けて氷柱かな
うつむいてをれば楽なり黄水仙
ふきのたう赤子の握り拳ほど
あをぞらの届かぬ繭と思ひけり
区役所へ行く夢見しと昼寝覚
本棚に少し隙ある月夜かな
 

この50句の「面白さ」あるいは内容は、いわゆる「人間味」の範疇に収まるもので、その意味内容が、季語の措定するものにしっくりと収まっている。巧みです。

そういった「よく分かる」意味内容への志向を、前項で「トレンドかもしれない」と思ったのは、たまたま高柳克弘さんの最新句集『涼しき無』(ふらんす堂)をご恵投いただき、何ページかを読んでいたからで。

〈通帳と桜貝あり抽斗に〉〈ぶらんこを押してぼんやり父である〉〈忘るるなこの五月この肩車〉〈子にほほゑむ母にすべては涼しき無〉〈駅前に人は濁流秋の暮〉〈パンのみに生くると決めて卒業す〉〈ふるさとに舟虫走る仏間あり〉(『涼しき無』より)と、これは帯に引かれた句の一部ですが、自分が思うところの「意味内容の句」が並んでいます。

たしかにね……、たとえば飯田龍太と田中裕明の後期をメルクマールにして俳句を考えたとしたら、誰にでも分かるドラマチックな内容と詩的な結晶性の両立が、俳句の理想形だとなるかも知れない。知れないんですが、じゃあ、波多野爽波はどうなるんだとw

そこに、書かれた意味とか人生からはみだしている、透明で抽象的なものが含まれていないと、自分はそれを俳句として物足りなく感じてしまう。

そして、てふこさんにも、それがたっぷりと含まれている句はあるわけです。

からすのゑんどう散歩して遠くまで
この森を欲しがつてゐる時鳥


17. 丸田洋渡 銀の音楽(*) ≫読む

(*)一次予選通過作品

窃盗のかがやきながら鵙の空
鍵ひとつふたつここのつ天の川
あちらから明けてゆく湾鳥渡る
つやつやと眼の曲面や菊花展
冬隣遠くから目が透けている
石蕗の花歯のように建つ新たなビル
分銅を囲んでいたり冬の夜
ちかちかと独楽の負け合うからくりは


これは、意味内容と詩的結晶性に分ければ、結晶性にほぼ全フリしている50句で、抽象的なのですが、同時にきわめて具体的に掴まれた抒情性があって、そこに作者という主体との対話性が生まれている。

俳句の意味とか内容というものは、そんなふうに、書かれた言葉が直接には示していないところに、生まれるものでもあって。

窃盗のかがやきながら鵙の空

意味不明のように見えるかも知れませんが「鵙の空」と天を振り仰いだとき、そこにはもう「鵙」と「窃盗」がひびきあって、ピカレスク的なものへの「あこがれ」(そしてその貧しさへの「かなしみ」)が発生している。

冬隣遠くから目が透けている

「隣は何をする人ぞ」があるので、本人、室内にいると読みたい。二階の居室にいて、木が葉を落とした空が広く窓から見えている。そして彼は、自分が一人でいることを、強く意識している。

天という字の対称に厚氷
書くうちにふと明るくて窓は雪
春のたましいの全体的な腐敗
鳥なら今日は飛んでいた空花かんざし
薇のすさまじい渦人体にも
金盞花卵のような明るさに
一羽ずつ涼しい鳥の汀かな
火と汐の交わっている牡丹かな
プールから鳥見えて空羨まし


2020年の「落選展」には、何作か、これは作者のこの時点での最良の達成だろうと思わせるものがあって、丸田洋渡さんの「銀の音楽」は、その一つでした。ぜひ、50句全体を確認され、ここには「作者」がいる、ということを確かめられたい。


19.  矢口 晃 帰る家(*) ≫読む 

(*)一次予選通過作品

排泄のための筋力鳥渡る
雁渡るビルを林と想ふとき
秋空へ音叉の音の出で行かず
ひらきたる指にかげなき四月かな
春蔭やぐしやつと畳む乳母車
鳥雲に入る炒飯の紅生姜
鼻先に汗しあはせになるための


高柳さんは前掲句集のあとがきで「主題の明確な句が多いのは、私なりの挑戦だ」「生や死にまつわる根源的な主題に、俳人もまた向き合うべきではないか」と自身の考えを明らかにされているのですが、労働、生活、死といったものに向き合った作品を高柳さんも属する「昭和三十年生まれ世代の次の時代を作るべき」世代グループの一人として、先駈けのように書き続けてきたのが、矢口晃さんであることは論を俟たない。

〈ひらきたる指にかげなき四月かな〉〈鼻先に汗しあはせになるための〉もうワーキングプアの恨み節ではない、働く人生の(微量のアイロニーも含んだ)肯定を受け取って、佳句だと思いました。

バス停のひまはり園児より高し
流星の尾よ野ざらしの大仏よ


バス停があることで生じた背比べの複雑さ、「猿の惑星」のラストにも似た幻想といった遊戯性にも引かれました(もともとじつはユーモアを武器にした書き手なのだと思います)。流星の句、その尾を、大仏がつかみそうではないですかw


20.  薮内小鈴 蜂と切手   ≫読む

水中を藻にまみれたる枯蓮
ゆりかもめ退屈顔の前へくる
万両や夕暮にして晴れ渡り
濡れてゐる漫画雑誌と女郎花


この人も、自身の感じられた面白さを、俳句に落とし込むことを楽しんでいる。それはきっと俳味と言われる領域なのだろう。

立春のホームの先にひらく傘

これは、いいフレーズ、いい情景。
 

 

● 

  >> 【2020/2021「落選展」を読む 1】

 >> 【2020/2021「落選展」を読む 2】

 >> 2020角川俳句賞「落選展」

 


 

 


2020-05-31

【2019落選展を読む.5】「私性」と自由 古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む 上田信治

