【俳誌を読む】
『俳句界』2008年10月号を読む
舟倉雅史
●新作巻頭3句 今井聖
一句の中に複数の視点が交錯していることがある。そんな句の前で、読み手は軽い途惑いを覚えて立ち止まる。例えば次の句。
秋耕の父校庭に接近す
校庭に近づく父親の姿を認めた少年はどこにいるのか。教室の窓辺に佇んで外を眺めているのか、あるいは校庭の隅の鉄棒にでもぶら下がっているのか、いずれにしろ少年は校内のどこかにいて、畑を耕しながら校庭に近づいてきた父親の姿を小さく、しかしはっきりと認めたのだ。少年というのは若き日の作者自身であり、そこにこの句の一つの視点が確かに存在する。しかし、この視点からは「秋耕」「接近す」といった表現は生まれ得ない。それらの言葉は少年のものではないから。校庭のすぐ向うで黙々と地面に鍬を突き刺す父親の姿は、微妙な心の動きを伴ってナイーブな少年の目に焼きついたはずだ。そして、その少年の目の捉えた情景(この場合、文字通り「情」と「景」)をまるごと伝えようとしたならば、句は別の言葉を選ぶことになるだろう。いや、そうして表現されたものは、俳句でさえないものになっていくのかもしれない。
この作品を俳句として成り立たせるのにどうしても必要な視点。それは少年時代からはるかに時空を隔てて今ここにいる作者自身のもとにある。その視点が、父親の労働を「秋耕」と呼び、その動きに「接近す」という表現を与えたのだ。こうして表現されたものは、かつて少年が見たものと同じではない。俳句の言葉によって少年の内面は捨象され、校庭に隣接して広がる秋の畑と、きわめて即物的に捉えられた人物とその動きだけが残った。もし「秋耕の父」を「秋耕の人」などとすれば、さらに少年の存在さえも捨象されることになる。それによって句の抽象度はさらに高まり、個人的な経験はより普遍の側へと引き寄せられることになるだろう。
しかし、作者はそれをしなかった。学校内のどこかから畑の父親を見つめている子供の視点を残した。そこに、読み手が二つの視点の往復運動の中に置かれる契機が生まれる。読み手は畑の中の人物の即物的な把握の面白さを読み取る一方で、父親を見つめる少年の存在とその内面とを言外に読み取ることになる。どちらに重きを置くかでこの句の読み方は大きく二つに分かれるのかもしれない。しかし、二つの視点の錯綜が生み出す不思議な時間感覚こそがこの句の面白さなのだ、と言ってしまいたい気もする。
次の句にもまた二つの視点の存在を指摘できないだろうか。
秋天や一点の血の膨れくる
出血しているのは子供である。深手を負ったわけではない、おそらくは指先にでもほんの小さな傷を作ってしまったのだろう。「一点の血」なのだから、それはぽつんと染み出てきて、せいぜいマッチの頭くらいの大きさまで丸く膨らんできたに過ぎないのだ。しかし、子供の目はそれを驚きとおののきとをもって見据えている。「膨れくる」という大仰な措辞が、自らの体に生じつつある異変に対する子供の怯えを表わしている。薄い皮膚の向こう側にはこんなにも真っ赤な血が充満していて、ほんの少しの破れ目からでもそれはこうしてあふれ出てくるのだという、それは新鮮な驚き、あるいは感動とさえ呼べるものかもしれない。いずれにしても、ここには子供の視点が働いている。
さて、子供の頭上には今、秋の澄んだ青空が広がっている。しかし、子供の眼中にそれはない。子供の頭上に「秋天」の広がりを描き添えたのは作者である。その「秋天」を見ることができるのは作者、そしてその作者と同じ視点を共有する読み手だけである。つまり子供にはこの「秋天」を見ることができない。それは子供が今「一点の血」にしか関心がないからではない。実はこの「秋天」はこの句にとって一種のフレームの働きをしているからだ。子供はそのフレームの内側にいる。「秋天」と子供とは言わばそれぞれ別々の次元に存在しているのだ。その両方を見通せるところに作者の視点はある。
二つの視点によって成り立つこの句の全体像を捉えようとする読者は、必然的に二つの視点の間の往復運動の中に投げ込まれることになろう。対象にできるかぎり近づき、子供の視点に立って「一点の血」を見つめるならば、それが「膨れくる」ことがいかに重大事であるかを子供と共に実感するだろう。しかし、対象から距離を置いて「秋天」と「一点の血」とを一つの視野に納めようとすれば、あれほど深刻に思われた事態も実は一些事に過ぎず、せいぜい青い空に赤い色を小さく点じたというほどの出来事だったことを了解して安堵するだろう。
どうやら俳句を読むという営みには、展覧会場の壁に吊るされた絵を、近づいたり離れたりと視点を変えて丹念に観て回るのとよく似た面があるのかもしれない。
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2008-10-05
『俳句界』2008年10月号を読む 舟倉雅史
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