2008-08-03

『俳句界』2008年8月号を読む さいばら天気

【俳誌を読む】
『俳句界』2008年8月号を読む……さいばら天気




俳句界時評 田中裕明の評価をめぐって 林 桂 p50-

「澤」創刊八周年通巻百号記念号の「田中裕明特集」と、「静かな場所」第3号を取り上げ、たいへん興味深い記事。

田中は言葉の力と俳句形式を信頼した作家だが、それは言葉の変容力への信頼とでもいうべきもので、そこに自分自身はいかほどにも定着しないという確信に満ちたものだったろう。田中の「主体」の問題とは、言葉の変容力に身を任せきることだったのではないか。言葉以前の日常生活に、田中の「主体」の葛藤はない。日常に散在する生活者の姿を集約しようなどとは思ってもいないだろう。そこから集められた言葉の中に現れる「主体」を生きることが、俳句を書く意味だったのではないか。


魅惑の俳人たち8 鈴木しづ子 p62-

作家論に、評伝と作品分析の二極を設けることができる。

ある種の作家論は、作家の社会的属性をたえず参照しながら作品(俳句)を論じ、ともすれば、作家論なのか伝記なのか判然とせぬほどの様相を帯びる。

作者の社会的属性には、さまざまな要素がある。性別、年齢、職業、生い立ち、境遇、住所、思想的背景、家族構成、果ては疾病歴まで。評伝的作家論は、それらたくさんの、いわば整理棚から、都合よく、とは言わないまでも「適切」な条件を選び、作品との関連を探り、評者なりの結論を導く。

作品(俳句)の背後にか片隅にか、作者の「現実」がなんらかのかたちで存在することはたしかだろうが、「作家的属性」はどこに行ってしまったのか、といった疑問も生じる。

だからといって、作者の社会的属性をいっさい参照せず作品(俳句)のみを論じて、それが「作家論」として成立するのかどうか。

どちらかを認めて、一方を認めない、とかという話ではない。ほとんどの作家論は、その二極のあいだのいずれかの地点にあるのだが、作家によって、評伝的な様相を帯びやすい人がいる。鈴木しづ子も、そのひとりのようだ。

社会的属性のディテールは判然としないものの、たいへんわかりやすい看板がある。明示的なレッテルがある。「製図工」「結婚そして離婚」「ダンサー」「基地のタイピスト」「黒人兵との恋」、そして「失踪」による「伝説」化。

それらの評伝的要素と、俳句作品のなかの性的、というよりむしろ性行為のモチーフとを関連づけることはたやすく、また、関連づけなしに、作品そのものを、作者の現実(と思しきもの)から完全に切り離して語ることはできそうにない。

だが、わかりやすいレッテルを、わかりやすくセクシャルな句に貼り付けるだけでは、鈴木しづ子という作家の紹介、それも乱暴に単純化して、とっつきやすいかたちにした紹介に過ぎなくなる。そこに、どうとどまらないか、どう展開するかが、この手の作家論の要諦となるのかもしれない。

この特集では、酒井佐忠「鈴木しづ子とは何だったのか」で、評伝的な側面を押さえ、そののち、藤田亜未、松本てふこ、十亀わら、茅根知子、堀本吟の女性五氏がそれぞれ「論」を展開、さらに第一句集『春雷』序、「しづ子句セレクション」を付する構成。鈴木しづ子の「女性」性と、5人の女性執筆者がどんなスタンスをとるかが、興味深いところ(編集意図どおりだろう)。

おもしろく読めたのは、松本てふこ「さびしいからだ」

(「肉感に浸りひたるや熟れ石榴」といった)句の中に見えるのは、世に氾濫するポルノグラフィーが繰り返し描いてきた典型的「墜ちた女」の姿だ。性的な冒険への罪悪感うを抱きながら、ずぶずぶとはまりこんでいく。こういった枠組の中にあるしづ子は決してリアリティのある存在に見えない。(松本てふこ)