【2019落選展を読む.5】

「私性」と自由

古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む

上田信治



今回は「8.みみづくの散歩」(古川朋子)と「9.花のゆうべ」(丸田洋渡)の2作品を読み、あわせて、高山れおなさんが2019年のベストにあげていた句集、ふけとしこさんの『眠たい羊』についても書きます。

三つの作品を取りあげるのは、それらが俳句に表現される「私性」の現在地点をよく現しているように、思えたからです。



2. 古川朋子「みみづくの散歩」 >>読む

古川さんは「蒼海」(堀本裕樹主宰)所属。第6回星野立子新人賞を受賞。角川俳句賞でも2016年(*1)2017年と一次予選を通過した注目の作家です。 

春の川生きて可笑しなことを言ふ

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

みみづくの散歩はひとの肩の上

室咲やひとりにひとつ長机

初夢に見てにぎやかなお正月

戸を引けば階段のある寒さかな

いちにちは全き青のヒヤシンス

さて。

春の川生きて可笑しなことを言ふ

内容は、人がふつうに生きていて感じるであろう、生への肯定。けれど、この「生きて」は出そうで出ないフレーズで「盆踊人に生まれて手を叩く」(岩淵喜代子)「水無月や地球に生まれ傘をさす」(山本紫黄)のような、人間のどうしようもなさを描いた句を思い出した。つまり、この句は、日常のスケッチのようでとても思弁的で、生のストレートな肯定のようで、かすかに淋しい。

またそれは、単独では成立ぎりぎりの不安定なフレーズなわけだけれど、その不安定さとバランスする「春の川」によって価値が確定している。

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

「けふ日曜の」の調子の良さと「この感じ」の大胆さ。冗語に冗語を重ねることは、日曜日の感じを出すための、認識の引き延ばしであり、また「鯔跳ねて」のあとにしばらくの時間があったことの強調でもある。

ある時間の中の一瞬の偶然が、平板な生の持続に何の影響も与えない(かのように見えて、何かを動かしている)。それは誰もが見たことのある「鯔」がはねるという現象(季語でもある)から析出された、普遍的な何ものかだ。

この季語に対する意識の深さは「春の川」から生命感を浮かび上がらせる繊細な手つきにもあらわれている(擬人法と考えると全く面白くなくなるので、そうは取らない)。

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

室咲やひとりにひとつ長机

「牡丹雪」のやわらかさと終わった季節の名残であることが「かさぶた」に二重写しされること(この取り合わせは、津川絵理子さん的に上手い)。「菫草」の句に、さらりと芭蕉が重ねてあること。海水浴場だろうか、この「山の近」い海が、すでにすばらしく涼しく、それによって「氷水」の価値にさらに繊細なチューニングが加わっていること。「室咲」の句が、習字教室?を思わせつつ暗示にとどめ、物だけを書くことで(季語を場面の一要素に縮小することなく)くっきりとオブジェ化していること。

これらの句、言葉の運用も内容も人を驚かせることが少なくストレートでありながら、複雑なたくらみがしかけられ、立体化がなされている。

そうやって、俳句という小さな詩型のもつインティマシー(親密さ)を大切にしながら、詩として高度なものを作り出していることに、この作者の志向するものが見える。

微量の不自然さを含む語法に見られる新しさへの意志と、季語の扱いに現れる繊細さと複雑性。ここには、いわゆる「平成俳句」の可能性を生きのびさせる方向が現れているのではないかと、わりと本気で思っている。

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

みみづくの散歩はひとの肩の上

初夢に見てにぎやかなお正月

これらの句に現れた「親しさ」「かわいさ」もまた、俳句がまだ攻め尽くしてはいない可能性だろう。こういったものを「かわいい」と感じることを自分に許すことも、また「私性」の俳句への持ち込みである。(*2)

「滝の音すこし歩めば川の音」「しづけさのまま夜に入る野分あと」のような(俳句読者全体との距離を計量するような)常識的な作や「また少し夕日くづれて梨の花」「神さまに輪郭のある涼しさよ」「いきいきとおたまじやくしに蛙の目」のような、面白さはありつつも、ゆるさや強引さを感じる句もある。
 
古川さんには、この際、ご自身が、俳句の最も新しい価値の一部を作りつつあるということに、開き直ってしまわれることを期待したい。



*1 古川さんの2016年作品はこちら 

>>「逃水」

*2 2010年に「ゼロ年代の俳句100句」というミニアンソロジーを作った際「私性=ノーバディな私による「私」語り」という項目を立てたのだけれど、そこには、まだ野口る理さんも福田若之さんも名前がなかったわけです(あれから10年かあ、とこれは個人的つぶやき)。

ここしばらくの、俳壇で話題となった作者・句集を固めて読んでいて気がついたのは、非常に小さな、ささやきやつぶやきのような句の多さです。それらを、ノーバディな=誰でもない、誰でもいい、どこにでもいる(しかしまぎれもなく、どこかにいる)「私」の声、というふうに名付けてみたら、ふに落ちるものがありました。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/06/100_2462.html

○

9.  丸田洋渡「花のゆうべ」>>読む

丸田さんは、20代前半の若い書き手。平野皓大、柳元佑太、吉川創揮さん達とともに、短詩形ブログ「箒」を創刊。こちらで、定期的に近作が読めます。

http://houkipoetry.com/



春暁の谷を隔てて鳥と鳥

鷲の巣や静かな場所で書き直す

噴水のひよひよとでて巻きもどる

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

風鈴を繋げるように坂上る

朝曇二つしかない家の鍵

吾亦紅夢に出てくる町の地名

鹿の毛の斑らに光るところあり

鵯や妹にまだ小さな手

寒鯉は手をかえす踊りのように

この人も、俳句を「私的」に書こうとしている。

俳句はともすれば、いわゆる「個性」をいったん棚上げし、共通の価値観によって、作品を律することを好む。とりわけそれは「修練」や「師承」を強調する、結社の主流をなす考え方で、それは、若書きが素朴派的に面白くなってしまうことを、「いったん」抑圧しておくことに大きな意味があるのかもしれない。(*3)

