2018-11-18

2018角川俳句賞 「落選展」を読む(1)  岡田一実

2018角川俳句賞
「落選展」を読む(1) 

岡田一実

「落選展」は毎年楽しみにしている(といったら語弊があるかもしれないが)。

一作品50句という分量の多さにひとりひとりの俳句観の違いがよくわかるからだ。西原天気氏の言う「落選展の意義のひとつは、予備選のかすかなる/朦朧たる可視化」()という面にも頷く。

ひとはなぜ俳句の「賞」に応募するのだろうか。

それは応募者によって様々だろう。一年の(または数年の)成果、自らの俳句観の確認、俳壇の価値観の刷新、功名心、「俳句」そのものへの寄与などなど、どれか一つと言うよりも混ざり合った動機によって作句し選句し構成して連作を編むのだろう。

「賞」というものは誰かが読んで誰かが選ぶという課程の中で生まれるので、「俳句(芸術)の高ささえ目指せば読まれなくてもいい」という考え方の人には無関係かもしれない。

しかし連作を編むことと「読む」こととの相互作用によって得られるものもあるのではないか。そういう希望の下に全作品に目を通した。

前置きが長くなった。一作品ずつ見ていこう。

1. 迎への春 ハードエッジ >>縦書き >>テキスト 

日の永くなりたることを昼休
おのづから時の満ち来る桜かな

ゆったりとした導入。

前句、「日永」を「日の永くなりたること」まで引き延ばして表現上でも「永く」してある。あとに続く「昼休」も非常にのんびりしていてたっぷりとしたのどかさを味わえる。
後句、「時が満ち来る」の方も「おのづから」という観念的発見を導入部に用いたことで「桜」も満ちてくるような時空の余裕を感じる。

半袖の亜米利加人や巴里祭
雷の近づいて来る祭笛

季重なりの句は比較的多く〈塩辛に烏賊や鰹や夏始〉〈蚊遣火の紅一点の涼しさよ〉〈踏切のかんかん照りの終戦日〉〈虫籠は終の棲家や茄子胡瓜〉などがある。いわゆる「季重なりに挑戦!」的な力の入った句はなく、さりげない感じ。

「巴里祭」は 七月十四日のフランスの革命記念日。フランスでは国祭日となっており、バスティーユ広場を中心にフランス全土の広場を中心にフランス全土の広場や通りには一晩中踊の渦がくりひろげられるそうである。それと取り合わせられる「半袖の亜米利加人」は映画などでよく見かけるあの軽装な出で立ちだ(おそらく下はハーフサイズのカーゴパンツだろう)。「亜米利加人」「巴里祭」という漢字表記が日本人からの視点のようで、自らも含めた客体としての異国人が「巴里祭」の賑わいと渾然一体となる。「半袖の」という軽さが祭に涼やかな華やぎ与える。

後句は雷鳴と「祭笛」のダブルサウンド。段々と大きくなってくる「雷」の音と祭を盛り上げるように猛る「祭笛」。雨もぽつぽつ降ってきた。法被姿で脚をむき出しにした群衆がうねる。非常に臨場感があり想像をかきたてる。

ほかにも〈包丁に林檎の種が付いてをる〉のような只事にも魅力を感じたが、〈松が枝に番ひで弾む初雀〉のように順番に説明しまう句と近似の相であり、この方向については、さらに精度を高めることができればと感じた。


2. ペンギンさん 青島玄武 >>縦書き >>テキスト 

人気なき商店街へ盆の僧

この作者は通塗の良さがあり、生活の中で摩滅しがちなささやかな悲哀への共感性が高い。

掲句、「盆」の間は休む間もなく檀家の家々を回る「僧」がふと「人気なき商店街」へ入る。昼だろうか夜だろうか。家と商店が一体化している檀家を参りに行くのか、それともただぶらりと入っただけなのか。詳細は描かれないが、そのがらんとした空間はどこか異界めき、彼岸につながる通路のようだ。残暑の盛りでもあるこの時期の「僧」の黒衣の汗や息づかいがその「人気なさ」によってかえって際立つ生々しい異物として伝わる。

クリスマスイヴの出湯の男たち

「出湯」にあつまる裸体の「男たち」。身体はもう湯に当たって赤らんでいる。かぽーん、ざざざと「出湯」独特の音が響く。この「男たち」はこの後家族や恋人と食事するのだろうか。ひとりでのんびりと過ごすのだろうか。あるいはもうパーティーは終わってからの「出湯」なのかもしれない。遠くにクリスマスソングが聞こえる。湯に浸かり「あ゛―」と唸ったら、もうそんなことはどうでもいいような気になってくる。「人は裸で生まれる」などということは聞き飽きた。贅沢なような孤独なような満ち足りた夜のひとときである。

雪靴のまま地下鉄に乗り込みぬ
とりあへず雛の置かるる冷蔵庫

言われなかったら見過ごす景色。言ったところで「だから何?」と聞かれたら答えるのが難しそうだが、かすかな違和感をセンシティヴに捉えている。

前句、「地下鉄」に乗り込む客は男も女も概ねは通常時と同じ靴を履いている。自分は「雪靴」。表面は地上の雪で濡らされた。少し恥ずかしいような気持ちを抑えて他の人々に紛れる。誰も気にする人はいない。みな他人とは目を合わさないように目的地まで「地下鉄」に揺られる。

