2008-08-03

三宅やよい 「私」の始末

〔週俳7月の俳句を読む〕三宅やよい
「私」の始末


「有象無象」の最後の1句、

緑夜私(ひそか)に骨から肉を剥がす音  中田剛

…という句が頭の隅にひっかかった。何が気になったかといえば、「私に」に「ひそかに」というルビを打ってあることにである。

「私」が不在のように思える俳句といえど個人の内部の幻想と外部の接点を言葉で一つの像に切り結んでいることにかわりはない。乱暴に言ってしまえば俳句の「私」は、「わたくし」と格闘している川柳や「わたくし」を方法化している短歌などと比べテキトーで場当たり的である。

かく言う私も含めそれぞれが流儀ももたず、句の雰囲気で曖昧になるよう処理しているように思える。最初からないもの、見えすぎるのとうるさいもの、とすましているわりには。あるときは「私」であったり「私たち」であったり、神のような目線であったり、と、けっこうないいかげんさである。その生ぬるさが別段いやではないのだけど、もう少しちゃんとしたほうがいいかななんてときどき後ろめたさを感じたりもする。それだけにこの句に出て来た「私」=ひそかに、というルビに「あれ?」っと、立ち止まってしまうのだ。

そのまま…

緑夜わたしに骨から肉を剥がす音

…と、読ませてしまってもいいのに、それだと明らかに句の位相が変わってしまうからだろうか。と、いうよりこの句だけが違う位相にあるとは思えない。どれも同じレベルで処理されているのに、ここで「肉を剥がす音」が対象を仮装しない内部現実で、それが聞こえるのは「ひそかな」「わたくし」の観念である。とわざわざ注意書きのようなルビをつけることで、他の句との違いを強調させているようにも思える。(それすらも逆説であるだろうが)そのためこのルビに突き当たると、もう一度通り過ぎた句へ戻って全体に流れている空気感を確かめることになる。

蟻止まり有象無象を見上げたる    中田剛

そういえば初句があやしい。まずは蟻にとりつき、有象無象なんて曖昧なものを見上げさせて「私」の視線ではない場所に魂をゆらゆらさせて燕や泥鰌をめぐったあげく作者の内部に立ち戻る印象を濃くさせる。

はぐらかされているようにも思う。初句と結句が運動会につきものの入場門と退場門のように句群の両端に突き立っている。そう思いつつ読み返すと内部で繰り広げられている光景が、しろがねの雨だれが蜘蛛の巣になり、盥回しされている蟇蛙があり、と見慣れた現実の裏側から一枚違う風景が立ち上がってようにも思えるのだ。



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