逆に短歌は「一人称」であることが、エートスとして、はじめから分けもたれているらしい。少なくとも入り口段階において、共同性のあり方が、私性をめぐって逆なのだ。

しかし、もしまだジャンルに試し尽くしていないエリアが見えたなら、そこへ突っ込むように試行を重ねることは、あとから来た者の務めだろう。とりわけ、はじめから作家であろうとする自恃のある書き手であれば。

鷲の巣や静かな場所で書き直す

「鷲の巣」を見て、それに背をむけて、自分の場所に戻る。見たと思ったらもう自分の場所に帰っている(ここには時制の齟齬があるのだけれど)その性急さに、俳句的な私性のあらわれがある。つまり、自分は、この人が「静かな場所で書き直そう!」と言っていると読んだのだ(「鷲の巣」と「静かな場所」が同じ一つのもののように取れることは、句の結構を弱くしているかもしれない)。

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

やはり、さいごに「!」を足して読みたくなる性急さを感じる二句。「芍薬」の川柳的な言明もいいけれど、「五月の犬」の、そこまでゆるく進んできて(「さしかかり」は相当ゆるい)下五で急に、そう思ったからそう言った感じ(つまり「五月の犬!」)は楽しい。

春暁の谷を隔てて鳥と鳥

噴水のひよひよとでて巻きもどる

朝曇二つしかない家の鍵

鹿の毛の斑らに光るところあり

こちらは、採点競技的にも、得点がねらえそうな句。

この人は、ウェルメイドな句ものへの志向と、私的なものへの志向を合わせ持っていて、そのバランスを見つけようとしている所なのかもしれない。筆者はそのゆらぎに魅力を感じている。

とりわけ「朝曇」の句の、なにに文句を言ってるんだか分からない(イコール詩的に上質な)淋しさと、色彩に惹かれた。

鵯や妹にまだ小さな手

はじめ「カササギ」と空目して恋の句と思ったのだけれど、「鵯」であれば、現実の記憶。「まだ/小さな」と句切れをはさんで読み進めると、手の中の妹の手がしゅーっと小さくなっていくような、時間が巻きもどって自分も子供にもどってしまうような、魔法的な美しいイメージが手渡される。

「や」と打ちだして、遡行の出発点に眼前性を加えたこともよい。

既視感がないとは言えない内容だけれど、むしろ、普遍的なものに、言葉で微量のマジックを加えているというべきだろう。佳句だと思う。

*3 若い落語家たちの群像劇である映画「のようなもの」(森田芳光)は、そのあたりの事情をうまく点描していた。



○



ふけとしこ句集『眠たい羊』(ふらんす堂)

ふらんす堂オンラインショップ

ふけとしこさんは、「カリヨン」(市村究一郎)をへて「椋」(石田郷子)「船団」(坪内稔典)に参加。『眠たい羊』が第五句集となるキャリアの長い作者。

ふけさんのような作家の句集と「落選展」の作品を、並べて鑑賞することに、失礼さを感じる方もいらっしゃるかもしれない。

しかし新人賞の応募作には、同時代のもっとも先端の問題意識があらわれている(あるいは、少なくとも「べきだ」)と、自分は思っていて、その同じ課題を、ふけさんの句集は「分けもっている」と感じたのだ。(新人賞の応募作もまた、作家の作品として読まれるべき、ということも思います)

『眠たい羊』は、本当に佳句揃いの句集なので、ランダムに引いていきます。

日が溜まる大根畑の足跡に 

足跡が刻印された瞬間と、そこから経過した時間、そしていま私がそこに視線を向けている時間、と一つのアングルに、いくつかの時間が書きこまれている。それは、そこに痕跡をのこした人が今はいないということだけが、描かれている絵でもある。土の軟らかさと、色彩の対比が心地よい。

鉄橋の三角三角春がくる

淡雪や干菓子焙じ茶いただいて

調子でできているような二句。

なのだけれど「三角四角」といえば字数が合うところを、あえて「三角三角」で中八にしている、この破調、胸にきませんか? 「春が来る」をこう配してのこの「三角三角」は、人をはげます調子であるように思えた。

「淡雪」の句。「干菓子焙じ茶いただいて」の助詞を飛び石のように飛ばしていく軽さと、主人公が室内画の一部にでもなったような静かさとの、微量のアンバランスに興趣がある。

自分が「三角三角」や「干菓子焙じ茶いただいて」に句会で出会ったら「わがままな言い方」と評すだろう。もちろんいい意味で。

前回取り上げたクズウさんのような(あるいは、生駒さんや青本さん達のような)言葉に負荷をかけてたわめていくのではなく、もう少しカジュアルに、楽に、言いたいように言葉が使われている。

要するに、自由度が高い。

というと「型や形式を逸脱しない中にも自由はある」という話を出してくる人がいそうだけれど、そういう「不自由」を感じない(感じさせない)から「自由」ということではなく、もっと積極的に、書きたいように書いてはみだしてしまう、むしろはみ出してしまう自分の勝手さを面白がるという、私性と自由を、一つのものとして追求していく書き方がある。

もっとも、自由であろうとすることは、それなりに「家賃の高い」行き方でもあって、それこそ天然ものの「上手さ」と「品の良さ」がないと、目も当てられないことになるのだけれど。

梅花藻の水にタオルを絞りけり

ご無体なようだけれど、雑巾じゃないんだから、きっとこのタオルの水もきれいなんだろう(というような「品の良さ」の話をしている)。

季語・水草の花の本意(*4)は、たぶん「別天地」なので(「河骨に金鈴ふるふ流れかな 茅舎」「水草に白楼ひくき門もてり 多佳子」)、タオルの水をジャーとしぼるのは、あの世とこの世、肉体と抽象の次元のちがいを攪乱し、ひとつながりにしてしまうことだ。

