2018角川俳句賞
「落選展」を読む(2)
岡田一実
>>(1)
5. 初々しさ 津野利行 ≫縦書き ≫テキスト
妻書斎まで来てバレンタインデー
この作者は人生のちょっとした余裕や人情を大切にしていて好感が持てた。
掲句、普段は「書斎」へは客中主体以外は誰も来ないのかもしれない。「書斎」は閉ざされた自足的な城のようなイメージ。そこへ「妻」が来る。「まで」が驚きであり感動を表わす措辞だ。「妻」は甘い甘いチョコレートを持ってくるのであろう(おもに日本のみの文化だ、などと指摘するのは無粋)。「バレンタインデー」は別称「愛の日」。「妻」の愛情を確かに感じる出来事である。
中華屋のおやじも卒業生の父
馴染みの「中華屋」だろうか。「中華料理店」ではなく「中華屋」という響きにカウンターに面して調理する、ラーメンと餃子と炒飯がメインメニューの店を想像した。なぜ「卒業生の父」だとわかったのだろうか。「うちの子も今日が卒業でね」などと中華鍋を振りながら語ったのかもしれないし、あるいは卒業式の保護者席に「おやじ」を発見したのかもしれない。いずれにせよ、「中華屋のおやじ」というのは社会的な役割であるが、その「おやじ」にも個人としての役割、しかも「卒業生の父」という晴れやかな役があったという驚き。共に祝したいという気分が溢れている。
滝の音ほどの滝ではなかりけり
「滝の音」が先ほどからずっとかなり大きく聞こえていた。きっと大きな「滝」に違いないと期待して辿り着いてみたら「滝の音ほどの滝では」ない。がっかり。ではあるが、「滝」に辿り着いた達成感や滝底から吹いてくる風の清涼感などがほのかに感じられるのは「なかりけり」という空白の多いたっぷりした措辞のせいであろうか。期待したほどの「滝」の大きさではないけれど、これはこれでまあ楽しめばいいか、という余裕が垣間見られる。
他にも〈家族葬済ます勤労感謝の日〉の不思議な悲しさ〈開店の準備オーバー着たるまま〉などの取材の良さには親しみを覚えたが、〈遠花火バックミラーに開きたる〉〈焼きそばのソースの匂ひ秋祭〉などには類想感があった。
6. 星加速 折勝家鴨(*) ≫縦書き ≫テキスト
牛乳のコップの波紋冬深し
なにかの拍子に食卓が揺れたのだろうか。小さな地震かな、とも思った。具体的な理由はわからないがただ「牛乳のコップ」に「波紋」がおこっている。濃い白色の「牛乳」におこった小さな「波紋」はささやかな異変とも言えないような異変であるが、寒さが募る時期である「冬深し」とよく響く。一抹の不穏に余情がある。
空砲は空へ片道卒業す
「空砲は空へ片道」は真理。復路のある「空砲」などない。この真理は指摘されるとなるほどと思うが、日常的には見過ごしてしまうところだろう。「片道切符」などという比喩表現もあるが、すべての「空砲」が「空へ片道」だと思うと清々しい気分になる。そういう意味で「卒業」もまた「片道」だ。不可逆性のきっぱりとした華やぎがある。この「空砲」が「卒業」を祝しているようでもあり、青空も見えてきて気持ちがいい。
猫の仔をタオルに包み農学部
「農学部」というのがいい。この「タオル」はおそらく新品ではない。農作業をするときに使う何度も洗濯を繰り返したくたくたの柔らかいタオル、そういうものであって欲しい。「農学部」の構成は多くは学生、そして講師や教授もいる。指導する者とされる者。先輩と後輩。そういう大学生活独特の層状の人間関係の中で「猫の仔」はひときわ愛らしい異物として構われる。
7. 息 江口明暗 ≫縦書き ≫テキスト
春立つと午前零時のメール鳴る
君よ夏のクラウドに記憶せし写真
珈琲を飲み干す夜長ウェブ赫き
現代感覚的な新味を取り入れて俳句的世界の更新を試みている。
一句目、この「メール」は立春を知らせるためのものだろうか、関係ないのだろうか。「春立つと(いうのを知らせるための)」「メール」が鳴った、ということであると若干因果を感じるので、「春立つと(気付いた、そのときふと)」「メール」が鳴った、という風に取りたい。「午前零時」に短く「鳴る」電子音が春を告げているかのようだ。
(余談だが「E-mail」は「メール」と略してはならないという主張もあるらしい。「俳諧の益は俗語を正す也」(松尾芭蕉)であり、意図があっての使用であることは明らかであるので、ここでは容認したい。)
