【俳誌を読む】
『俳句界』2008年8月号を読む……舟倉雅史
●新作巻頭3句 松山足羽 p9-
犬掻きや学びて是を習ひけり
孔子が「学んで時にこれを習う亦よろこばしからずや」と言ったとき、犬掻きのことまでは頭になかったに違いないのである。そもそも犬掻きなど、クロールや平泳ぎのように練習を重ねて初めて習得できる高級な泳法ではないから、学校や水泳教室では教えないのである。人はこの泳ぎを先生や書物から学ぶのではない。犬から学ぶのだ。そして、やってみるといとも簡単にできてしまうのは、ヒトもかつては四足の動物だった、そんな太古の記憶が体のどこかに残っているからではないだろうか。いいオトナのくせに、海やプールで犬掻きのようなことをしている人がいたら、それは彼が水の中でつい童心に返ってしまったのではなく、かつて前足だった頃の記憶を蘇らせた彼の手が、無意識のうちに水を掻いているのだと考えるべきかもしれない。
ところでこの句、「―や―けり」という具合に切れ字が重複している。これは避けた方がいいとされるパターンなのだが、禁を犯していることがあまり気にならないのは、「犬掻き〈や〉」で強く切れているように感じられず、「犬掻き〈を〉学びて」のようになだらかに次に続いているように読めてしまうからだろう。もし「犬掻きや」で強く切れているのだとしたら、学んだのは犬掻きではない別の事柄ということになる。最初から解釈のやり直しだ。しかし、犬掻きを学んだという以外に、どんな読み方があるだろう。
蝶泳(バタフライ)遮二無二叩き蹴りにけり
バタフライはクロールに次ぐ高速の泳法で、一流選手ともなれば、その体の動きは水面をイルカが跳ねるような力強さと美しさを感じさせる。しかしここに描かれた泳者の不器用な手足の動きときたら、溺れかかって必死に助けを求める人の姿さえ髣髴させるではないか。
「蝶泳」という言葉は、いくつか国語辞典にあたってみたけれども見つからない。おそらく泳法としての「バタフライ」を中国語に翻訳したものが、日本語の中に入り込んできたものだろう(註1)。それはともかく、「蝶泳」と書いて「バタフライ」とルビを振るというような自在な日本語表記の仕方が、俳句の表現の可能性を押し広げていることは間違いない。そのことは、仮に「バタフライ」と片仮名だけの表記だったときと比べれば、よくわかる。
立泳ぐ金輪際に一人なり
「蝶泳」に疲れたのか、今度は立泳ぎである。シンクロナイズドスイミングの選手の得意技だが、この句の立泳ぎはそんな華麗なイメージとは程遠い。脚の動きは浮力を生み出す動きであり、人を遠ざけるための動きでもある。とにかく彼は「金輪際に一人」でいたいのだ(註2)。誰にも近づいてきて欲しくないし、自分から群集に近づくこともしない。そうやって立泳ぎを続けていさえすれば、溺れることもなく、うっかり人のいる方に近づいたりすることもなく、望みどおり水の上の孤独を楽しむことができるだろう。水から頭を出して、天下を眺め続けることができるだろう。(つまり、立泳ぎとは彼の生き方そのものなのだ。)やがて力尽きたときのことが気がかりではあるが、そのときはおもむろに犬掻きでもして陸に上がるつもりなのではなかろうか。
(註1)念のため「中日辞典」で確認してみたが、やはり「蝶泳=バタフライ、ドルフィンキック」とあった。やがて日本語として認知されるときが来るのかもしれない。
(註2)本来は「金輪際に」の「に」は余計だろう。その点がちょっと残念。
※『俳句界』2008年8月号は、こちらでお買い求めいただけます。 →仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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犬掻きや学びて是を習ひけり
孔子が「学んで時にこれを習う亦よろこばしからずや」と言ったとき、犬掻きのことまでは頭になかったに違いないのである。そもそも犬掻きなど、クロールや平泳ぎのように練習を重ねて初めて習得できる高級な泳法ではないから、学校や水泳教室では教えないのである。人はこの泳ぎを先生や書物から学ぶのではない。犬から学ぶのだ。そして、やってみるといとも簡単にできてしまうのは、ヒトもかつては四足の動物だった、そんな太古の記憶が体のどこかに残っているからではないだろうか。いいオトナのくせに、海やプールで犬掻きのようなことをしている人がいたら、それは彼が水の中でつい童心に返ってしまったのではなく、かつて前足だった頃の記憶を蘇らせた彼の手が、無意識のうちに水を掻いているのだと考えるべきかもしれない。
ところでこの句、「―や―けり」という具合に切れ字が重複している。これは避けた方がいいとされるパターンなのだが、禁を犯していることがあまり気にならないのは、「犬掻き〈や〉」で強く切れているように感じられず、「犬掻き〈を〉学びて」のようになだらかに次に続いているように読めてしまうからだろう。もし「犬掻きや」で強く切れているのだとしたら、学んだのは犬掻きではない別の事柄ということになる。最初から解釈のやり直しだ。しかし、犬掻きを学んだという以外に、どんな読み方があるだろう。
蝶泳(バタフライ)遮二無二叩き蹴りにけり
バタフライはクロールに次ぐ高速の泳法で、一流選手ともなれば、その体の動きは水面をイルカが跳ねるような力強さと美しさを感じさせる。しかしここに描かれた泳者の不器用な手足の動きときたら、溺れかかって必死に助けを求める人の姿さえ髣髴させるではないか。
「蝶泳」という言葉は、いくつか国語辞典にあたってみたけれども見つからない。おそらく泳法としての「バタフライ」を中国語に翻訳したものが、日本語の中に入り込んできたものだろう(註1)。それはともかく、「蝶泳」と書いて「バタフライ」とルビを振るというような自在な日本語表記の仕方が、俳句の表現の可能性を押し広げていることは間違いない。そのことは、仮に「バタフライ」と片仮名だけの表記だったときと比べれば、よくわかる。
立泳ぐ金輪際に一人なり
「蝶泳」に疲れたのか、今度は立泳ぎである。シンクロナイズドスイミングの選手の得意技だが、この句の立泳ぎはそんな華麗なイメージとは程遠い。脚の動きは浮力を生み出す動きであり、人を遠ざけるための動きでもある。とにかく彼は「金輪際に一人」でいたいのだ(註2)。誰にも近づいてきて欲しくないし、自分から群集に近づくこともしない。そうやって立泳ぎを続けていさえすれば、溺れることもなく、うっかり人のいる方に近づいたりすることもなく、望みどおり水の上の孤独を楽しむことができるだろう。水から頭を出して、天下を眺め続けることができるだろう。(つまり、立泳ぎとは彼の生き方そのものなのだ。)やがて力尽きたときのことが気がかりではあるが、そのときはおもむろに犬掻きでもして陸に上がるつもりなのではなかろうか。
(註1)念のため「中日辞典」で確認してみたが、やはり「蝶泳=バタフライ、ドルフィンキック」とあった。やがて日本語として認知されるときが来るのかもしれない。
(註2)本来は「金輪際に」の「に」は余計だろう。その点がちょっと残念。
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