山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり

この理屈の通らなさ。というか、あやうく通ってしまいそうになる理屈の、念の入ったナンセンスには、滋味掬すべきものがある。優雅と言えばいいのかな。ほんとうに何の意味もないけれど、なんとなく色合いもキレイだ。

春昼や壁へ広がる湯気の影 

擂粉木をつるりと洗ひ夕長し

風鈴や酢へ放つべく魚を切り

待春やスープの底にひよこ豆 

発想が、生活感情に近い。

偉大なる明治大正時代に生きあるいは生まれた人々(主に男性)とは、どうにも、もともと人間が違う。偉大さや荘厳さが身に沿わないという「私たち」が、この世にいる。

小さくひそやかで親密であることで、その感受性の正当性を訴える。それがいわゆる「石田郷子ライン」(と筆者を含む何人かが一括りに呼んでしまった作家たち)の、分けもった時代精神なのだと思う。

そして「擂粉木」の句の「つるりと」、「風鈴」の句の「放つべく」という言葉の軽さに、この人の固有性がある(もちろん「船団」の流儀でもある)。

雀蛾に小豆の煮えてゐる匂ひ

山の日の丸テーブルを三つ寄せ

義士の日の混み合うてゐる足湯かな

雪の日を眠たい羊眠い山羊 

「雀蛾」という、蛾の中に雀がいるような奇体ないきものに赤茶色の小豆の匂いを重ねて混乱させたり、「丸テーブル」を三つ寄せることの落ち着かなさと由来のない祝日「山の日」のよるべなさを寄り添わせたり。「羊」と「山羊」と「眠たい」と「眠い」の違い(字数でしかない!羊と山羊は違う生きものなのに)などなど。この句集の、オリジナルな面白さを数えていけば切りがない。

とりわけ「義士の日」の句。ごく当たり前の日常風景なようで(忠臣蔵といえば雪の日にざっざっざっと歩いて行くわけですから)四十七士の足だけの幽霊が現れたかのようにも読める、その知的なはからいに大いに喜びました。

製材所の焚火のなんといい匂ひ

そして、この、そりゃそうだろうなあ、っていう、計らいの無さも。



*4 裏本意については、昔こちらに書きました。>>

2019-11-10

■2019角川俳句賞「落選展」■ 9. 丸田洋渡「花のゆうべ」

■2019角川俳句賞「落選展」■
9.  丸田洋渡「花のゆうべ」







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花のゆうべ  丸田洋渡

春暁の谷を隔てて鳥と鳥
梅の花犬につられて子が走る
春疾風木に番号が書いてある
立てば花遠くなり野に春は来て
囀や行きも帰りも通学路
てらてらの葉の上にある椿かな
水温む母には母のうすねむさ
一時の父の鋭さ花ぐもり
まひるまの砂絵の麒麟油かぜ
拭いてから触る骨壺花あしび
藤棚や万年筆に濃と淡
蜂蜜のようなたそがれ望潮
こでまりの花やゆうべを一番愛す
鷲の巣や静かな場所で書き直す
夏浅し孔雀は羽を閉じて寝る
噴水のひよひよとでて巻きもどる
緑陰や言葉に未だ形無く
葉桜に止まるいつかは鳥に生まれ
木洩れ日に犬さしかかり五月の犬
芍薬や喜びは球体である
風鈴を繋げるように坂上る
夏の月料理に皿はひとつずつ
茉莉花や頭捥がれて神の像
脳を掲げつづける首や卯月曇
ばらばらに道濡れていて夏祭
百日紅死はなめらかに父に母に
朝曇二つしかない家の鍵
青鷺はしばらく釘になって待つ
妹は祖母を知らずに墓参
水澄みて母に死のこと言いかける
心とは空に置きざり秋の鳥
月の暈人体という柔らかさ
月光に針の再び冷たくなる
鶺鴒や詩の短さの透きとおる
夜顔と白磁に入る罅の白
吾亦紅夢に出てくる町の地名
鹿の毛の斑らに光るところあり
太陽も咲くことあれば菊の花
卵白の上に黄身あり秋の風
火とおもう金木犀を掻き集め
鵯や妹にまだ小さな手
冬うらら父に教わることばかり
風花に似て妹の育ち方
乙字忌の香車突込みうらがえす
開閉に鳴く蝶番冬の月
くらやみの水の宛先鐘凍る
寒鯉は手をかえす踊りのように
凍滝や人の死ぬ夢ばかり視て
息吸えば朝あたらしく冬桜
白鳥の夕の空に足伸ばし

○

2018-12-02

2018角川俳句賞「落選展」を読む(3) 岡田一実

2018角川俳句賞
「落選展」を読む(3) 

岡田一実

>>(1)  >>(2)


9. 街の動態 丸田洋渡
 ≫縦書き ≫テキスト

この作者はイメージとイメージの連なりを口語を多用して表現し、ややネオテニー的な作品世界の構築を目指しているように思う。

夏みかん小さな切手に小さい人

日本の切手の標準的サイズは「一辺が18 - 20ミリメートル程度」だそうだ(Wikipedia  )。掲句、「小さな切手」と言ってもこの標準サイズより小さい、と言うことではなく、このサイズが「小さい」と作中主体が感じているように思う。

「小さい人」は文化人の肖像画かもしれないし、日本画のような図画かもしれない。「小さな切手」にぴたりと配置されている「小さい人」には作り手の律儀さも感じられる。

「夏みかん」の鮮明な色や形をまず想起させ、明るい雰囲気のなかそのささやかな意匠へイメージが移るときの不思議さと愉快さ。充足感が伺える句である。

地下鉄は核に近づく道で夏

この「核」は地球の「核」だと思った。地球の「核」は「直径約7,000 km(半径3,500 km)で、地表からは地下2,900 km以下にある」らしい(Wikipedia)。

