2020-03-29

【2019落選展を読む.1】時代精神を相手にする上田信治

 【2019落選展を読む.1】

時代精神を相手にする


上田信治





2019年の角川俳句賞落選展の鑑賞を書くことを、予定に入れていてなかなか手をつけられずにいたのは、いつもの怠けグセは別にして、同年の西村麒麟さんと抜井諒一さんの受賞作を読んで、いろいろ考えてしまっていたことが、一因ではあった。



書かれたものは必ず、今という時間において読まれる。それは必ず、時代精神を相手に、それとの関係においてある、と思う。



そして10年もすれば時代は変わり、人も、書いたものも、驚くほど時代に取りのこされたり、また逆に、新たな意味を得て浮かび上がったりする。そういったことを、落選展の応募作と、西村さんと抜井さんの受賞作とを読んで、感じたのだ。



そこで、今年は、落選展の作品を、同時代の作品と読み合わせながら考えていくことにした。



要するに、宿題を一気に片づける気でいるわけです。



>> 2019「角川俳句賞」落選展 

http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/655-2019-11-10-2019-1.html





1. 落合耳目 さらにうへ  

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/2019-1.html



八月の包容力としてダム湖

遠山は日の坐る場所花煙草

ダムを抜けまた十月の川となる

橋脚は蹲踞のかたち雁渡し

ダムの背は父の背に似て冬隣

餃子にも羽があるなら神渡し

手袋を握る拳骨とはならず

肩車して春山のさらにうへ





はじめて読ませていただく作者。

発想に型があって、ほとんどの句が見立ての手法で書かれている。



角川「俳句」2020年4月号は、俳人協会賞、同新人賞の発表号だった。受賞句集の自選20句に、たとえばこんな句がある。



一年の未来ぶあつし初暦 小川軽舟『朝晩』

客を待つタクシー春を待つ如し

たんぽぽの絮吹くさやうならに代へ 沼尾将之『鮫色』

パンジーの模様は蝶を呼ぶために 



自分は、この四句と、落合さんの句は(巧拙の差はあっても)それほど違う場所にあるとは思わない。機知で一仕事がしてあって、季語とか、ふつうの人の思い、感情といったものに肯定的。こういった句が、総合誌で作家の発表作に入っていても、正直、まったく違和感がない。



しかし、俳句が日常的な良識の範囲を一切はみださないのであれば、その機知の効果は、ほのぼの4コマ(というものがあったのです)の域を出ない。ほのぼの4コマも、じゅうぶんプロの仕事ではあるので、そういう句が受賞句集にも入っているわけだけれど、そういう句ばかりではないのは、さすがと言うべきか。



梨剝く手サラリーマンを続けよと 小川軽舟『朝晩』

醤油屋は醤油色せり秋の暮 沼尾将之『鮫色』

掌にみづうみの水なつやすみ 藤本夕衣『遠くの声』



落合さんの句は、季語がほぼ予定調和だった。「橋脚」の句の「雁渡し」は正解かも知れないけれど、大正解ではないだろう。



亀鳴いて選挙カーから手の生えて 落合耳目
平成も終りましたが扇風機




この二句は(季語自体の面白さの範囲を越えてはいないけれど)、植田まさし4コマのようなふてぶてしさがあって、好感をもった。





3. 島村福助 噴水  

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/2019-3.html



受精卵包むは宇宙クリスマス

ゆきやなぎ苦悶と見えて来たりけり

目で追へば手を振つて去る春の川

山からは傷口に似る春の潮

一部分河馬大部分春の水




一人で書いている句歴の長くない作者とお見受けした。そういう書き手に、1の落合さんと同じく、見立ての句が多くなるのは、発生当時の俳諧への先祖返りのようなものかもしれない(「落花枝にかへると見れば胡蝶哉」のような)。



俳句が、「季語」と「五七五」で「感興」を書け、という問題だとしたら、見立ての句は、プリミティブな解答例なのだろう。



戦後俳句の一部をなす機知や見立ての方法も、虚子と芭蕉を跳び越えての先祖返りであったかもしれない。



しやぼん玉触れたきものに触れて割れ 片山由美子『飛英』

南風吹くカレーライスに海と陸 櫂未知子『カムイ』



現代俳句において、長らく価値として認められ探求されてきた方向性に、いわゆる文学(近代以来の文学概念)に対するアンチテーゼとしての俳句があったと思う。



それは、虚子に対する絶対視のようなかたちで現れたけれど、一方で、20世紀末の文化思潮のサブカル化は、日本においては表現思想の「漫画」化であると同時に、近世的な「遊び」化でもあった。そうであれば、俳句に、気の利いたひとひねり以上のものがなくても、別に問題はないわけである。



しかし、70年代サブカルの人だった摂津幸彦に「僕はやっぱり現代俳句っていうのは文学でありたいな、という感じがあります」という言葉があることは、自分にとって一つの護符でありアリバイとなっている。村上隆にしても奈良美智にしても「芸術でありたい」がなければ業者の人でしかない。俳句というものを、尊敬すべきものとして扱う唯一の方法は「ゆうても文学ですからね」を忘れないことだと思っている。



うららかなあみめきりんのあみめかな 島村福助

やはらかなシャッターの街四月尽



(つづく)


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