後句、この「冷蔵庫」は低い。容量少なめのツードアタイプと見て間違いないだろう。「雛」といってもさほど立派なものではない。紙雛かもしれない。「とりあえず」なのだ。「とりあえず」雛祭の季節だから「置かれ」ている(「飾られ」ではない)。殺風景な部屋に「雛」の彩り。仄かな艶がそれだけに侘しさを募らせる作品となった。

すこし難点だと思ったところは〈草雲雀おかず一品増えてゐし〉など通俗が過ぎるところと〈凌霄花や骨を休むる遊園地〉の「骨を休むる」など出来合の比喩をそのまま独自の工夫なく用いているところなどである。


3. 砂の紋 薮内小鈴 >>縦書き >>テキスト

賑ひの床を枝豆からびゐし
二三歩をともに日向の寒雀

この作者は掲句のように句意が明瞭な句もあるが、意図的に句意をおぼろにしているところが多く、不思議な風合いを醸している。

絵にどれも熱帯林の春の暮
石段を下れば覚めて著莪の花

前句、「絵のどれも熱帯林や春の暮」なら句意に迷うところはない。しかし、「絵に」であり、「熱帯林の」である。助詞を軋ませることで詩的飛躍を試みているのだろう。字義通り読んでいくと「熱帯林」なのに「春」があるのだろうか……などと思ってくるが、「絵に」描かれているのならそういう有り得なさそうなことも回収されるのかもしれない……と思考が回遊する。

後句、「覚めて」とは「目が覚めて」ということだろうか。「石段を下り」始める時点では「覚めて」いないのか……とこちらも想像が周回してしまうが、「著莪の花」の薄紫のちりぢりとした花の雰囲気が「覚める」前と後を包み込むような働きをしていて煙に巻かれるようだ。

陸の鳥海の鳥遭ふころもがへ

この句は「陸の鳥(が)海の鳥(と)遭ふ」という句意だろうが助詞を省略してある。あるいは「陸の鳥(それと)海の鳥(と、客中主体が)遭ふ」かもしれない。舌足らずだなと思わせておいて、ぱっと切れて「ころもがへ」と取り合わせてあり、その感覚には新しみもある。

楽団に海豚の匂ひ穀雨降る

「海豚の匂ひ」とはどんな匂いなのだろう。生臭いのか、海の匂いか、正確にはわからないが、「楽団」の楽しげな様子に不思議さを与える(そもそも「楽団」なのだから音に集中しそうなものだが、ここでは「匂ひ」に集中する)。それに「穀雨降る」。情報が多すぎやしないか。しかしそこが目の粗い粒がいろいろあるような多彩さで魅力的でもある。

枯葎灯りのうちに骨を煮て

「灯りのうちに骨を煮て」は想像しやすい景色である。台所であっても戸外の料理場であっても「灯りのうちに」調理する。てらてらと照る「骨」が見える。

では「枯葎」と取り合わされるとどうか。「葎」とはもともと蔓でからみながら蓬々と茂る雑草の総称で、引いては貧しく荒れはてた家を「葎の宿」などと言う。「枯葎」とは夏に生い茂っていた葎が、冬になりすっかり枯れ果てた様子のことなので、その荒廃ぶりが眼目であろう。とげとげしい自然界の鉄条網のような「枯葎」は「骨」と共に照射される。その裏寂れた景色が浮かび上がると「骨を煮て」という行為が調理かどうかも怪しくなる……というのは読み過ぎか。ただならぬ不穏さが漂う。

春凪ぐや砂紋は江戸へ続くかに

この句は浮世絵のような描線のはっきりした景色である。旅人の気分ではないだろうか。「江戸」という言葉選びが時空を遡るような感覚をいざなう。


4. 睡足 杉原祐之 (一次予選通過作)

この作者は平明な叙情が持ち味である。素直な感覚とややノスタルジックな共感性に惹かれる。

病棟の裏の大きな桜かな

「病棟」とは病院などで、多くの病室のある一棟(ひとむね)の建物。入院施設を思う。病院にもよるが「表」(おもに南)にしか病室がない病棟はまれで、多くは「裏」にも病室があり窓がある。よって入院患者にとっては「裏」は親しみのある場所かもしれない。そこに「表」からは見えない「大きな桜」がある。すぐに行けそうでなかなか行かない「桜」の木。病棟の病室の中からか渡り廊下から見るだけかもしれないが、その「大きな桜」は病みと共にある者への希望のような働きをしている。

建売のモデルハウスの鯉幟

見たことある!と思う。思うが実際にはないかもしれない。「建売のモデルハウス」はぴかぴかでどこか胡散臭い。作られた幸せの形という感じが否めない。そこの「鯉幟」はなお一層にそのように感じる。僅かなイロニー。でも結構立派な、五色とかの「鯉幟」なんだよね、とまた見てきたかのように語りたくなる。

扇風機に当たり客待つ車引き

この景色もみたことあるあると思う。観光地に行くと今でもいますね、「車引き」。黒い制服(?)を着て夏は炎天下にいてさぞ暑かろう。「扇風機」にかかっているくらいなら「車」も頼みやすい。頼めばさっと「扇風機」から離れて来てくれるだろう。「車引き」の日に焼けた顔、涼やかな風に当たった首筋、身軽で機敏な様子、どれを取っても粋である。

どの句も景にブレはないがその分〈薬喰離れの間へと案内され〉の若干の因果、〈肌脱の僧侶バイクに二人乗り〉の類想感などは再考の余地があるように思う。

(2へつづく)

)俳句的日常『俳句賞・予備選の「闇」』 http://sevendays-a-week.blogspot.com/2017/08/blog-post_31.html

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