普段地下鉄に乗るときに「核」を意識したりするだろうか。しかし言われてみれば地上の道よりも地下鉄は「核」に近い。「近づく」という動詞により、ぐんぐんと地下へ潜っていくような印象も与え、句末の「夏」という季語によって暑さが漲る展開となる。真理を言い止めながらもどこかファンタジックな世界である。

踊り子に天動説を信じる目

盆踊りを見ていると、踊り子の視線が一斉に天へ向くことがある。掲句はそのような場面を切り取っているように思った。

本当には「踊り子」が何を信じているかなど計り知れないのであるが、見ている側からすると彼らの「無」な感じが却って想像をかき立て「天動説」を信じているかもしれないというところまで思わせる。

「天動説」という意外性が句に膨らみを持たせ豊かな味わいを醸す。


10. 高気圧 クズウジュンイチ
 ≫縦書き ≫テキスト

人形の二月の硬き手をひねる

この作者は眇眇たる物事に目を凝らして微細な詩情を掬うところに特徴がある。

掲句、「二月」という季語の生かし方がいい。「二月」というのは月初めに立春となるため陽暦でも春に入るが、まだ寒さ厳しい折であり場所によっては雪がちらつくことさえある。「硬き手」というところに、寒さに強ばっているかのような様子が表出されるが、その寒さの中に春の華やぎの気配が少し漂うところが「二月」である。

「人形」の「ni」、「二月」の「ni」、「ひねる」の「hi」と「i」音を響かせた頭韻も句に硬質さを加えている。

らんちうの粒餌をすぱと吸うてをり
うすぬるく曇る茸の袋かな

音の感覚が冴えている句である。

前句、眼目は「すぱと」であろう。この「すぱと」が俳味であり、句の芯となっている。この開放的な半濁音を含む擬態語があることによって、「らんちう」の丸い口が愛らしく見えてくる。

後句、「茸」の呼吸だろうか。摘みたての「茸」の息吹そのものが「うすぬるく」という温度を伴って伝わってくる。全体的に「u」音が多く音が籠もり、生の不気味さ、死の不気味さが一体となって迫ってくる。

丸椅子の真ん中に穴冷し中華
竹馬のすつと収まる隙間かな

見過ごしがちな意外なところに着目している。

前句、「丸椅子」の「真ん中」の「穴」は軽量化、運びやすさ、蒸れ防止などのために開いている。その簡易な様態が、高級店ではない、「冷し中華始めました」とポスターが貼ってあるような大衆的な食堂を思わせる。尻を蒸らさないように涼しくしながら食べる「冷し中華」のなんと庶民的なことか。でも、結構美味しいよね、という声も聞こえてきそうである。

後句、「竹馬」は乗るときは立体的であるが、それが平面に近い形になる瞬間を捉えている。「収める」ではなくて「収まる」というところに「竹馬」の主役感が現れる。


11. 薪の断面 寺澤一雄
 ≫縦書き ≫テキスト

力士みな大阪にゐる涅槃西風

大阪で開催される三月場所のことだろうか。「涅槃西風」はお釈迦様の入滅の日の涅槃会(陰暦二月十五日)の頃に吹く風。現実的には休場者もいるであろうし「力士」の全員が大阪にいるとは考えにくいが、「みな」という措辞でそう言い切ることで名だたる「力士」が桃色に集う様子が迫力を伴って見えてくる。

このとき、客中主体はどこにいるのだろう。「大阪」にはいないように思われる。より東にいて、その「力士」達のいる「大阪」からの西風を感じているような雰囲気だ。大阪と「涅槃西風」は涅槃という意味でなく西という接点で括られ、因果がうまくずらされた配合となっている。

黄砂降るカメラの紐を首に掛け

この「カメラ」には重量感が感じられる。「紐」が必要なレンズの大きい「カメラ」なのだろう。「黄砂降る」烟った景色。日の暈は大きく感じられ、ものの色は鮮明さを失い黄味を帯びたトーンとなる。

まるでターナーの絵画のようなこの時期であるが、カメラを携えた客中主体はその世界に同化していないように見える。はっきりとした「紐」の確かさがそう思わせるのかもしれない。

風鈴を持てば鳴りけり竹の秋

「竹の秋」は晩春の季語。季語内の季が実際の季と逆になる俳人好みの季語だなとつねづね思う。掲句、「風鈴」の準備をしているのだろうか。手に「風鈴」を吊り、定位置へ運ぶときに鳴る。繊細な情緒だ。

「風鈴」の縦に長い様態と「竹」の縦に長い様態が重なり合って、季節のあわいの情感を織り込んでいる。

犢鼻褌の読みを調べる秋の暮

「犢鼻褌」、私も調べました。みなさんもお調べください。意味は「短い下袴」のことで、調べてみて「なーんだ」と思う、その心の動きが俳諧味とも言える。この「秋の暮」という季語の処し方!馬鹿馬鹿しさの中にメタ的な面白さがある。

他にも〈銅は屋根にコインに夏の雨〉〈月涼し絶滅危惧種絶滅す〉〈ぱつくりと麦藁帽子割れにけり〉〈花曇校歌に残る良き言葉〉〈未草開く直前萼開く〉など俳句的旨味に満ちており、興味深い作品であった。


12. 夜と昼のパレード 赤野四羽 
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鳳仙花やがては止まる昼の琴 

この作者の魅力は写実と想念を観念も混ぜながら往還しているところである。

掲句、「やがては」とあるから今現在は「琴」が鳴り響いているのだろう。「やがては止まる」というのは推察であるが、止まらない「琴」はないので真理に近い。「昼」という明るさが「琴」の絢爛さをより一層引き立てている。