鈴木しづ子の「自己ドラマ化」に、「ベタ」な態度、世の中で大量生産される「女性」や「性」や「幸・不幸」のイメージに寄りかかるかのような「リアリティのなさ」を読み取るが、一方で、「まぐあひのしづかなるあめ居とりまく」の句に「どのありがちな物語にもあてはまらない哀しみ」を見出す。

句によって好悪・成功と失敗があるのか、と読めてしまう点が残念だが、あらかじめ付された性にまつわるレッテルを、まずは切り捨てて、クール。

堀本吟「魅惑の俳人鈴木しづ子を読み直す」は「自己ドラマ化」への指摘があるものの、そこには深入りせず、この作家の資質を多角的(社会性、リリシズム、詩的イメージ塑造力…)に見出そうとする。情念に偏った語彙で語られることの多かった作家の「読み直し」を企図したものだ。

「B面にもいい曲がある」的再評価、それはそれで意義のあることだが、この作家の「もっぱら語られるところ」の読み直しという点では、前述の松本「さびしいからだ」のほうにむしろ興味深い記述がある。

十亀わら「しづ子という誘惑」茅根知子「幸せな孤独・寂しみの自由」は、評伝的要素の参照に注意を払いつつ「作品」に踏みとどまることで、わかりやすいレッテル貼り=女流作家としての特異性を逃れ、「読み取るべきもの」を一般へと敷衍しようとするかのようだ。一定の説得力を感じる一方で、腰の引けた感じも伝わる。

藤田亜未「コスモスのように」は、自分から「遠い」存在としての鈴木しづ子から、共通点を丹念に探すような論考。その場合の違和は評伝的要素からの違和、親和は俳句に見出す親和。境遇は特殊でも、俳句作品が一般性を有するという点では、十亀、茅根両氏のアプローチに近いが、無防備に「若い女性」っぽさ、まるだし。まじめな人だと類推できるが、こういう場での「まじめ」は美徳でも武器でもない。

だから、しづ子は決して娼婦ではなかったのだとわたしは思う。心は純潔だったろうと思うし、純潔でいたいと思っていたとわたしは信じている。(藤田亜未)

あまりに生硬な物言いを非難するのではない。微笑ましく思うのでもない。こうした言辞、「からだとこころ」の物語性、女性作者の自己ドラマ化こそが、こうした作家を語るときの主要な成分のひとつではないか。つまり、「そんなにずっぽり、飽きるほど繰り返されて、安っぽく擦り切れてしまったドラマに浸りきって、いいの?」という話。作者としてなら、まだわかるにしても、作者「について」論じる批評者が…。

一方、話をすこし戻せば、そして一般論をいえば、境遇の違いによる「異人性」に臆病である必要があるのだろうか? 自分と近しい日常(作者の現実の日常、また作品に現れる日常)に「共感」を覚える心性はわかるが、それ以外を受け入れないとは、あまりにも狭量な「読み」だろう。

※余談めき、また比較・併置にあまり意味がないが、前述の「田中裕明」の評伝的日常・作者の社会的属性の無効と、これほどまでにかけ離れた作家像、作家へのアプローチがあるのだと思うと、近代とポスト近代の違いとはいえ、ちょっと愕然。


特集:少国民の敗戦 p123-

土肥あき子「少国民の戦後俳句」ほか、敗戦直後の子どもの俳句を数多く並べるが、残念なことに一読者たる私には、校庭に並んだ何百人かの子ども(人間)を遠く眺めているような歯痒い感じしか残らなかった。たくさんいることは承知したが、ひとりひとりの顔は見えない、といった…。俳句というのは、ときどきこんな感じになる。

それとは対照的に、敗戦体験を綴った2本の手書きエッセイ(竹本健司「古きバンザイ」友岡子郷「竹やぶの中で」)が胸に迫る。それは、再生産されないオリジナルな経験を誠実に伝える言葉だから、そして、ひとりずつ、顔が見えるからだと思う。

言葉は、俳句は、街角で集められる署名でも、みんなで願いを込める千羽鶴でもない。ひとりの人から、覚悟をもって発せられる声のほうがむしろ、それがつぶやきのような、ささやきのような小さな声であっても、きちんとこちらに届くのだ。



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7 コメント:

tenki さんのコメント...

