2008-10-05

鷹女への旅 第2回 三宅やよい

 鷹女への旅
 第2回

 夏藤のこの崖飛ばば死ぬべしや

 三宅やよい

初出『船団』第65号(2005年6月1日)



成 田 高 等 女 学 校

年譜(『俳句研究』1971年2月号所収)によると鷹女は一九一二年(明治四十五年) 成田高等女学校に入学している。

私は小学校から十二年間女ばかりの学校で生活してきた。男女共学で育ってきた人には想像もつかない場所だろうが、異性がいない学校生活というのも案外気楽なもの。そこでの生徒の傾向を大まかに分けてしまえば、女ばかりの親密な雰囲気にどっぷりひたって過ごせる人と、競争相手が女だけに限定された生ぬるい世界に物足りなさを感じてしまう人に分かれるように思う。

私が在学した昭和四十年代、男性に混じって女性が働く道が社会に拓かれつつあったとはいえ、「いずれは結婚していいお母さんになるのが幸せなのよ」と、教師たちはことあるたびに繰り返した。反抗的で出来が悪い私などはよく叱られていたけれど、鷹女はどんな女学校時代を送ったのか。

日本の女学校の歴史は明治十五年、東京女子師範学校(御茶ノ水女子大学)付属高等女学校設立より始まった。明治三十二年各都道府県にその設置を義務付けた「高等女学校令」をもとに各地に続々と女学校が設立された。成田高等女学校も雨天体操場(今の体育館だろうか)の増設を条件に認可された千葉県下最初の私立高等女学校である。

当時まだ女子が教育を受けられる場が少なかったこともあって、他府県からの受験者も多かった。明治三十一年の尋常小学校への女子就学率がようやく50パーセントに達したことを考えると、それより上の高等小学校、それから女学校と進学する女子はよほど家庭が恵まれていて女子教育に理解があるうちの子供と考えられるだろう。そう思うと鷹女とほぼ同時代の汀女やしづの女など、地方に住む女学校出の女俳人は言わば特別な環境にあったといってもいいだろう。御茶ノ水出身の久女などエリート中のエリートで喧伝されたプライドの強さは当然といえば当然の学歴の高さだった。

鷹女の通った成田女学校の生徒心得には、「学芸を修むる智徳を養ひ、他日良妻賢母たるの基を作らんが為」という教育目標が掲げられている。これは当時としては当たり前の考え方で国の方針そのものが「貞淑温和な婦徳の涵養を中心内容とする良妻賢母主義に基づき、家事、裁縫、芸事中心の助詞教育を施した」(『日本大百科全書』小学館)だった。

このことは後の鷹女を考えるうえでも重要ではないかと私は思っている。一見我が強く、自立心が強いように見える鷹女ではあるけど、「良妻賢母」の精神は抗い難く彼女の芯の部分を形成しているように思えるからだ。この創設者の石川照勤を鷹女は昭和十年九月、吟行会で成田を訪れたときの文章の中で、次のように述懐している。

事につけて想ひ起されますのは、故石川大僧正の神々しい御面影です。御ン手もて吾が幼き前髪など御撫で慈しみくだされ給うた大僧正がしみしみ御懐しう存ぜられます。(「小野蕪子先生を郷里の俳壇に御案内して」)

この石川照勤は成田の基礎を築いた人物として今も成田の人々から尊敬されているが、鷹女も限りなくこの人物に心服していた様子。石川氏と敬愛する父が心血を注いで設立した女学校の教育方針に従順であることに何の矛盾も感じることはなかっただろう。鷹女は幼稚園のとき同様、女学校の誕生直後に入学している、小さい頃から一貫して父が携わる新事業の実験的体現者でもあったのだ。試行錯誤を重ねながらよりよい教育をという女学校の熱意は父の熱意でもあった。鷹女は父の愛を一身に受け止めてその強い感受性をこの成田の丘で育てていったのだ。

女学校は三方を断崖と堤に囲まれ秋は紅白の萩がいっぱいに枝垂れ咲くので萩学校とも呼ばれていた。

鷹女が語るこの女学校は現在の成田高校である。卒業生にオリンピックハンマー投げの室伏広治やマラソンの増田明美がいるとか。成田山公園の東側に位置するこの学校はなるほどちょっと小高い丘の上にある。もちろん当時の建物やら面影はほとんど残っていないが、正面玄関から見ると、とても明るい印象の高校だった。女学校のあった場所は付属小学校の位置にあたるそうだ。この学校の前の道を通って西に歩けば鷹女の家の前に出るわけで、その道筋はほとんど変わっていない。鷹女の家があったあたりから裏山へ向かえば、成田図書館、新勝寺公園、と道は続いてゆく。


鷹 女 の 通 っ た 道

高女時代の鷹女は、「数学、英語、図画などを好み、作文は得意でなかったといわれている。スポーツはテニスが好きで、同校校庭の一段低いところにテニスコートがあり、熱心にコートに足を運んだ」(『成田ゆかりの人物伝』小川国彦著・平原社・2002年)という。