「鳳仙花」は別称「爪紅」なので「琴」とはツキスギ感もなくはないが、その花のあでやかさとの相性と取りたい。

友の子の耳は大きくよく踊る 

「耳は」の「は」は限定であり、「耳」以外は「大きく」ないのだろう。子どもの大きな「耳」がひらひらと「よく躍る」。盆踊りの列の中でもひときわ目立ったのかもしれない。

「友の子」とは全く他人ではないがとりわけ親しくもない間柄だろうか。その「耳」だけがクローズアップされ、まるで「耳」に意思があり、「耳」の動きがすなわち「踊」であると思わせる。

洋梨日和いやな男と宿にいる 

「いやな男」とは偶然「宿」で出会ったのであろうか。それとも同行の者であろうか。それはわからない。「宿」という寝食をともにする場所に「いやな男」といることを「洋梨日和」が包む。「洋梨」の甘くぬるりとした食感。さらに「日和」とあることで「いやな」という嫌悪感だけが際立たない妙な味わいがある。

群衆に蝶の過ぎゆく速さかな

「群衆」はどういった場面の人々なのだろう。一読「デモ」などの印象を持った。混み合って停滞した人々は個を剥奪され「群衆」という塊として見做される。そこに「蝶」が「過ぎゆく」。

この「蝶」のなんと解放されていることか。「速さかな」としっとりと速度に焦点を当てることで、滞っている「群衆」に対し実に鮮やかな対比となっている。

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2018-11-04

■2018角川俳句賞「落選展」第3室■9. 街の動態 丸田洋渡 10. 高気圧 クズウジュンイチ 11. 薪の断面 寺澤一雄 12. 夜と昼のパレード 赤野四羽(*)

■2018角川俳句賞「落選展」第3室■
(*)一次予選通過作品


9.  街の動態 丸田洋渡




10.  高気圧 クズウジュンイチ



11.  薪の断面 寺澤一雄(*)



12.  夜と昼のパレード 赤野四羽(*)



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■2018角川俳句賞「落選展」第3室■ テキスト

■2018角川俳句賞「落選展」第3室■テキスト
(*)一次予選通過作品 

9.  街の動態 丸田洋渡

陽だまりの象の歩数よ都草
立子忌の潜水艦の元気かな
たんぽぽや鳥来るように平らな屋根
囀を放っておいてみてもいいか
船の出て違う船くる春の湊
春暁や水深を表す海図
花の冷え御伽噺に牛が出る
鳥曇海を覆える蓋がない
初虹や魚の奥に魚のいる
送れば返る手紙のうれし春北斗
夏みかん小さな切手に小さい人
水を飲み干して葉桜の必要
筍やどこかで親が死ぬ気配
椅子捨てて机ひろびろ青岬
相槌を打つ翻訳家ところてん
マーガレット丘とスカート似合うひと
消火器をぐっと握って夏に立つ
花柘榴水の聞こえてくる二階
五月雨の博物館の象が骨
声で迫られ梧桐のある実家
蛍よりもっと光ろうとふんばる
花樗雨は大きなスプリンクラー
みずたまりに胸まで浸かる現の証拠
夕立の印刷室の無人かな
睡蓮やようやく釘のみな錆びる
心房に心室あって片かげり
発明にぱんと向日葵かがやく日
地下鉄は核に近づく道で夏
海と化すクックロビンや朝に鐘
花火師の先の花火を知る手つき
秋澄むや火の研究室の埃
脱ぐ靴の両足揃え稲光
天の川左右に空いている駅舎
鳥威し鉄骨の崩れて分かる
月や瓶に愛入れよ君が言うように
踊り子に天動説を信じる目
しとしとと覚めるひとびと葡萄園
水切りの石のかなしさ木染月
鵙逃がす大きな樹木これから死
断層に風吹きあたり金木犀
短日の鎖のたびに杭のあり
円柱の前と後ろや冬霞
首かしげて犬鷲は空考える
たっぷりと水仙を置き校長室
梟に友達はいないでほしい
枯草を蹴りながら歌を歌うな
海の減る鯨打ち上げられていて
冬かもめ空を点描する時間
「雪」声の聞こえて窓のいちめん白
街掛かる壁のうつくし青写真


10.  高気圧 クズウジュンイチ

調理器具買うて建国記念の日
人形の二月の硬き手をひねる
春泥の先へひよこを触りにゆく
春風は川に速まる榎の木
とぷとぷと混ぜてペンキが春の色
風船のひどく弱つて青畳
桶の田螺が知らず一周してゐたり
かりかりと青く目刺の背の乾く
草餅の包みへ風のわづかかな
虫食みの花やおもての公文式
蝌蚪の尾の泥を叩いてをりにけり
うらがはに道のあるいへ雪柳
蛤や緑色濃くオセロ盤
心臓は小さな臓器豆の花
きりぎしの躑躅に雨の痛むかな
住む人の変はれど庭のゆすらうめ
くしやくしやの鳥を拡げて夏隣
合宿所の硬きシーツや朴の花
らんちうの粒餌をすぱと吸うてをり
丸椅子の真ん中に穴冷し中華
日雷重みを増しておつとせい
とびうをのわつと出てくる高気圧
石垣に蟹の潜んで真昼なり
萍や風の終ひへ幾重にも
ソビエトの領土のやうに新生姜
白桃嗅げばみちみち満つる密なる毛
台風や塊肉を煮て過ごす
首吊りの縄の結び目あけびの実
秋の蚊の大きくなりて痩せにけり
庭先はバリカンの音菊日和
国と首都合はせて表にすれば秋
うすぬるく曇る茸の袋かな
どんぐりが崖の二段を落ちてゆく
檻の猪檻を揺らして廻りけり
みづぎはの胡桃みなみを向いて立つ
傾きの木へひよどりが来てをりぬ
末枯の高さに脛の長さかな
秋寒やトースト裂けば水蒸気
濡れてゐて道は短し朴落葉
竹馬のすつと収まる隙間かな
鯛焼や紙の袋にしたむきに
低音を閉ぢ込めてゐる枯葎
湯豆腐や硬き踵が板廊下
水使ふひとりと落葉掃くひとり
馴化して鶏は大きくクリスマス
タクシーの無線の寒き地名かな
クリームパン割つて渡して枇杷の花
白鳥の首打ちつけて戦へり
びぐびぐと寒鮒陸に口を開く
暗算の繰り上がる桁寒卵