二句目、「クラウド」とは、「クラウドサービスプラットフォームからインターネット経由でコンピューティング、データベース、ストレージ、アプリケーションをはじめとした、さまざまな IT リソースをオンデマンドで利用することができるサービスの総称」だそうだ。DropboxやOneDriveなどと具体名でイメージした方がわかりやすいかもしれない。スマートフォンで撮った写真などをそのままデバイスに保存すると容量が溢れてしまうのでクラウド管理する、という考え方は年々一般化しているように思う。自分以外の人と共有できるのもクラウド管理の利点だろう。掲句は「君よ」と呼びかけている。その「写真」を共有する「君」かもしれないし「写真」の中の「君」かもしれないし、両方かもしれない。いずれにせよ恋のニュアンスがある。眼目は「記憶せし」である。「クラウド」というデジタルなモノが擬人的に「記憶」をする。「夏の」は位置的に「クラウド」と「写真」の両方にかかっているのだろう(「クラウドに記憶せし夏の写真」ではない)。「写真」に記録し、「クラウド」に「記憶」させるのは、夏の一瞬のきらめき……エモ(wikipedia)って感じしません? 私はします。
三句目、「ウェブ」はわかりますね? そう、あなたが今ご覧になっているそれです。この記事も「ウェブ」で公開しています。掲句、「赫き」が禍々しい。「珈琲を飲み干す」安らぎの世界と「ウェブ」で繋がる禍々しい異世界とを思うとその「ひとごと」感が空恐ろしくもある。
古寺に古きもの見て稲光
前述のような現代的感覚もあれば掲句のような渋い句もあり、ヴァリエーションの豊かさがこの作者の魅力であった。
8. あなた泉と云ふいつか 青本柚紀
≫縦書き ≫テキスト
俳句を読む楽しみは明瞭に伝えられた明瞭な景を味わうことの他に、言葉の意外な連なりによる景の結びにくい複雑なイメージを味わう、ということもある。本作品は後者であり、かなり質の高い作品だと感じた。
雲雀どこかにえいえんのある落日の
萵苣ゆがむ顔のかげりはをととひの
本作品からまず感じたのは循環への志向である。
例えば句末を「の」で結ぶ句。他に〈まぎれてゐる光る眼鏡の霾の〉〈口ごもる虹の匂ひは水草の〉〈いよいよの畳に蛇がゐる夢の〉〈濁つてゐるうたごゑの夜の梧桐の〉と本作品では頻出の型である。
前句、「落日の」が「雲雀」に輪廻して循環をなす。この循環が「えいえん」の永続性を支え、「どこかに」という措辞とは裏腹にこの句そのものに「えいえん」がピン止めされたような茜色に眩い世界がある。
後句、こちらは単純な循環を拒否しているように思う。「かげりは」の「は」があることよって「おととひの(かげり)」とつながっていくのだと想像させる。「ゆがむ」は「萵苣」と「顔」の両方にかかっているのか。「萵苣ゆがむ」で切って取り合わせとして読んでもいいのだが、「萵苣」で切って「ゆがむ顔の」と取り合わせるイメージも捨てがたい。「萵苣」の瑞々しく淡い緑ははかない線で描かれ、危ういバランスで成り立っている。
両句とも季語のモノとしての具体性を剥落させて、時間のあり方を環にすることで歪にゆっくりまわる円盤のようなイメージ世界を読者に与える。
煮る人をこぼれて歌の金目鯛
「風の」や「月の」など「○○の」という属性を帯びさせて詩的世界を立ち上がらせるのは伝統的俳諧の手法であるが、ここでは「歌の」である。この「歌」は音楽の方の歌だろうか、和歌などの「歌」だろうか。イメージを限定しないことによって多読性を喚起しながら、確かに何かの調べが聞こえてくるところが非常に味わい深い。「金目鯛」が「こぼれる」のは通俗的には鍋や皿だと思うが、ここでは「煮る人を」である点も詩的である。
掲句も倒置して「て」で繋ぐという循環の技法がとられている。
他にも〈夏蝶の渚といふはしのわずり〉〈夏痩のこはれる岸のしろい窓〉〈洗はれて火の粉のくぐる牛のなか〉〈なほざりの葉書は蛇の湖あかるい〉〈草刈のしなへる日々の塔がある〉〈野は汽車の花咲く苔のさよなら〉など全体を通して「言葉を書くのだ!」という強い意志が感じられ、非常に刺激的で魅力的であった。
(3へつづく)
2018-11-25
2018角川俳句賞「落選展」を読む(2) 岡田一実
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