【俳誌を読む】
『俳句』2008年8月号を読む……五十嵐秀彦
●大特集「師の時代、私の時代 師は自分の年齢でどう詠んでいたか」 p61-
15人の俳人が最近の自作品の発表と、自分の先生が自分と同じ年齢のころに作った作品とを紹介するという内容。
たとえば池田澄子さんであれば近作10句と、三橋敏雄の72,73歳のころの10句を並べ、エッセイで師への思いをつづるというわけである。
考えてみれば、よっぽど自信がなければとても引き受けられない企画で、特に高浜虚子の10句と自作10句を並べることになった依田明倫さんはオントシ80歳だからこそできたのだろう。
ましてや自分の直接の師ではない山口青邨の「銀杏散るまつたゞ中に法科あり」を含む10句に自作を並べる高田正子さんにいたっては、かなり辛いものがあったのではなかろうか。
それにしても総合誌は師系が好きなようだ。
一粒で二度おいしい、という狙いの企画。
●岸本尚毅 「名句合わせ鏡(8)死の話」 p116-
風生と死の話して涼しさよ 高浜虚子
この句をまず取り上げて、筆者は俳句と「死」の関係について語る。
このテーマは意外と正面から語られることが少ないようなので興味深く読んだ。
ただ、「死」を詠みこんだ作品に視点を置いているため、いま一歩本質に迫れていないという印象もある。
富士秋天墓は小さく死は易し 草田男
死や霜の六尺の土あれば足る 加藤楸邨
などの句を挙げ、《俳句の中の「死」が観念的になりがち》とするのも、「死」という自分では体験できないことを詠う点では避けられないことだ。
そのことよりも、《日本人の死は古来、季節の移ろいの中にあったのではないでしょうか。西行の「願はくは花の下にて春死なむその如月のもちづきのころ」に象徴される春の死。夏雲の下、生い茂る草木の中に朽ち果てる夏の死。玲瓏と月のさす秋の死。枯れ枯れとした天地の中の冬の死。死は季節の中に、季題とともにあるのです》という部分に本質に触れるものがあるだろう。
さらに言うならば、季節の中に死があるというよりも、季節こそが死なのだと私は思う。
それゆえ死を直接題材とせずとも、俳句それ自体が「死」を主題としていると言えるのではないか。
短いエッセイではあるが、今月号の中でもっとも考えさせられる内容を持っていた。
●「17字の冒険者」 p248-
桜咲く無邪気な毒を孕みつつ 阿部もも
香水で武装してゆく日なりけり 小寺美紀
しやぼん玉噴き上げパレードの鯨 鈴木淑子
花は葉にパズルのピースあと7片 藤田亜未
若手俳人を紹介するこのコーナー、今月は4人とも女性だった。
『俳句』の中ではいつもどこか期待しながら読んでしまうコーナーなのだが、残念ながら毎号ぬるま湯の句が多いように感じてしまうのは私だけだろうか。
上手だとは思う。しかし、切迫感がない。
俳句はそれでいいのだという意見もあるだろう。
そうだろうか。
このコーナーに限らず、『俳句』に掲載されている作品を読んでいて、現代という時代が俳句にどう影響しているのだろうかと、ふと思った。
社会が保守化してゆく中で俳句も保守化したと言われて久しいけれど、現代そのものは保守化という言葉では到底括られぬところまで来ている。
個人、社会、国家、世界、どのレベルで見ても殺伐として重苦しい終末感をともなっているのに、俳句ひとりが泰然としている風がある。
この行き場の見えない終末感が底からにじみ出てくるような俳句は、なかなか見当たらないようだ。
思えば不思議なことである。
※『俳句』2008年8月号は、こちらでお買い求めいただけます。 →仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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15人の俳人が最近の自作品の発表と、自分の先生が自分と同じ年齢のころに作った作品とを紹介するという内容。
たとえば池田澄子さんであれば近作10句と、三橋敏雄の72,73歳のころの10句を並べ、エッセイで師への思いをつづるというわけである。
考えてみれば、よっぽど自信がなければとても引き受けられない企画で、特に高浜虚子の10句と自作10句を並べることになった依田明倫さんはオントシ80歳だからこそできたのだろう。
ましてや自分の直接の師ではない山口青邨の「銀杏散るまつたゞ中に法科あり」を含む10句に自作を並べる高田正子さんにいたっては、かなり辛いものがあったのではなかろうか。
それにしても総合誌は師系が好きなようだ。
一粒で二度おいしい、という狙いの企画。
●岸本尚毅 「名句合わせ鏡(8)死の話」 p116-
風生と死の話して涼しさよ 高浜虚子
この句をまず取り上げて、筆者は俳句と「死」の関係について語る。
このテーマは意外と正面から語られることが少ないようなので興味深く読んだ。
ただ、「死」を詠みこんだ作品に視点を置いているため、いま一歩本質に迫れていないという印象もある。
富士秋天墓は小さく死は易し 草田男
死や霜の六尺の土あれば足る 加藤楸邨
などの句を挙げ、《俳句の中の「死」が観念的になりがち》とするのも、「死」という自分では体験できないことを詠う点では避けられないことだ。
そのことよりも、《日本人の死は古来、季節の移ろいの中にあったのではないでしょうか。西行の「願はくは花の下にて春死なむその如月のもちづきのころ」に象徴される春の死。夏雲の下、生い茂る草木の中に朽ち果てる夏の死。玲瓏と月のさす秋の死。枯れ枯れとした天地の中の冬の死。死は季節の中に、季題とともにあるのです》という部分に本質に触れるものがあるだろう。
さらに言うならば、季節の中に死があるというよりも、季節こそが死なのだと私は思う。
それゆえ死を直接題材とせずとも、俳句それ自体が「死」を主題としていると言えるのではないか。
短いエッセイではあるが、今月号の中でもっとも考えさせられる内容を持っていた。
●「17字の冒険者」 p248-
桜咲く無邪気な毒を孕みつつ 阿部もも
香水で武装してゆく日なりけり 小寺美紀
しやぼん玉噴き上げパレードの鯨 鈴木淑子
花は葉にパズルのピースあと7片 藤田亜未
若手俳人を紹介するこのコーナー、今月は4人とも女性だった。
『俳句』の中ではいつもどこか期待しながら読んでしまうコーナーなのだが、残念ながら毎号ぬるま湯の句が多いように感じてしまうのは私だけだろうか。
上手だとは思う。しかし、切迫感がない。
俳句はそれでいいのだという意見もあるだろう。
そうだろうか。
このコーナーに限らず、『俳句』に掲載されている作品を読んでいて、現代という時代が俳句にどう影響しているのだろうかと、ふと思った。
社会が保守化してゆく中で俳句も保守化したと言われて久しいけれど、現代そのものは保守化という言葉では到底括られぬところまで来ている。
個人、社会、国家、世界、どのレベルで見ても殺伐として重苦しい終末感をともなっているのに、俳句ひとりが泰然としている風がある。
この行き場の見えない終末感が底からにじみ出てくるような俳句は、なかなか見当たらないようだ。
思えば不思議なことである。
※『俳句』2008年8月号は、こちらでお買い求めいただけます。 →仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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