2008-09-14

『俳句界』2008年9月号を読む 五十嵐秀彦

【俳誌を読む】
『俳句界』2008年9月号を読む……五十嵐秀彦



魅惑の俳人たち:9 上田五千石
 「眼前直覚の推移 概説」松尾隆信 p.72-

私はこれまで五千石とその俳句について特に強い関心を持つことなくやってきた。
だからすぐに思い浮かぶことといえば

 もがり笛風の又三郎やあーい

 萬緑や死は一弾を以て足る

などの代表句と、「眼前直覚」ぐらいのことである。
スローガン嫌いの私ではあるが、この「眼前直覚」という言葉には、どこか惹かれるものがあった。
今回の特集の中に、松尾隆信が「眼前直覚の推移 概説」を書いている。
「眼前直覚」ということの意味が少しでも私にわかる手がかりを与えてくれるかもしれぬと、まず真っ先にそれを読んでみた。
「眼前直覚」とは、先に挙げた二句の収載された第一句集『田園』時代の作句方法を捨て去り、再出発を期して掲げた言葉なのだそうだ。
その後、句集の順で見ていく。
第二句集『森林』から次の二句を挙げて、松尾は次のように述べる。

 竹の声晶々と寒明くるべし
 
 開けたてのならぬ北窓ひらきけり

《前の句については「身延の裏山を歩いていた。眼前ににわかに竹の声が起った」との自註があり、後の句には「ある峠を越したところで、蚕屋の二階の北窓の板戸を外しているのに出会って」とある。「事実のままに叙し得て、既に山国にものっぴきならない春が来ていることを、即座に言いとめた」二句である。こうして認識した作句のありようを「眼前直覚」と表現したのである。黄檗派の瑞林寺に起居し、坐禅を組むこともあった五千石にとって、禅で得られる直覚に近いもの、同様のものとして自然に湧いた言葉であったのだろう。『森林』には、「眼前即興」にして眼前をそのままに述べた、「眼前直叙」の句が多く収められている》

しかし、第三句集『風景』になると、その「眼前直覚」が「眼前直叙」ではなくなってゆく。

  みづうみに雨がふるなり洗鯉

《「季語+想(を述べる)」型の「眼前直覚」である。このような方法をも「眼前直覚」に含めることによって、『森林』時代に感じられたある種の窮屈さ、堅苦しさから開放され、五千石俳論は確立されたのである》

その後、さらに「眼前直覚」は発展をしていく。

  火の鳥の羽毛降りくる大焚火

《美し過ぎる言葉を用いることに耐え得る十七音詩。これらを「眼前幻視」の句と呼びたい》と松尾は言う。

この論考から「眼前直覚」の変遷を追うと、「眼前即興」「眼前直叙」~「季語+想」型の「眼前直覚」~「眼前幻視」という道筋として整理できる。
なるほどと思いながら、これもやはり「客観写生」や「二物衝撃」「内観造形」などの、俳句の世界でよく見られる作句姿勢の標語化とあまり変わらないという印象を受ける。
それは、既にある作品の鑑賞の手助けにはなるかもしれないが、はたして作句そのものにどれほどの力を持つ言葉なのか、という疑問を私は「眼前直覚」にも感じてしまう。
作品そのもののほうが、はるかに雄弁であるはずだ。
四文字熟語のような「標語」は作品の前ではさほど意味をなすものではなく、場合によっては鑑賞の妨げになることもあるだろう。そして、そうした「標語」から俳論を展開する人もいるが、作品の本質に迫るためにどれほどの意味があるのだろう。
著者の言わんとすることに異論を唱えるつもりはないが、「眼前直覚」が作品の本質を言い当てている言葉なのだろうか、という疑問が残るのだった。


五千石句セレクション p80-

 焚火踏み潰す下界へ還らねば

 梁掛けに遺品となれり夏帽子

 秋の蛇去れり一行詩のごとく

 太郎に見えて次郎に見えぬ狐火や

 色鳥や刻美しと呆けゐる


初心と歩む四季9 銀河-青春俳句・寺山修司の場合- 大串章 p38-

寺山の青春期の俳句の中から「黒人悲歌」「銀河」「ラグビー」の俳句を挙げ寺山修司の俳句の魅力を語っている。
修司俳句に惚れぬいている私には、それだけで面白く読めてしまった。

 黒人悲歌わが足下より麦青む

黒人悲歌と寺山が言っているものは黒人霊歌のことだろう。
彼は黒人霊歌に触発されて、後年「時には母のない子のように」を作り、当時「天井桟敷」の女優であったカルメン・マキに歌わせて大ヒットとなった。
カルメン・マキは今もこの歌をステージで歌っている。
最近のライブでは、歌の後半に黒人霊歌 "Sometimes I Feel like a Motherless Child" を歌い込むようになった。
亡き恩師・寺山修司への追悼の思いからであろう。
本文とは関係ないが、ついそんなことを思い出してしまった。
そんなカルメン・マキの歌は youtube で聴くことができる。




特別作品32句 「あるまじきあるまじろ」 久保純夫

 紅芙蓉躰ひらいてゆくたびに

 あるまじき酸橘咥えしあるまじろ

 かなしみのかたちを問われ唐辛子

 蟋蟀の地続きにして少女軍




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