あ、書き漏れ。

「『俳句界』を読む」を執筆いただいていている舟倉雅史さんの句が、今月号の俳句界雑詠で、特選に入っています。208ページです。

すてきな句です。好き句(ひさしぶりに使ったw)。

さんのコメント...

 件の特集に言及してくださってありがとうございます。書きにくかったでしょう?すみません。「俳句界の」あの号自体がバラエティがあり面白かったですね。少なくとも「俳句」誌の《師弟云々》の特集よりは読ませました。(ただし、これは今号に限ってのみの印象です。)

天気さんの
【一般論をいえば、境遇の違いによる「異人性」に臆病である必要があるのだろうか? 自分と近しい日常(作者の現実の日常、また作品に現れる日常)に「共感」を覚える心性はわかるが、それ以外を受け入れないとは、あまりにも狭量な「読み」だろう。】とか、
【前述の「田中裕明」の評伝的日常・作者の社会的属性の無効と、これほどまでにかけ離れた作家像、作家へのアプローチがあるのだと思うと、近代とポスト近代の違いとはいえ、ちょっと愕然。】

などのところ、天気さんの現代という時代の状況に認識を観ました。どうしてそんなに「愕然」とするんですか?あり得るちがいでしょ?あまり弁解はしたくないので、うけたまわっておきますが。
 田中裕明と鈴木しづ子では読ませ所がちがうとおもいます、同じ雑誌に話題になって居るところが、この本のこの号の面白いところです。また、金時鐘さんが小野十三郎のことを言っていますね。詩の問題もでてきます。

 林桂さんと私達女性の起用の仕方が反対だったら、また随分たいへんなばあいによってはバトルになっていたでしょう。

 惜しまれて夭逝した田中裕明さんの『山信』自筆版の復刻と作家特集の掲載された「澤」創刊八周年の特集号は私もいただき、これは最近なにより嬉しかったものでした。
やはり形式にのみ頼っているよろしさでしょう。心静まる佳句がたくさんありました。
林さんはその裕明の句柄や姿勢について正鵠を得た指摘をしていますけど、只、「主体との葛藤がない」ということをこの作家の主な特質とするときには(それほどまちがってはいませんが)、どうしてそんなことが可能だったのか、ということをもうすこしぎりぎりとおいつめてほしかったです。

 逆に鈴木しづ子の場合は、なぜこのように自我が主体と葛藤したのか、と言うことが、ジェンダーを越えてぎりぎりとおいつめられるべきなのです。彼女にも言葉の才能を感じますから、境遇をあげつらって、B面俳人でもでもいい句がある、なんて誤解を与えるような失礼なことを私はいっていませんよ。
しづ子の句作りと「ストーリー」が似ているので、ならば、「星の流れに」の方が詩としてはよくできているとは書きましたが・・。そのことをあてこすられたのですか?

 編集部から「純粋な作品論」にして欲しいという趣旨で依頼されたときに、わたしは、すこし違和感を感じました。そしてけっきょくああいうかたちで、戦後作家の多くは時代や自我の(俳句形式以外の)プレッシャーから逃れようとしてその姿自体を対象化したことを、強調する形に書きました。それも、「基地の女」というどの程度の「転落」なのか「タイピスト」だったのか「女給」だったのか、自己演出の根拠のところがさっぱり解らないので、困りまして「黒人兵との恋」が生活の大半であり彼と引き裂かれた孤独の叫びをそのまま発した「作品」を資料にしました。俳人であることを捨てる時期の資料を使いました。いまは無き「俳句空間」一二号や一五号に感謝します。
 この時期の、師匠に当てた実存的な俳人としての鈴木しづ子の自己矛盾が先鋭にでているからです。その時期の彼女の「作品」は一種の反俳句でしょうね、その境界性はもっと知られるべきだとおもいました。