11.  薪の断面 寺澤一雄

力士みな大阪にゐる涅槃西風
トラックの荷台広々桃の花
名月と同じところに春の月
天守からパパを呼ぶ声夕薄暑
銅は屋根にコインに夏の雨
木天蓼の花と教はり疑ひぬ
故郷の街の窶れや秋燕
庖丁は切れば汚るるそぞろ寒
焚口に薪の断面秋収
点滅の赤信号や首都の雪
冬麗は陸奥と常陸を分かたざる
冱つる夜のびつくり箱の狭さかな
春の来てもうすぐ花の雑木山
囀や山の形に木の生える
鉄橋の下の暗さや鳥交る
黄砂降るカメラの紐を首に掛け
遊船の進水せしは昭和末
月涼し絶滅危惧種絶滅す
ぱつくりと麦藁帽子割れにけり
栓を開け水が戻りぬ作り瀧
実柘榴や人に四本糸切り歯
セメントのサイロに名前曼珠沙華
筋肉は赤白模様小鳥来る
沸沸と蜻蛉湧き出る視界かな
枯れて立つ背高泡立草荒地
他人より分けてもらふ血古暦
もの食ふと頭に汗や鳥雲に
木は腐り立坪菫咲いてをり
玄室は荒れ花びらの吹き込める
風鈴を持てば鳴りけり竹の秋
湧きたての雲の白さよ夏休み
蟻歩く案内板の道の上
目の黒いうちは冷房最弱に
低気圧そこに停滞鱧の皮
太刀魚のぐにやぐにや動き釣り上る
やまかがし刈田のなかに迷ひけり
出来秋の背凭れ肘掛けあるベンチ
野球盤ゲームもつれる後の月
鉛筆の高さを揃へ春を待つ
風光る胡人と同じ鼻を持ち
クレソンを阿蘭芥子と言ひて摘む
花曇校歌に残る良き言葉
未草開く直前萼開く
夕立の雲は正午に生まれけり
目薬のほとんど流れ飯饐る
投げ易きつぶて少なし夏深む
犢鼻褌の読みを調べる秋の暮
銀杏散る大きな鳥が来て止まる
バイオマス発電所あり紅葉狩
川に手を浸し暖か寒土用


12.  夜と昼のパレード 赤野四羽

夏の雨珈琲淹れるひと静か 
火を担ぐ女の臍に鉄の汗 
硝子鉢うねる金魚の尾の暗さ 
背をむけて語る母と子杜若
賑やかな浴衣なんだか熱がある 
濡れた葉の額おさない夏の夕 
蝸牛わけしり顔のあぶらかな 
息を抜く女の顔や花あやめ 
蝉の子の蝉としてある心かな 
空蝉を素足に踏んで土黒き 
被毛なき肌の湿りよ床涼み
郵便箱ひらく音する夜の秋 
九歳のこえの高くに大花火 
鳳仙花やがては止まる昼の琴 
友の子の耳は大きくよく踊る 
スープ冷える唇濡らし箴言す 
ここにいます蛹を癒す月明り 
靴下をゆっくり履いて秋の椅子 
爽やかに犬も海賊服を着て 
観音像すこし俯き秋の澄む 
茸たちおいでおいでと吾を呼ぶ
十月の街をビニルで包む雨 
洋梨日和いやな男と宿にいる 
銀杏落葉己の陰も伸びいたり
鮟鱇の肝の来世にいろめくや 
悦びのようにくらくら湯に豆腐
雪激しくて愛し方を間違える 
鷹揚々腸の燃えあがる昼
白菜やああ心などわからねば
丁寧に嘘を吐きたる冬椿 
鴨の血に金の盃やや卑し
枕よ枕凍土の夜を見ていたか 
冬蜘蛛の愛に机のうえ狭し 
寒月や珈琲あおく待つ夫人 
縹渺と大気の音の雪を踏む  
元日の夜は華やぐ傘に似て 
初蝶や争わぬ身に蜜を吸い
朽ちてゆく家に朧を飼っている  
水温む椅子も寝床も浮かぶへや
ナポリタン炒める春の歌謡曲  
犬の眼に人間を呼ぶ桜かな 
紫煙染む朝寝や卵焼くおとこ 
少年に汚れた水のあたたかき 
桜蕊降る君の帽子を被るひと
花冷えの硝子戸重くありにけり
群衆に蝶の過ぎゆく速さかな
壊れ易い体に水を春の雁
頬骨やこの春紙のように貧し
雉の鳴く頃にはいくさ頭抱く 
花馬酔木ゆるり速度を落としけり


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≫縦書き

2018-10-21

【週俳600号に寄せて】妹とアンパンマンを 丸田洋渡

【週俳600号に寄せて】
妹とアンパンマンを

丸田洋渡


「べつにそんなに好きじゃないし、アンパンマンなんて」

僕には12歳下の妹がいる。そして僕は彼女のことをあまり知らない。同様に、彼女も僕のことをほとんど知らないだろう。

僕にとって彼女にまつわる記憶はそう多くはない。ほとんど一人っ子の気持ちで生きていたし、彼女がやっと饒舌に言葉を話し始めたころには、僕は大学の進学で故郷を離れた。
長期休みに帰省をする。そのたびにみるみる成長していることに驚く。外に植えておいたチューリップの球根が、その翌日に開花したような、時間のトリップを想う。

