〔週俳7月の俳句を読む〕
上田信治
その「半個」の部分
鶏鳴のかすれてゆきぬ青あらし 中田剛
蟻止まり有象無象を見上げたる 〃
〈鶏鳴〉の句は、ものが「在る」から、「在った」に移行していく手触りのようなものを伝えて、作者にとって、たとえば〈暁の草をはなるる氷あり〉(『珠樹』)の近くにある句でしょうが、〈蟻止まり〉には、驚きました。
〈蟻〉が、ふと見上げたものは、有る〈象〉であり無い〈象〉であった。蟻が見上げるとなれば〈象〉は、とうぜんエレファントなわけです。〈緑夜私(ひそか)に骨から肉を剥がす音〉の、〈ひそか〉も、また楽しい。芭蕉のヒソカは「窃か」ですからね。
これをしも、ロゴス的世界と言うべきか? あるいは、丈高い「談林」とでも。
五月雨や老人の列前進す 奥坂まや
眼を抉り能面となる涼しさよ 〃
堂々たる、面白さ。この作者のものは、代表句とされる〈地下街の列柱五月来たりけり〉〈万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり〉も、そんなに代表句とされていない〈ありありと磯巾着を取りし痕〉なども、いつも、カクジツに面白い。
この人のポエジーは、不思議なことが「ちゃんと腑に落ちること」にあるのだろうと、その百発百中ぶりから、そう思う。
町なかの空地の夏の立ちにけり 千葉皓史
あたらしきぬかるみにしてえご落花 〃
「平明」とは、フラットな言葉とフラットな素材の斡旋がなされ、しかも、平板ではない状態のことだと思う。
この作者の「平明」な句は、抽象表現主義画家の、どこまでも平べったく、かつ立ち上がる何かのある、抽象画を連想させる。〈空地〉なら、ロスコ。〈ぬかるみ〉はバーネット・ニューマン?〈六月の夕日へ道を通しけり〉(「俳句」8月号)
喪中に付き四万六千日のJAZZ 丹沢亜郎
俳句に入れるモノ/コトの数は、一つと見せて二つ、二つと見せて三つくらいが、一般的。掲句は、五七五に「三つ」盛り、と見せて、〈に付き〉を数えると、三つ半。その「半個」の部分が、くすぐったくおもしろい。
蜘蛛の囲を縁切寺で破りけり 白濱一羊
そういう意味で〈縁切寺〉は、三つある要素の二つめなのだが、言葉的にはひっついてるのに(べたべたの縁を切る/破る寺)、情景的には、まったくの余計モノで、ぜんぜん、そこが〈縁切寺〉である意味がない。
という、とぼけ味。
箱庭の池で泳いでゐる魚 北川あい沙
「いや、その〈魚〉泳いでませんから」と、みんなで、突っこみましょう。
俳句と、時間性についての、おもしろい議論を横目に。
■ 丹沢亜郎 「暗い日曜日」 10句 →読む
■ 中田 剛 「有象無象」 10句 →読む
■ 白濱一羊 「ゴールポスト」 10句 →読む
■ 奥坂まや 番号順 10句 →読む
■ 千葉皓史 夏桔梗 10句 →読む
■ 北川あい沙 柿 の 花 10句 →読む
2008-08-03
上田信治 その「半個」の部分
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