 田中裕明さんが形式に主体を溶かしてしまったのと反対に。しづ子は動機から形式をおいだした一面があるのです。でも、いわゆる俳句のスタイルをもったキチンとしたのもありますから、それも誰かが取り上げ手いました。独りの作家の多面的な傾向や、人生全体の動き方を、われわれ現代の女性俳人はそれぞれ分担する形で、きっているとおもいます。
 岡村知昭さんが句会であったときに、天気さんと同じような共感を示していましたが、松本てう子さんは、かなり秀逸で編集意図にあった文章ですね。また、基地の女が存在する時代を知らない若い方が、わけしりのふりをしていうよりも、少女小説風の純情な読み方をしたほうが率直でいいものです、彼女帯はそういうところから読みはじめて二十年後にはちがったしづ子感を持つかも知れない。

 ま、とにかく、皆さん、今号はお先棒をかづいで、あぴーるします。
「俳句界八月号」をかってあげて現代俳句状虛を知る資料にしてください。結構長く使えると思います。

tenki さんのコメント...

吟さん、どうもでございます。

>現代俳句状虛
現代俳句の今を伝えてあまりある誤変換w

ま、そんな冗談はさておき。

1) B面の比喩

伝わりませんでしたか。誤読と、こちらから一方的に申すのもなんですが、
再読していただければおわかりと思います。
人間にA面もB面もありません。
曲(作品)にA面・B面があるわけで、ABに優劣をつける考えはありません。
いわゆる世間でよく知られるところの句・作風・作家としての特質がA面。
それ以外、あまり触れられることのなかったところがB面。

2) 基本的に。

この稿での私は鈴木しづ子を論じる立場になく、論じる気もありません。
『俳句界』掲載のいくつかの「しづ子論」に触れたに過ぎません。当然ですが、為念。
そのうえで、触れたこと、触れなかったことを含め、
この記事がすべて。あえて足すことも引くことも、私にはありません。

3) 二極

比較・併置に意味はないとお断りした余談(田中裕明関連)に
豊かに反応していただきました。
「ちょっと愕然」は、
社会的属性(評伝的要素)への言及の多寡という意味で、
当たり前とは思いつつ、やはり「ちょっと」愕然。
かたや、境遇などに触れなくとも作品に触れられる。
かたや、ややもすると境遇が記述のメインになる。
批評としては、いずれも「現在」という点で共通
(つまり、しづ子論も裕明論もともに2008年)。
二極(評伝的作家論・作品フォーカスの作家論)の好例かと。
もちろんのこと、「主体」というテーマのもと、
しづ子も裕明も、ともに興味深く意義深い。

4) 異人性

今回の脈絡で噛み砕けば「私とは違う境遇の人」。
藤田亜未さんは、自分との共通点探しに躍起ですが、
記事を繰り返せば、「自分と違ってて、なにか問題でも?」という話。


そんなところです。
この記事、筆致にはちょっと苦心しましたが、
あまり遊びも入れずに(いつもと違う)、
思ったことを手短に書きました。

また、よろしくお願いいたします、です。

さんのコメント...

「現代俳句状虛」(吟)・・とは
「現代俳句の今を伝えてあまりある誤変換w」(天気)

**
あ、ほんとね>入力ミス、誤変換はなおりませんね、すみません。好意的に判読してください、で、ともかく、男性が、マジメにしづ子さんを読んでくださって感謝です。ピントのはずれたところはおゆるしください。
 さっきのことNHK出版から「女性俳句の光と影」(宇多喜代子)という本が著者から送られてきました。これも是非読んでね。
 俳句を鑑賞するときに、幾つかのことを知らなければその作品の鑑賞が成り立たない;といういう場合があることを、著者も書いておられます。それにふまえて宇多さんは
 しづ子については、
「決して忘れてはいけない女性の俳人」とかきながら、その丁寧な作品紹介の後、
彼女が下宿していた家のおばさんを訪ねて聞いたもろもろのことがあり、その玄関のとをしめたときに。
「今後鈴木しづ子に関して知ったことは一切聞かなかったこと、読まなかったことにしようときめました。」(宇多喜代子)
 という微妙な筆致で締めくくっています。
これは、じつはおおきな問題提起で、今回の私達の文章や、天気さんとのやりとりの中にもつらぬかれてくる制約にかかわります。

