2008-08-10

大井奈美 非日常的世界を開く認識

〔週俳7月の俳句を読む〕大井奈美
非日常的世界を開く認識



箱庭の池で泳いでゐる魚   北川あい沙
無花果割る六条御息所の恋  奥坂まや


北川と奥坂の作品は、読者を日常的な意味を離れた世界へと誘っている。

かつて藤田湘子は、日常における個人や意味と結びついてモノローグ化した俳句を憂え、俳句の「ダイアローグとしての詩」という側面を強調して、個人の境涯を離れた普遍性に至る重要性を説いた(『俳句全景』p.229)。二人の作品は「ダイアローグの詩」として、読者に豊かな世界を開いてみせているといえるだろう。

とはいえ、北川と奥坂の作品がもつ、われわれを非日常的世界へと誘惑する形式は、それぞれに異なっている。

北川あい沙の句は、意味の上で切れない、自然な流れをもっている。箱庭の池で魚が泳ぐという、現実にはありえない内容であるのに、平明な言葉を用いた句の流れによって、言葉が読み手に自然に入ってくる。虚構にリアリティがあるのだ。

今井杏太郎は「なんでもないあたり前のことの面白さ」(『通草葛』あとがき)とその不思議さに「捉われる心」(「わが俳句開眼 にぎれば拳」『俳句研究』1986.6月号 p.181)について強調していた。

北川の作品は、まさにこうしたありふれた形象(ここでは「箱庭」)に潜む不思議さにとらわれ、それを自然な言葉で掬いとることによって、日常と平行する異世界を見事につくりあげているのだ。


輪郭の薄くなりたる昼寝人   北川あい沙
人の世にぽかりと浮いて柿の花  


北川の作品が提示する異世界は、日常だけではなく、この生をも離れた場所であるようだ。

生命感が薄れ、どこか永遠の相を呈する、無変化で、静謐で、意味のある時間から離れた世界。北川の句を読むとき、読者は自己の「輪郭」まで「薄くな」って「人の世」を離れていく、どこか超然とした視点を得るだろう。その作品は、日常の生と分ちがたく結びついた主体性を超え出るように、われわれを誘惑している。

自然な言葉を用いる北川の方法によって読者は、想像力を介さずに、突如として、日常的な世界に隠された異世界、ある種のパラレル・ワールドに迷い込んでしまう。北川が提示しているのは、読者の想像力によって自由につくられる世界というよりむしろ、日常の傍らに静かに息づいている、完成された美しい「箱庭」世界であるようなのだ。

他方、奥坂まやの作品は、言葉の取り合わせの妙によって、読者を非日常的世界へと誘っている。

冒頭の句における、割れた「無花果」の爛熟した妖艶な印象と、「六条御息所」の嫉妬深い恋心の魅力的な取り合わせ。句の中に切れを用い、連想関係にない二つの語彙を配合することによって、豊かで美しい世界が立ち現われている。

「無花果」という漢字表記の、上品でありつつどこか虚しい印象も、高貴な身分にあって気位の高い御息所の、花を咲かせずに終わった恋のゆくえにふさわしいとさえ思われる。

湘子は、切れを用いない作品を、散文に近いもの、つまり説明的なものとして批判していた(『俳句作法入門』p.23)。奥坂は、切れと取り合わせを用いた迫力のある作品によって、読者を日常に潜む異世界というより、むしろ全く新しい別世界に誘っているのである。


眼を抉り能面となる涼しさよ 奥坂まや
番号順に肉体並ぶ日の盛  


語の取り合わせに加えて、これら二つの作品を特徴づける、展開や形容の意外性も、読者を日常世界から引き離すことに一役買っている。人間の身体が、客観的な事物のように詠みこまれている時空は、無気味な狂気をはらんだ、幻惑的な夏の世界を開いている。こうした手法によって奥坂が提示しているのは、読者の自由な想像力によって広がっていく別世界、アナザー・ワールドに違いない。

「俳句はその性格からして意味を求める詩ではなく、「像」をむすぶことにその特徴がある」というのも湘子の言である(『俳句全景』p.227)。北川や奥坂の俳句にふれて、読者が非日常的世界に誘われるとき、そこには無意識的な飛躍が介在する。ある作品によって読者が何らかの「「像」をむすぶ」のは、理性的推論によってではないのだ。

俳句は理性中心的に読まれるというよりむしろ、見られて像をむすぶという、非理性的あるいは身体的な営為に深く関わっている。読者が非日常的世界を垣間見るのは、無意識的で身体的な意味形成の体験であるのだ。

同様に、作者である北川と奥坂もこれらの俳句を詠む過程において、自身にとって他者のようにさえ感じられる無意識の領域を旅して、言葉を獲得した瞬間があったのではないだろうか。

再び湘子の言葉を借りるなら、「もうひとりの自分」(『俳句全景』p.228-229)が創作に介在していたのではないだろうか。自分のふれた事物と、それが自分の内面へひきおこした変容を見つめることによって、俳句の言葉が形をとったのではないか。俳句解釈だけではなく創作もまた、無意識的で身体的な面をもっているように思われる。

このような非理性的意味形成において、厳密なコードは存在しない。日常的な意味を離れた俳句がむすぶ「像」は、したがって、俳句の作者と読者とで精確に共有されることはない。

湘子が用いた「ダイアローグ」という言葉が含意する、社会的対話といったニュアンスを避けるために、俳句の読者の非理性的意味形成を「コミュニケーション」と呼んでもいいだろう。そのコミュニケーションの実態は、作品によって、読者個人の歴史性に基礎づけられた心の構造が変容し、無意識的・身体的に、新しい価値を創造することなのだ。

北川と奥坂の作品はそれぞれに異なる仕方で、非日常的な世界を開いてみせる。われわれはその魅惑に酔いつつ、俳句の創作と解釈に介在しているはずの瞬間、つまり偶然=幸運におこる非理性的認識について、再考をうながされるのである。



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