2018角川俳句賞
「落選展」を読む(3)
岡田一実
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9. 街の動態 丸田洋渡
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この作者はイメージとイメージの連なりを口語を多用して表現し、ややネオテニー的な作品世界の構築を目指しているように思う。
夏みかん小さな切手に小さい人
日本の切手の標準的サイズは「一辺が18 - 20ミリメートル程度」だそうだ(Wikipedia )。掲句、「小さな切手」と言ってもこの標準サイズより小さい、と言うことではなく、このサイズが「小さい」と作中主体が感じているように思う。
「小さい人」は文化人の肖像画かもしれないし、日本画のような図画かもしれない。「小さな切手」にぴたりと配置されている「小さい人」には作り手の律儀さも感じられる。
「夏みかん」の鮮明な色や形をまず想起させ、明るい雰囲気のなかそのささやかな意匠へイメージが移るときの不思議さと愉快さ。充足感が伺える句である。
地下鉄は核に近づく道で夏
この「核」は地球の「核」だと思った。地球の「核」は「直径約7,000 km(半径3,500 km)で、地表からは地下2,900 km以下にある」らしい(Wikipedia)。
普段地下鉄に乗るときに「核」を意識したりするだろうか。しかし言われてみれば地上の道よりも地下鉄は「核」に近い。「近づく」という動詞により、ぐんぐんと地下へ潜っていくような印象も与え、句末の「夏」という季語によって暑さが漲る展開となる。真理を言い止めながらもどこかファンタジックな世界である。
踊り子に天動説を信じる目
盆踊りを見ていると、踊り子の視線が一斉に天へ向くことがある。掲句はそのような場面を切り取っているように思った。
本当には「踊り子」が何を信じているかなど計り知れないのであるが、見ている側からすると彼らの「無」な感じが却って想像をかき立て「天動説」を信じているかもしれないというところまで思わせる。
「天動説」という意外性が句に膨らみを持たせ豊かな味わいを醸す。
10. 高気圧 クズウジュンイチ
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人形の二月の硬き手をひねる
この作者は眇眇たる物事に目を凝らして微細な詩情を掬うところに特徴がある。
掲句、「二月」という季語の生かし方がいい。「二月」というのは月初めに立春となるため陽暦でも春に入るが、まだ寒さ厳しい折であり場所によっては雪がちらつくことさえある。「硬き手」というところに、寒さに強ばっているかのような様子が表出されるが、その寒さの中に春の華やぎの気配が少し漂うところが「二月」である。
「人形」の「ni」、「二月」の「ni」、「ひねる」の「hi」と「i」音を響かせた頭韻も句に硬質さを加えている。
らんちうの粒餌をすぱと吸うてをり
うすぬるく曇る茸の袋かな
音の感覚が冴えている句である。
前句、眼目は「すぱと」であろう。この「すぱと」が俳味であり、句の芯となっている。この開放的な半濁音を含む擬態語があることによって、「らんちう」の丸い口が愛らしく見えてくる。
後句、「茸」の呼吸だろうか。摘みたての「茸」の息吹そのものが「うすぬるく」という温度を伴って伝わってくる。全体的に「u」音が多く音が籠もり、生の不気味さ、死の不気味さが一体となって迫ってくる。
丸椅子の真ん中に穴冷し中華
竹馬のすつと収まる隙間かな
見過ごしがちな意外なところに着目している。
前句、「丸椅子」の「真ん中」の「穴」は軽量化、運びやすさ、蒸れ防止などのために開いている。その簡易な様態が、高級店ではない、「冷し中華始めました」とポスターが貼ってあるような大衆的な食堂を思わせる。尻を蒸らさないように涼しくしながら食べる「冷し中華」のなんと庶民的なことか。でも、結構美味しいよね、という声も聞こえてきそうである。
後句、「竹馬」は乗るときは立体的であるが、それが平面に近い形になる瞬間を捉えている。「収める」ではなくて「収まる」というところに「竹馬」の主役感が現れる。
11. 薪の断面 寺澤一雄