横に並んだら僕の腰の高さを超えていることに、もはや恐怖を覚える。この前まで赤ちゃんだったじゃないか、この前生まれたばかりではないか、────この前までお前は生まれていなかったではないか、と。

そういえば、妹が生まれる前に母に言われたことがある。もし、妹ができたら、自分のことをなんと呼ばせるか。お兄ちゃんとか、色々選択肢はあったが、僕は名前で呼ばせる、と答えた。理由は、自分の名前が気に入っているというのも一つあるが、何より「兄」という概念に耐えられないと思った。突然に与えられる枠に対して、そこまであっさりと順応出来る気がしない。「お兄ちゃん」と呼ばれてしまったら、自分は自分ではなく、「お兄ちゃん」になってしまう気がした。僕は「お兄ちゃん」という名前ではないぞ、と。というか、そもそも、兄として僕は妹のことを「おい、妹」などと言うはずもなく、「お兄ちゃん」に対する言葉が無い以上、名前で呼ばせるのが順当ではないのか……などと考えていた。

以前帰省したとき、妹がこんな事を言っていた。僕は父母をお父さんお母さんと呼ぶが、妹は何故か流れでパパママになっていて、それについての発言。

「家ではパパママって言うけど学校の皆の前ではお父さんお母さんって言うよ」

母が、何故、と言う。

「だって、なんか、恥ずかしい」

そうか……と母は多少落胆していたように思う。

僕は、まあそうだろうなと思いつつ、別のことを考えていた。僕のことは、学校でなんと呼んでいるのだろう。兄はいるのかという話になったら、僕を名前で呼ぶのか、「お兄ちゃんは」と言うのか……。気になるところだ。

そう思っていると、ある日、妹の友だちが家にやって来た。いいチャンスだと思っていると、妹が僕をこう紹介した。

「これがよっと」

これ、って言うな、と思ったが。ああ、名前でやっているんだなと思った。別にだからといってどうも思いはしないが、どこか安心した。どこか、突き止めるとすれば、「兄」としての自分だろう。変な感触である。

夏休みは、妹も夏休みであるため、ふたりで父母が帰ってくるまでのびのびしていることが多い。とりあえずテレビを付けておく。お菓子など食べながらくつろぐ。彼女は、僕に聞きたいことは多々あるようで、色んなことを聞いてくるが、僕は別に話したいことは特にない。楽しくやっているようだから、それ以上はどうだっていい。楽しいのが一番だから。

「そういえば、覚えとる?」

妹が話しかけてくる。

「何を」

僕は本を読みながら基本的に半分話を聞いていない。

「雪のとき外出てすぐ帰ってきたやつ」

「おお!よう覚えとったな」

驚いた。

────僕がまだ高校生だった頃、冬に豪雪が吹き付けたことがあった。その日も同様に二人きりで家にいた。故郷は暖かい場所だから、雪はあまり降らない。これは珍しいと思って、妹に外行くぞと声をかけた。妹は嬉しそうにコートを着て、僕はパジャマのまま、二人で手を繋ぎ外に出た。ものすごい吹雪で、目の前も眩むほどだった。妹は、わー!とか雪!とか言っていた。僕は、こりゃ凄いな……と感心していた。家の近くには海があるため、海を見に行こう、と歩いた。かなり向かい風で、雪に襲われながら、何とか海を見た。そして一瞬にして帰った。寒い寒いと言いながら二人で手を繋ぎ走って帰った。

「あれ凄い覚えとる」

どうやら妹はそんな些細なエピソードを記憶しているようだった。しかも大事そうに。そのとき、僕にとってもそれは大事な記憶に変わった。

テレビが、アンパンマンに変わる。妹がリモコンを取り、慣れた操作でアンパンマンをやめて、チャンネルを変える。

何故か聞くと、アンパンマンは好きではないと言う。ちっちゃい頃あんなに見てたのに、と言うと、ちっちゃい頃からそんなに好きではなかった、と言う。それは嘘だな、と思ったが、そんなもんか、とも思った。

「週刊俳句」はもう600号になるという。気がつけば大きくなって……と兄のような感覚になるが、別に兄でもなんでもなく、生まれた瞬間を見ているわけでもない。僕が知り、読み始めたのもここ数年の話だ。

今年週刊俳句に自作が掲載された。本当に嬉しく、今でも、大事な本のように何度も見返す。600号という長い歴史においては些細な1ページかもしれないが、僕にとっては本当に大切な記憶になっている。

これほど長く続かせることは、想像を超える大変さがあると思う。「続ける」ということは何よりも難しい。一方、それを客として見る側は、その苦労を考えることはほとんど無い。気がつけばいつもそこにあるから。昼にテレビをつけたら笑っていいともがしていて、いつもと同じようなことをしている。夕方が来れば町に曲が流れる。当たり前、それを改めて意識し直すことは難しい。

そういえば、先ほどの話には続きがある。

僕はリモコンを奪い取り、アンパンマンに戻した。

「アンパンマンはつまらんって」

 駄々をこねる妹に、分かってないなあ、いいか、と向き合い、
「アンパンマンは昔からある。今もある。アンパンマンがバイキンマンを倒すだけでこんなに続いとるのは凄いやろ?それで変えるってことは、まだまだアンパンマンの面白さを分かってないってことよ」
 僕は少し音量を大きくして、むすっとした妹と二人で見慣れたアンパンマンを見ていたのだった。

2018-06-17

10句作品 丸田洋渡 夜を濡らす


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夜を濡らす   丸田洋渡

落花めまぐるしく彼方ときめく目
朧夜を港のように明滅せよ
葉は山に蝶は閃きぱたんと死
展翅うつくし蝶を永らえさせる針
序、夜鷹とその遠景の関係
短夜の銃なら玻璃を狙える距離
翡翠を引用しては紙を飛ぶ
太陽は水没しない螢籠
水からくりいつも上からくる天使
夏の君へ水ぶっかけて水彩画