〔週俳7月の俳句を読む〕羽田野 令
事物が他者として在ること
箱庭や地球の夜は影なりき 丹沢亜郎
暗い日曜日、ダミアだ。十句に被せられているこのタイトルのイメージが強く、どうしてこのタイトルがついたのだろうかと思いながら読んでいくことになる。「暗い日曜日」は、自殺者が続出したのでフランスでは放送禁止になったという、厭世的なメロディーの、自分の死後の瞠いた目を想像している悲しい歌である。やはり一連の中には陰膳、香典返し等の語があり、死にまつわる句であることがわかる。
掲句は、夜というものは太陽に照らされている地球の影の部分であるということを言っているのであるが、地球をそのように巨視的に眺め、箱庭という季語が配されている。そして、過去の助動詞「き」を使って「なりき」と書かれているから、地球の夜は影だったなあ、と言っていることになるが、これは普通に読めばヘンである。が、題が示しているように、死後の想像の中で地球を見ていると考えるといいのだろうか。
緑夜私(ひそか)に骨から肉を剥がす音 中田剛
骨から肉を剥がすという行為は、日常の調理や食事の時によくあることである。だが、「私(ひそか)に」がつくことによって、食卓の上の平和なナイフの音から、なにか怪しげなものを含むものとなる。私という漢字を「ひそかに」に使っているのは、私だけの秘密のようなニュアンスがある。「青ひげ」や「黒塚」のような恐ろしさまでもその延長線上に思わせるという意図があるのか。緑夜と肉、緑と赤という色彩の中で隠微な音が響く。
夕風のなかなか迅し夏桔梗 千葉皓史
7月に、あ、もう桔梗が咲いている!と、専らよその庭に目をとめるのは、桔梗が秋の季語だと知るようになってからのことだ。夏の草花に混じって咲いている桔梗は、白であれ、紫であれ、きちんと襟を正して凛として立っている。
風が「迅し」と表現されている。水の流れに言う言葉だ。風だと普通は強い弱いだろう。はやい風おそい風とは言わない。また、「迅し」に「なかなか」がついているから、実際にはそう強い風ではない。或は、強いとも弱いとも判断つき兼ねるような風なのだろう。そんなに速度のない風だけれど、よく味わってみると「なかなか」はやいよ、ということなのだ。「はやい」は、変換では「早い」「速い」と出てくるが、「迅い」とは出てこない。そんな一般的ではない字の「迅し」に籠めた、風を讃える気持ち。さわやかな心地よい風なのだろう。風がそのように表現されることによって、桔梗の美しさが際立つ。
素裸になりどこからも遠くなる 北川あい沙
衣服を全部脱いでしまった時の、身ひとつの寄る辺なさ。誰も居ない部屋であってもちょっと不安な感じがよぎる。次に例えば風呂に入るという行為が待っていても、それまでの少しの間の裸は不安だ。まぐはひの前だとしてもそうだろう。それを「どこからも遠くなる」と言った。自分以外の事物が他者として在ることを、裸になったとき直接的に感じ取った。身体を通して得たふとした感覚を捉えて巧みである。
■ 丹沢亜郎 「暗い日曜日」 10句 →読む
■ 中田 剛 「有象無象」 10句 →読む
■ 白濱一羊 「ゴールポスト」 10句 →読む
■ 奥坂まや 番号順 10句 →読む■ 千葉皓史 夏桔梗 10句 →読む
■ 北川あい沙 柿 の 花 10句 →読む
2008-08-10
羽田野 令 事物が他者として在ること
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