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力士みな大阪にゐる涅槃西風
大阪で開催される三月場所のことだろうか。「涅槃西風」はお釈迦様の入滅の日の涅槃会(陰暦二月十五日)の頃に吹く風。現実的には休場者もいるであろうし「力士」の全員が大阪にいるとは考えにくいが、「みな」という措辞でそう言い切ることで名だたる「力士」が桃色に集う様子が迫力を伴って見えてくる。
このとき、客中主体はどこにいるのだろう。「大阪」にはいないように思われる。より東にいて、その「力士」達のいる「大阪」からの西風を感じているような雰囲気だ。大阪と「涅槃西風」は涅槃という意味でなく西という接点で括られ、因果がうまくずらされた配合となっている。
黄砂降るカメラの紐を首に掛け
この「カメラ」には重量感が感じられる。「紐」が必要なレンズの大きい「カメラ」なのだろう。「黄砂降る」烟った景色。日の暈は大きく感じられ、ものの色は鮮明さを失い黄味を帯びたトーンとなる。
まるでターナーの絵画のようなこの時期であるが、カメラを携えた客中主体はその世界に同化していないように見える。はっきりとした「紐」の確かさがそう思わせるのかもしれない。
風鈴を持てば鳴りけり竹の秋
「竹の秋」は晩春の季語。季語内の季が実際の季と逆になる俳人好みの季語だなとつねづね思う。掲句、「風鈴」の準備をしているのだろうか。手に「風鈴」を吊り、定位置へ運ぶときに鳴る。繊細な情緒だ。
「風鈴」の縦に長い様態と「竹」の縦に長い様態が重なり合って、季節のあわいの情感を織り込んでいる。
犢鼻褌の読みを調べる秋の暮
「犢鼻褌」、私も調べました。みなさんもお調べください。意味は「短い下袴」のことで、調べてみて「なーんだ」と思う、その心の動きが俳諧味とも言える。この「秋の暮」という季語の処し方!馬鹿馬鹿しさの中にメタ的な面白さがある。
他にも〈銅は屋根にコインに夏の雨〉〈月涼し絶滅危惧種絶滅す〉〈ぱつくりと麦藁帽子割れにけり〉〈花曇校歌に残る良き言葉〉〈未草開く直前萼開く〉など俳句的旨味に満ちており、興味深い作品であった。
12. 夜と昼のパレード 赤野四羽
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鳳仙花やがては止まる昼の琴
この作者の魅力は写実と想念を観念も混ぜながら往還しているところである。
掲句、「やがては」とあるから今現在は「琴」が鳴り響いているのだろう。「やがては止まる」というのは推察であるが、止まらない「琴」はないので真理に近い。「昼」という明るさが「琴」の絢爛さをより一層引き立てている。
「鳳仙花」は別称「爪紅」なので「琴」とはツキスギ感もなくはないが、その花のあでやかさとの相性と取りたい。
友の子の耳は大きくよく踊る
「耳は」の「は」は限定であり、「耳」以外は「大きく」ないのだろう。子どもの大きな「耳」がひらひらと「よく躍る」。盆踊りの列の中でもひときわ目立ったのかもしれない。
「友の子」とは全く他人ではないがとりわけ親しくもない間柄だろうか。その「耳」だけがクローズアップされ、まるで「耳」に意思があり、「耳」の動きがすなわち「踊」であると思わせる。
洋梨日和いやな男と宿にいる
「いやな男」とは偶然「宿」で出会ったのであろうか。それとも同行の者であろうか。それはわからない。「宿」という寝食をともにする場所に「いやな男」といることを「洋梨日和」が包む。「洋梨」の甘くぬるりとした食感。さらに「日和」とあることで「いやな」という嫌悪感だけが際立たない妙な味わいがある。
群衆に蝶の過ぎゆく速さかな
「群衆」はどういった場面の人々なのだろう。一読「デモ」などの印象を持った。混み合って停滞した人々は個を剥奪され「群衆」という塊として見做される。そこに「蝶」が「過ぎゆく」。
この「蝶」のなんと解放されていることか。「速さかな」としっとりと速度に焦点を当てることで、滞っている「群衆」に対し実に鮮やかな対比となっている。
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2018-12-02
2018角川俳句賞「落選展」を読む(3) 岡田一実
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