2008-09-14

さいばら天気 200円とか60秒といった世界

〔週俳8月の俳句を読む〕さいばら天気
200円とか60秒といった世界



日雷魔法瓶ン中氷だけ  西川火尖

読んで、いきなり、魔法瓶の中にいるような、つまり、魔法瓶の銀色の内側を、中から見ているような感覚に襲われるのは、「日雷」効果にちがいありません。

日雷と魔法瓶の銀色と氷と、すべてが質感の点でつながるような気になるのも、冒頭、一閃の「日雷」が読者たる私の神経部分に及ぼす事態であるような気がします。

  

ゆく夏のシンクに水の伸びゆける   山口優夢

ここにある「水」は、例えば水脈よりも、あるいは他の俳句的脈絡にある「水」よりも、「物質」を感じさせます。「水の伸びゆける」という言い止め方がそうさせるのでしょうか。モノをそこにあらしめること。それは俳句にとって言葉にとって、偉大な成功といえるものです。

  

みづいろの朝にちよつぴり蝉の鳴く  津久井健之

「朝蝉」を17音にまで引き延ばすと、この句になりそうな気がします。悪い意味で言っているのではありません。好みからいえば、そうした薄い句、声の大きすぎない句が好きです。

「みづいろ」が作者がひとつ加えた描写でしょうか。この「蝉」という10句連作には「色」が点在します。「どしやぶりに蝉のあかがね迫りけり」の「あか」、「金胡麻を炒るひとときや蝉の夕」の「金」。「芥を焼く煙突白し蝉しぐれ」の白もそう。

この白い煙突、ゴミ焼却の煙突は、ある種の都市生活者にとっては、ランドマーク(地理的指標)より、むしろイコン(聖像)に近い。すこし大袈裟な物言いですが、なにか「歴史のどんづまり感」のようなものがあるのです。

連作「蝉」は、朝から晩までの蝉の一日を叙述して、たいへん愉しい作品。夜になって一生を終えるのではなく「まだ元気」。やさしさのある結末です。

  

みなみかぜ駐車場まで早歩き  中原寛也

駐車場は、1分遅れても、次の20分、30分の料金が加算される。どうしたって早足になります。ああ、ぎりぎり間に合って200円トクした、と。

バカなこと、卑俗なことを言っているぞと、鼻白む方もいらっしゃるかもしれません。すみません。しかし、日々の暮らしというものは、こうした200円、1分の積み重ねです。「みなみかぜ」のなかで、こうした些事が詠み込まれる。俳句というもの、懐が深いものだと、あらためて思ったりもするのです。

  
泡立たぬ歯磨き粉あり帰省する   小林鮎美

生家の歯磨き粉でしょう。自分の部屋に置いたものなら、「あり」などと驚くはずがありません。かつては自分の日常の所在地であった生家と現在の日常のあいだにある距離。「帰省する」という透明な言い切りようのなかに、その距離が見えます。

  

空耳と空の間に秋の虹  山田露結

虹が聞こえる。

これは、すごいことです。

しかも、はるかな距離感を保ちながら。

これは、音楽でも絵画でも映画でもムリ。言葉(もっと言ってしまえば俳句)でしか味わえない悦楽です。

  
老人に夜握られし向日葵よ   関 悦史

昼のイメージがべったりと付いて離れない向日葵が、夜に置かれる。これは、あまり味わったことのない感興です。

老人はしばしば何か突拍子のないことを起こしてくれます。

ちなみに、私は、「老人に夜」で切って読みました。切らずに読んでも景色はそれほど変わりません。

  

親類を仏間へとほす扇風機   田口 武

開け放たれて、廊下や次の間、手前の間とつながった仏間へと、扇風機の風が後押すように親類を通す。いや、首を振っているのなら、風が、ではなく、顎の先で促すように、親類を通すのかもしれません。

そうなると、扇風機が家族の一員であるかのような気さえしてきます。実際、仏間や客間で使う扇風機は、首が長めだったりして、家族にとってはちょっと誇らしげな(よく出来た息子のような)存在でした。



西川火尖 「敗色豊か」 10句 →読む 山口優夢 「家」 10句 →読む 津久井健之 「蝉」 10句 →読む 中原寛也 「あなた」 10句 →読む 小林鮎美 「帰省」 10句 →読む 山田露結 「森の絵」 10句 →読む 関 悦史 「皮膜」 10句 →読む
田口 武 「雑草」 10句 →読む

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