2008-08-03

すずきみのる なつかしい景

〔週俳7月の俳句を読む〕
すずきみのる
なつかしい景



眼を抉り能面となる涼しさよ 奥坂まや

ギリシャ悲劇のひとつオイディプス王の話をふと思い出した一句。運命に弄ばれ、父を殺し、母とまぐわったオイディプス王。最後は、自らの両目を潰して、この悲劇に幕を下ろす。その後の王に安寧の日々が訪れたか否かはわからぬものの、あるいは自らの運命を背負い込む深い諦念の中に生きながらえたかもしれない。シェークスピア作『マクベス』の中の「きれいはきたない、きたないはきれい」との三人の魔女の言葉を待つまでもなく、見えることによってかえって見えず、見えなくなって初めて見えることもあることだろう。眼を抉り、能面となる事によって得た「涼しさ」とは、はたしてどのようなものであろうか。

武蔵野の夏たけなはの小径かな 千葉皓史

目的もなく、雑木林の中を歩くのが好きである。というのか、目的もなく歩く場合、私などには雑木林が一番性にあった場所のようだ。そして、雑木林といえば、自然と「武蔵野」という地名が浮かぶ。もっとも、その「武蔵野」は現実のものではなく、私の想像の中に浮かぶ、しかもかつての「武蔵野」である。それは、国木田独歩の小説『武蔵野』の中のそれであり、高濱虚子一行が吟行を重ねたという「武蔵野」である。掲句は、もちろん現在の「武蔵野」の景であろうが、私にとっては、一度も見たこともないなつかしい「武蔵野」の小径の景である。


群がれる蟻退けたれば土つめたし  中田 剛

この土のつめたさは一体何なのだろうと、ふと思う。季語は「蟻」、季節は夏、であるにもかかわらず、である。あるいは、「蟻」は何に群がっていたのだろう、とも。私などは、群がっていたのは、何かの死体であり、土のつめたさは、その死体が土を冷やしたその冷たさのように読んでしまう。蟻が群がっているのは、あるいは「死」そのものかもしれない。

同じ作者の句に「蟻止まり有象無象を見上げたる」の作もある。有象無象を見下ろす視線が、あるいは「神」の視線であるとするなら、有象無象を見上げる視線も、何かそれに近い存在のもののようにふと思われたりもする。「蟻」は「蟻」でありつつも、すでに「蟻」ならざる存在として一句の中に息づいているようだ。


いちまいの布となりたる南風   北川あい沙

風を布に喩えた句を、私は知らない。だから、私にとってこの一句はとても新鮮な句として感じられた。さらに、情景としては、沖縄の芭蕉布が吹き流されている様などがぱっと頭に浮かんだ(実際に、そんな情景を眼にすることがあり得るのかどうか、私は知らないが)。「南風」で沖縄とは、なんとも安直な連想かもしれないけれど、それは平凡な私の感性を恥じるばかりである。それにしても、視覚的にはとらえられない風本体の動きを、布にたとえることで、そのうねる様や吹きすぎる様が見えるような気にしてしまう、そんなイメージ喚起力を持つ作であると思った。



丹沢亜郎 「暗い日曜日」 10句 →読む
中田 剛 「有象無象」 10句    →読む
白濱一羊 「ゴールポスト」 10句 →読む
奥坂まや 番号順  10句 →読む
千葉皓史 夏桔梗  10句 →読む
北川あい沙 柿 の 花 10句 →読む

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