綿の体操着を着て、木製のラケットに白いボールを打ちかえる活発な少女。サーブやボレーには持ち前の勝気な気性が現れただろう。放課後毎日練習して、友達とたわいもない話に興じながら肩をたたきあい、おしゃべりしながら女学校前の坂道を下って帰る。そんな活発な少女時代の鷹女を想像するのも楽しい。

鷹女がその青春時代を行き来した道は、昼間でも少し薄暗い感じがする。鬱蒼とした大木が生い茂る石段を中ほどまで上ると、崖の斜面に図書館とおぼしき小さな建物がある。裏のあたりに幼稚園があるのか、時折子供が走り回る細かい足音と賑やかな声が聞こえてはくるが、姿は見えない。不動ヵ丘を散歩し、また図書館で文学書を読む日々。まだ俳句には縁のない生活だったが、鷹女はよく散歩に出かけていたようだ。

  夏藤のこの崖飛ばば死ぬべしや

自註によるとこの句の成立には、学校も含む不動ヵ丘の崖裏とその崖を覆いつくす藤の花房の光景が引き金になっている。

わたしの故郷、不動ヶ丘の小高い崖裏に、五月も半ば頃になると、その崖肌を覆いかくして咲き競う純白の無数の藤房─たとえようもないあの壮観さを眼底ふかく描き起こしつつ、句はならず苛々とかなしい。(「自註十句」)

鷹女が学校に通った大正の初めごろはこの裏山は公園として整備されていくわけもなく崖がむき出しだったのだろうか。今は公園に上がって下を見下ろしてみても、木立の隙間から街並みがうかがえるくらいで展望はひらけていない。公園は広くて高校の裏側まで歩いては行かなかったが、季節になれば鷹女が見た景色の一端でも感じることは出来るだろうか。

自宅の裏山は不動ヶ丘と呼ばれ、大木の杉林や松林、梅林もあって、いつも散歩を楽しんだが、あたりを逍遥する白面の僧たちの姿に出逢うことも珍しくなかった。

  春昼の僧形杉にかくれけり  原 石鼎
右一句は、大正8年頃石鼎先生が当地に一泊された折詠まれたものであると後日先生から直接お聞きしたことがある。(「三橋鷹女略年譜」前掲)

当時の静かに奥深い不動ヶ丘の林の雰囲気が感じられる文章である。公園として整備された今でも人気があまりなくて、ひんやりとした感じのする場所なだけに、この林の暗がりから頭を剃りあげた若い僧がふっと大木の陰から姿を現せば面妖な気持ちになるだろう。

公園の道を新勝寺の本堂めざして歩いてゆく途中に藤棚があった。もうすっかり花も落ちて青々と葉が茂っているが、その幹は二匹の大蛇が絡み合っているように太い。鷹女の句のとおり棚の下には「この世のもの」のお婆さんが、きょとんとした面持ちで立っている。

歩きつかれた私も老婆の隣のベンチに座ってさやさやとなる藤棚の葉を見上げる。緑の葉の茂りの間から真青な空が見える。たちまちのうちに時間軸が歪んで、手押し車によりかかる足元のあぶないこのおばあさんとわたしと、女学校の袴姿の鷹女がいちどきに藤棚の下に集っているような不思議な感覚におそわれた。

晴れたかんかん照りの道を歩いてきた私にこの裏山の印象はずいぶん暗い。木立の深さのせいだろうか。鷹女の句に時折感じる不可思議な空気がこの場所に漂っているように思える。鷹女の句には花や植物がよく出てくる。

後日、鷹女といっしょに生活を共にした絢子さんに、「鷹女さんは植物を丹精したり育てられることはお好きでしたか」と質問したところ、「そういうことはあまりなかったですね」と言っておられた。季節の花を求めて近所を散歩したり、吟行することもなかったようだ。女学校で見た萩、不動ヵ丘の萩、藤、松林、鷹女の心象風景にある植物の原型はここにあるのかもしれない。


夢 二 の 女


卒業後の生活を彼女自身が作成したであろう略年譜(『俳句研究』前掲)からこの地にいた頃の思い出を引いてみよう。

同校(成田女学校)卒業、少女時代から歌を作り、図書館通いもよくしたが、文学少女というほどのものではなく、女学校教育が当時のいわゆる良妻賢母式であったので、卒業後二、三年間は文芸一般の稽古事に明け暮れた。当時“夢二の女”が通る、という陰口をよく耳にしたが、事実、そう言われるような蒲柳質の娘であったらしく、髪は束髪か、時には桃割れ、紫矢絣の着物に、麻の葉しぼりの昼夜帯を好んで常用した。

