2008-08-24

ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー 〔後篇〕小野裕三

ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー 〔後篇〕

小野裕三


『豆の木』第12号(2008年4月)より転載


3. 最後に ~ 表現とテクノロジー


前回まで俳句とインターネットという関係が持つ可能性についてさまざまな側面から検討してきた。だが、ここまでの議論ではまだ物足りない部分が実はある。第一章において、インターネット環境が産み出しうる新しい俳句の可能性について言及したが、それはあくまでコミュニケーション環境の変化ゆえの帰結であり、テクノロジー自体が孕む新しい表現の可能性については考察されていなかった。

一般論として、テクノロジーは新しい表現を作り出しうる。このこと自体はひとつの真理だ。現在、このような観点からもっとも活発な活動が行われているのは、例えばメディア・アートと呼ばれるようなジャンルがそうだろう。

表現手段(メディア)自体がひとつの新しさになりうるというジャンルの性質上、テクノロジーをその表現アイデアの中に取り込みやすい。それでは、文芸はどうなのか。テキストベースのコンテンツ(文芸)が、時に難解な隘路やいささか不毛とも見える世俗的フロンティア発掘争いに迷い込みかねないのも、そのようなテクノロジーの進展を表現の新しさに取り込めないという背景も大きいような気がする。

メディア・アートなどのようにテクノロジーの新しさが表現の新しさに直結し、不思議に迷いのない作品が次々産み出される状況を羨ましいとも思う反面、こんな疑問も湧く。確かにテクノロジーは新奇性ということの泉にはなりうるだろう。だが、もう一歩踏み込んでそれは新奇性だけでなく、本当に本質的な意味での良質もしくは革新的な表現を産み出しうるのだろうか。

そのことを、俳句に即して考えれば、インターネットやデジタルをベースとした新しいテクノロジー自体が、新しい俳句を直接的に産み出すことはないのか、という問いも実は可能性としてはありうる。例えばひとつの可能性として、新しいテクノロジーがまったく新しい俳句の座、そしてそれに伴う新しい俳句を産み出す可能性がないとは言えない。

わかりやすい例で言えば、Wikipedia(インターネット上の百科事典だが、各項目について特定の執筆者は存在せず、インターネットを通じて匿名の複数のメンバーが加筆修正を行いながら解説文を完成させていく仕組みになっている)と同様の仕組みを利用して俳句を生成かつ精製する(つまりは、多くの匿名の俳人たちがひとつの句をネット上で推敲していく)といった、テクノロジーを使った文字通りの方法論としての〝新しい座〟が産まれたり、といったことも単純な技術的可能性で言えば充分にありうることだ。実際、確かにインターネット句会といったものも盛んになっているが、それはあくまで過渡的な形態と見ることもできる。句会や連句ではない、新しい俳句の座がテクノロジーの力によってできないとは限らないのだ。

さらにもっと進んで考えれば、インターネットもしくはデジタルの技術によって新しい〝知能〟(人間と技術の混交、もしくは純粋に技術の中にあるものとして)もしくはそれに準じるものが成立するとすれば、そこから新しい俳句が産まれてくる可能性もあるだろう。

こんなふうに書くと、さすがにそれは夢物語だと思う人もいるかも知れない。しかし、ゲームの世界では既にそのようなことは現実化している。コンピュータの知能は、チェスの世界チャンピオンを既に凌駕したとされており、将棋も遠くない未来にそのようなことが可能になるとも言われている。であれば、芭蕉や子規を人工知能が上回るという日が来ないとは言えない。

いや、実際、デジタル技術を活用すれば言葉のランダムな組み合わせを作り出すことは無理ではないし、実際、そのようなソフトウェアめいたものを作ったというような話も、実はインターネットなどが隆盛になる以前にすらも聞いたことがある。ただそのようなものがその後まったく進展しなかったのは、(そのようなソフトウェアを開発すること自体にそもそも実利性がほとんどなかったという点もさることながら)俳句の質を見極めるのは基本的に人間の知性・感性によるしかないという、おそらくそこに原因があったはずだ。

チェスや将棋のように勝ち負けのルールが明文的にはっきりしているものと違って俳句の質を見定めるのは感覚的な部分に頼る部分が大きいため、要するに仮にソフトウェアを使って俳句を大量に生産したとしても、それを選別するためにはやはりそれなりの俳句の実力を備える人が必要であったのである。

だが、時代は今やインターネットによる集合知が唱えられる時代になった。とすれば、その選別の部分について人間の知能をネット上で増幅させる形で担うという方法もありえなくはない。さらに言えば、そのような集合知をベースにして実際に質の高い俳句を作り出せるようなシステムができないとも限らない。まさかいくらなんでもそんなことが、と思われるだろうが、「グーグルニュース」(文字通り、グーグル内でニュースを提供するサービスなのだが、実はそこには一人の記者も編集者も存在せず、ネット上のさまざまな情報を自動的に加工して「ニュース」として情報を配信している)などの例を見ていると、決して夢想ではないようにも思える。

実際、奇妙な話に聞えるかも知れないが、今や〝世界一の俳句知り〟にグーグルはなろうとしている。ネット上に存在しているデータを蓄積し、さらにそれだけでなく、書籍のデジタル化、つまり図書館などに所蔵されている本の内容をデジタル化するという作業も日本を含めた複数の大学や図書館と共同して進めている。そこでは過去と現在、そして現在の延長にある未来の俳句がデジタルの海の中に飲み込まれていく。とすれば、グーグルは遠からず〝世界一の俳句知り〟になる。そして、そのようなものをベースとした新しい俳句的知性が産まれないとも誰も断言はできない。

と、ここまで最後の章であえてどこか夢想めいた話をしてきたのは他でもない。繰り返すが、俳句とはその短さゆえにインターネット的な風景ともともと近しいものを持っている。言い換えれば、それはデジタルやインターネット的なものともともと相性がよく、従ってそれはデジタルやインターネットの大きな波と文化や芸術的知性・感性との関係を考える際に、ひとつの最良の実験室になりうるはずなのだ。

新しい時代の知性・感性、新しい時代の創作や芸術、そのようなものを照らしだすひとつの実験室として、俳句とインターネットというコンビネーションは面白い可能性をいくつも持っている。

例えばもし、人工的な知性環境によって人の手を介さずに俳句を産み出すことができるのであれば、それはとことんまで試してみるべきだろう。先入観に囚われた聖域など作ることなく、やれるところまでやってみればいい。そして、逆にそこで限界が見えたとすれば、そこに残されたものこそが、俳句であり、文芸の本質部分であるに違いない。新しい時代の創造力の実験室として、それは豊かなものをもたらしうる。

いずれにせよ、俳句はインターネットから多くのものを受け取っていくだろうし、逆にインターネットは俳句という長い時間を掛けて洗練されてきた知恵から多くのものを受け取りうる。そこに、新しい時代の創作や芸術の指針が顔を覗かせているかも知れないという夢想は、決して意味のないものではないと思うのだ。

(2008.02.06)



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