 おりから、原爆記念日、幾つかの符牒のかさなりがあり、回想がいっきょに昭和20年代にタイムスリップしています。我々はしっかり「現在」にいるようですが、

今回は、読みのレベルの二極を出し尽くしたので、私としてはここらで打ち止め。席を変えてまた、話しましょう。

さんのコメント...

あえてもういちど。
失礼しました。大きなところでこのように誤変換しております。あああ。という感じ。


元「松本てう子さん」
   ↓
正 松本てふこさん(てふこさんごめんね)


元 「彼女帯」
    ↓
正  彼女達  


元 「しづ子感」
    ↓
正  しづ子観 (にてはいますが。)


元 「現代俳句状虛」
    ↓
正  現代俳句状況 (!!?)。 

 早とちりしたり、誤変換したりは私常習犯なのですが、そこから独創的な(?)ものもでることがあるので、まあ、おめこぼしをおねがいします。

tenki さんのコメント...

コメントが3つ、消失しています。
私のコメント1つ、吟さんのコメント2つ。
Bloggerのシステム上の不具合か何か、原因不明です。
(ご迷惑かけます)

───────────────
私のコメントを再度書き込んでおきます。
───────────────

吟さん、どうもでございます。

>現代俳句状虛

すてきな誤変換w
(お気になさいませんように)


1) B面の比喩

伝わりませんでしたか。誤読と、こちらから一方的に申すのもなんですが、
再読していただければおわかりと思います。
人間にA面もB面もありません。
曲(作品)にA面・B面があるわけで、ABに優劣をつける考えはありません。
いわゆる世間でよく知られるところの句・作風・作家としての特質がA面。
それ以外、あまり触れられることのなかったところがB面。

2) 基本的に。

この稿での私は鈴木しづ子を論じる立場になく、論じる気もありません。
『俳句界』掲載のいくつかの「しづ子論」に触れたに過ぎません。当然ですが、為念。
そのうえで、触れたこと、触れなかったことを含め、
この記事がすべて。あえて足すことも引くことも、私にはありません。

3) 二極

比較・併置に意味はないとお断りした余談(田中裕明関連)に
豊かに反応していただきました。
「ちょっと愕然」は、
社会的属性(評伝的要素)への言及の多寡という意味で、
当たり前とは思いつつ、やはり「ちょっと」愕然。
かたや、境遇などに触れなくとも作品に触れられる。
かたや、ややもすると境遇が記述のメインになる。
批評としては、いずれも「現在」という点で共通
(つまり、しづ子論も裕明論もともに2008年)。
二極(評伝的作家論・作品フォーカスの作家論)の好例かと。
もちろんのこと、「主体」というテーマのもと、
しづ子も裕明も、ともに興味深く意義深い。

4) 異人性

今回の脈絡で噛み砕けば「私とは違う境遇の人」。
藤田亜未さんは、自分との共通点探しに躍起ですが、
記事を繰り返せば、「自分と違ってて、なにか問題でも?」という話。


そんなところです。
この記事、筆致にはちょっと苦心しましたが、
あまり遊びも入れずに(いつもと違う)、
思ったことを手短に書きました。

また、よろしくお願いいたします、です。

さんのコメント...

池田澄子さんの新刊のタイトでしっかり警告されていましたね、
ネットの河には、念力のエネルギーもながれているのかもしれません。議論自体は、たいしたことではないので、天気さんの反論?でうちどめにしましよう。あとのバトルは楽屋裏で。
時々表に出て波風たてることにします。

誤変換については、
「松本てふこ」さんなのに、真夜中の「鳥目」で、もうろうと、「てう子」さんって書いたかもしれない、ことごめんなさい。