痩せ型で夢見がちな潤んだ瞳を持つ鷹女が長い髪を束髪に結い紫矢絣に胸高に帯を締めた姿はさながらに夢二の描く大正ロマンの少女そのものであったろう。

「夢二の女」という評判は鷹女の容姿が夢二の描くなで肩の女性像と似ているからだと思っていたが、それだけでもないようだ。「宵待草」のヒロインのモデルと言われる長谷川カタが田町の近くに住んでおり鷹女の美しい容姿と混同されたという説(*1)もある。地元の歴史に詳しい成田図書館のOさんに尋ねてみたところ、タカが住んでいたのは事実で、伊香保の夢二記念館に夢二から田町のカタ宛てに出した手紙が残っているかもしれないと、教えてくださった。

  まてどくらせどこのひとを
  宵待草のやるせなき
  こよひは月もでぬさうな

という夢二の詩に曲をつけて、大正末期一世を風靡した「宵待草」。このモデルの長谷川カタと夢二は明治43年(1910)の夏を銚子の海鹿島で偶然めぐりあい、交際が始まった。悪い噂が広まり、カタと夢二との関係が深まるのを恐れた両親はほどなくカタを成田高等女学校に勤務するの姉シマの元へ行かせたようだ。

年代からいうと、鷹女がちょうど女学生の頃。それにしても、近所に住んでいたカタの存在を鷹女は知らなかったのだろうか。夢二の詩と夢二の描く女は「夢二式美人」として明治末期から昭和初期にかけて大人気だっとというし、夢二をめぐる恋の噂話もいろいろ喧伝されたことだろう。カタの話が成田で語られるようになったのはだいぶ後からのようであるが、当時はともかく後年に書いた年譜にすらカタの存在にはひと言も触れずに「夢二の女」と陰口をたたかれたと書くところに私などは鷹女が自分の容姿に持っているひそかな自信を感じさせられる。

女学校時代の鷹女は、この容姿のどこに後年の句に見られるあの激しさ、一途さが隠れていたのだろうと思われるたおやかさであっただろう。ひょっとして鷹女が幼児より親しんだ短歌を続けていればこの夢見がちな乙女の姿そのまま年を重ねていったかもしれない。

飯笹の山の山ゆり咲く頃は
 ひとたびかえれ そのかみの日に

海苔焼けば磯の香ぞする君が住む
  三浦岬の 波の音ぞする

この二首は成田中学に在学していた父の友人の子息岡本富郎に送った手紙の中に書き記された短歌。鷹女は成田に知り合いのいなかったこの人の面倒をよく見てあげたそうだ。男女が親しげに話したり、肩を並べて歩くのさえ「はしたない」と噂される時代だったけど、鷹女は周りの人の思惑など少しも考えることなく白昼堂々と下宿を訪ねていった。岡本氏は後に随筆集の中で次のように回想している。

当時は現今の世相と異なり年も幼く、ままごとのような男女の交際でも世間の目はうるさく、とかく何かとささやかれたらしい。ことに地方の田舎のこととて、さぞかしうるさく彼女に迷惑をかけたのではないかしらと顧みて恐縮している。けれども、賢明にして心やさしかった彼女は、世間のことなど少しも意にとめず、人目を忍ぶという卑劣な態度はみじんもなく、おおらかに私の下宿に訪れ一輪の花を机上にさし、時には珍しい菓子を恵んでくれた。彼女は私とは異なり文才に恵まれ、ことに当時和歌に堪能であり、私に独歩、一葉の文学を解説し、トルストイ、ロマンローラン、ゲーテなどの外国文学の手ほどきさえしたのも彼女であった。(『成田ゆかりの人物伝』前掲)

同年代の男子との交際でも鷹女はリード役である。岡本氏との交際は短期間であったようだが、短歌の「君」という呼びかけに鷹女の淡い恋心が感じられる。鷹女の初恋だろうか。父に愛され、しっかりとした兄に囲まれて育った鷹女は異性に臆するところがなかった。

大正五年、成田高女を卒業した鷹女は、國學院大學で国文学を専攻していた兄慶次郎をたよって東京に出る。この兄は三橋家の系譜を濃く受け継いで和歌を作るのに才があった。兄が師事していた与謝野晶子、若山牧水に鷹女も私淑し和歌を作り続けた。

「年譜」には、東京に出て何をしたのか具体的に書かれていないが、女学校を出て働くでもなく、兄の下宿にいて和裁など習いながら-結婚前ののんびりした時期を過ごしていたのだろう。卒業してから結婚までのこの時期、鷹女の短歌を見てみたいと思うのだが、残念なことに作品は残っていないようだ。この兄は後に俳句を作り、夫謙三とともに俳人鷹女の形成に大きな影響を与えた。ちなみに三橋家の墓のそばにある鷹女の句碑の真裏にはこの兄の句が彫りこまれているそうだ。


(*1)「成田歴史散歩」(からみそドッドコム)
http://www.karamiso.com/narita-arekore.html


(つづく)

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