2008-09-07

田中亜美 もはや子どもではない作者の覚醒

〔週俳8月の俳句を読む〕
田中亜美
もはや子どもではない作者の覚醒



絵扇の中へ帰れぬ子どもかな
   山口優夢

子どもには帰れない場所が、いくつもある。たとえば午睡のみじかい夢、空想のふしぎな物語。帰れないということは、いちどはその世界の住人だったことを意味しているのだろうが。
絵扇の絵も、初めは誰かによって眺められ夢見られることで、描き出された世界だ。その絵の世界へ、現実と夢幻の世界を難なく<ワープ>して入り込んでしまう子どもがいる。そのような子ども時代もあった。しかし、扇が広げられても、すぐに折り畳まれてしまうように、夢の世界もすぐに消えてしまう。
「帰れぬ子ども」を見つめているのは、もはや子どもではない作者の覚醒であり、「絵扇」の典雅な響きに、深い情趣が感じられる。


星合にささめく音の製氷機   小林鮎美
 
「ささめく」の響きに惹かれた。下五の「製氷機」と相まって囁くようなS音の響きが一句を貫いている。「星合 hoshiai」というやはりS音の入った季語の選択も、爽やかでナイーブな逢瀬を連想させる。
<明け方に通り雨あり秋に入る>のA音、<じゃがいもを潰す厨の暗さかな>の中七下五に籠められた、かるい鬱屈を感じさせるU音の母音など、韻律の感覚に優れた作者と思う。


金胡麻を炒るひとときや蝉の夕   津久井健之

蝉が降り注ぐように鳴く夏の夕暮れどき。戸外にはまだ陽光がのこって明るい。蝉の声と西日の眩しさを感じながら、台所で金胡麻を炒るひとときは、至福の瞬間に違いない。
この句から感じられるのは、晩夏の光景だ。ぐったりするような残暑ではなく、来たるべき秋を予感させる、恩寵のような夏の夕べ。酷暑をくぐりぬけたからこそ訪れる、恵みの季節への希望。そうした連想を可能にさせるのは、「金胡麻」、とりわけ「金」の美しい一文字である。
 

鏡には映り阿部完市話す   関 悦史

不思議な文体を用いた句である。はじめ、この句を読んだとき阿部完市という俳人を表象する上で、鏡や鏡に纏わるメタファーを用いることはいかにもありがちと思った(阿部完市=「あべかん」は精神科医でもあり、無意識は彼の作品ならびに作品論に通底するテーマだ)。だが、繰り返し読むうちに、「鏡には」の「には」の措辞に、意味の関節を外すような、あべかん俳句の世界を感じた。
無粋を承知しつつも、この句を既存の構文にあてはめてみたい。全体の主語(S)は「阿部完市」で、動詞(V)は「話す」となる。つまり、読み手がメッセージとして理解するのは、ともかくあべかんが話している、というだけのことだ。それ以上は、よく分からない。
ここで鏡「に」映りながら、あべかんが話している、というならば、一定の状況説明にはなる(つまらないけど)。ところが、作者はここで、鏡「には」と、思わせぶりな強調をほどこして、何が映るのかということに、注意をうながす。とはいえ、映っているものは示されない。不分明なまま、一句は、鏡のように、阿部完市の話している、その世界へ、あるいはその世界を映すことへと、うつろってゆく。
言い換えれば、ここには、不在の主語Xが隠蔽されながら暗示されており、それが阿部完市の作品世界と重ねあわされるのだろう。

ところで阿部完市といえば、<絵本もやしてどんどんこちら明るくする><精神はぽつぺんはいうぞぽつぺん>など、宙吊りにされたような独特の文体に非常に魅力がある。分かりそうで分からない、分からないけど何となく分かる世界を、その世界の豊饒を、いわば真空パックのまま、読み手に開示させるのが、うまい。
ゆえに、私はあべかん俳句を読むたびに、その構文の分析を試みたいような誘惑にもかられるのだが、それこそ、この句の作者・関悦史の示す「鏡」の術中にはまるということなのだろう。


今朝秋の針を落としてボブ・ディラン   山田露結
森の絵に色なき風を加へけり                

残暑厳しき折、「森の絵」と題された十句に接して、爽涼の季節を少し先取りしたような気持ちになった。
第一句。この句を読んで、無性にボブ・ディランが聴きたくなり、しばらくは彼のCDばかり聴いていた。ややくぐもったその声に(音源自体がレコードじゃないの、という話はさておき)、レコード針が溝に着地するときの、独特の浮遊感を懐かしく思い出し、ギターのサウンドには、晩夏から初秋への移ろいを感じた。今もCDを流しながら、ボブ・ディランってこんなによかったっけ、と不思議な感慨にかられている。
とはいえ、ボブ・ディランの固有名詞が、アナログな音や初秋の訪れを感じさせる音楽の代表であるかといえば、必ずしもそうではないと思う。ふさわしい音楽は、ほかにいくらでもある。しかし、掲句の魅力は、この決まったような、決まらないような、不思議な固有名詞の提示の仕方ではないだろうか。今朝の秋を感じ、レコードでボブ・ディランを聴いた、というだけのシンプルな報告。そのことが想像の領域を広げており、一句に余韻をもたらしていると思う。
読み手の想像に任せるという傾向は、第二句の「森の絵」にいっそう顕著である。「森の絵」に「色なき風」を「加へけり」という、その行為の主体は、一応は作者と考えられる。だが、絵に描かれている森がどんな森であるのか、色の無い風とはどのようなものなのか(自然の風は透明であるが、それを絵として再現するためにはなんらかの色を用いなければならないだろう)は、一切説明されていない。この絵の描かれたキャンバスは「読み手」の想像と、想像に基づく創造をくぐりぬけることで、はじめてひとつの輪郭を結ぶのだ。

ここで「読み手」と定義されるもののなかには、おそらく作者自身も含まれているのではないだろうか。
己にとっても他者にとっても未知の世界があり、そこに投錨する、その投錨のために書かれる一句というものも、きっとあるだろう。



西川火尖 「敗色豊か」 10句 →読む
山口優夢 「家」 10句 →読む
津久井健之 「蝉」 10句 →読む
中原寛也 「あなた」 10句 →読む
小林鮎美 「帰省」 10句 →読む
山田露結 「森の絵」 10句 →読む
関 悦史 「皮膜」 10句 →読む
田口 武 「雑草」 10句 →読む 

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