2008-09-14

馬場龍吉 既視感によって結ばれるもの

〔週俳8月の俳句を読む〕馬場龍吉
既視感によって結ばれるもの



俳句を詠む者と俳句を読む者とは、まったく同じ経験ではないのだが、ほぼ同じ経験、体験による既視感によって結ばれているのではないだろうか。

  

長き夜のどこもきしまぬ廊下かな 山口優夢

この作家は耳を澄ませてものをよく見ている。廊下のこの季節を把握するのに秋の夜を持ってきた。言われてみれば廊下には四季がある。春は庭先の緑の息吹きを映し、夏は西日の射し込むなかを足裏にぺたぺたと張り付くような実感がある。冬には素足にその冷たさを。掲句は廊下とは軋むものということを前提としている。その廊下が軋まないのは通るものが居ないということだろう。この長い夜をしみじみと過ごす自分と虫の鳴き声だけなのかもしれない。この時間を愛おしむ気持ちが「きしまぬ廊下」なのだ。

水音のひしめいてゐる夏休

水とだけあるから、川や海の流れもそうだが、生活に使われる水も含まれるだろう。ひしめかせているのは人間でなければならないだろう。それは「夏休」だからだ。川岸や浜辺も見えてくるし、水遊びの水も見えてくる。水が人とじゃれ遊ぶのが夏なのだ。

  

金胡麻を炒るひとときや蝉の夕  津久井健之

実際に見届けたわけではないが地中から抜け出て一週間過ごすという「蝉」の、ある一日を追った連作とも言える。胡麻を炒る音とその匂いのなかに聞こえる蝉の声。この蝉は法師蝉でありたい。

  

泡立たぬ歯磨き粉あり帰省する  小林鮎美

なんともアンニュイな詩でもあるが、帰省に早る気分も多少あって面白い。

  

森の絵に色なき風を加へけり   山田露結

東山魁夷の湖面に映る森と白馬の「緑響く」のような絵を思いたい。絵とは絵具の他にさまざまな風が加筆されてるんだと納得させられる。机上派作家は時にこういう作品を生み出す。この感覚大事にしたいもの。

  

縁側を風が流れる遠花火     田口 武

花火そのものが風に流される俳句は見ているが、身近な風を詠んで、遠花火の音も流されて聞こえてくるようなしっかりとした捉え方に賞賛の拍手をおくりたい。


既視感にはきっかけが必要だ。そのきっかけが俳句であるなら、これほどうれしいことはない。


西川火尖 「敗色豊か」 10句 →読む 山口優夢 「家」 10句 →読む 津久井健之 「蝉」 10句 →読む 中原寛也 「あなた」 10句 →読む 小林鮎美 「帰省」 10句 →読む 山田露結 「森の絵」 10句 →読む 関 悦史 「皮膜」 10句 →読む
田口 武 「雑草」 10句 →読む

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