2008-10-26

『俳句界』2008年11月号を読む さいばら天気


【俳誌を読む】
『俳句界』2008年11月号を読む



さいばら天気








●俳句界時評 俳句にとって歳時記とは何か 林 桂 p50-

坪内稔典氏の指摘、すなわち現在の俳句の多くが俳諧・俳句よりもむしろ「和歌的な」「季語詩」に傾き、併せて、それが歳時記重視の流行と密接に関わるとの指摘を引いて論を展開。たいへん興味深いです。

坪内が「あまりにも後ろ向きだ」と指摘するのは、今日の「歳時記」の場所が、過去を合わせ鏡とする「実用」を出ないからであり、そのことに疑問を持たないからである。


●シリーズ魅惑の俳人たち11 赤尾兜子 p62-

和田悟朗、桑原三郎、秦夕美、竹中宏、赤尾恵以各氏の兜子回想がいずれも秀逸。作品をそれほど知らずとも、兜子という人、その時代のことが生々しく伝わる。いつもはこのシリーズ、評伝と作品論のバランスを企図して、それが裏目となり、腰の引けた、あるいは拙い論考まで集まってしまうことも多いが、今回は、もっぱら兜子という「人」に焦点を当て、それが奏功したようにも。

また、中谷寛章氏(兜子の愛弟子、31歳で夭逝)の遺稿集からの採録「詩の成熟と結社」は、あとに紹介する大特集座談会「現代俳界のねじれ現象を突く(2)」と呼応。編集意図でしょうか。


大特集座談会「現代俳界のねじれ現象を突く(2)」 p132-

前号に引き続いての座談会。今月号はその後半。前半については小誌「週刊俳句」第76号(2008年10月5日)『俳句界』2008年10月号を読む(上田信治)をどうぞ。後半、どう展開していくのか、と期待が高まったわけですが、先に言っておきましょう。

いまひとつです。

前半は、唯一の(正味)若手、谷雄介氏の「暴言」(誇張してます)がトピックのひとつだったのですが、後半は、流れに乗れません。ただ、それが「いまひとつ」の主たる理由かというと、そうではなく、結社のありようや評論の不在などのテーマがおおむね「むかしばなし」や「世間話」に終始するのです。目新しい論点や指摘はほとんどありません。多くは、私でさえ、すなわち怠惰な俳句愛好者であり俳句世間の端の端で俳句を遊んでいるに過ぎない私でさえ、くりかえしどこかで聞いたことのある話の焼き直しです。虚子の選、結社の役割、主宰の世襲、俳句総合誌の機能…。

ただ、そんななかにも、ニヤっとしてしまう、コクのある局面があります。前半、座談を支えた谷雄介氏に替わって後半は、座談猛者(と私が勝手に呼んでいます)の筑紫磐井氏です。

あまり多く引きすぎないように(『俳句界』の商売の邪魔にならない程度に)、美味しいところを拾います。

(…)身内による結社相続もいいと思っています。「ホトトギス」とか「馬酔木」とか文学史で振り返ってみられる著名な結社は残す価値があるでしょう。結社は、建物ではなくソフトなので(…)国が保護をして無形文化としてもいい(笑)。そういう結社を維持するためには管理人が必要で、相続人が管理人をやるのは別に不思議なことではないでしょう。(筑紫氏)

この「管理人」という捉え方には、すぐさま栗林眞知子氏(ホトトギス)が「心外」と反発、続けて…

(ホトトギスの)中にいると、「ホトトギス」だからどうという認識はありません。正しい俳句というとわかりづらいですが、「ホトトギス」が推奨する俳句を作りたいという思いだけです。(栗林氏)

…と表明。「正しい俳句」というひとことからして、ホトトギスの「外」にいる人には、そうとうのインパクトを持つものでしょう。しかし、これは、どうやら標語みたいなものらしく(他で聞いたことがある)、「漢字には正しい書き順がある」程度に受け取ればよいのかもしれません。「正しい俳句」というホトトギス用語を、共産主義国のドグマ(教義)のようにおどろおどろしく捉える必要もないのでしょう。

ところで、この座談会、ホトトギスから栗林氏、玉藻から星野高士氏を招いた点が、座談のおもしろさという点でかなりの効果をあげているようにも思えます。「俳句を始めたころは二十代でしたが、他の俳誌や総合誌を見るなと言われました(栗林氏)」といったことは、結社の閉鎖性といった脈絡から、よく聞く話であるにしても、実際、当事者の口から聞くと、なんだか迫力があります。

ただし、これにしても、なにもホトトギスおよびホトトギス系に限ったことではありません。「結社の句会以外に行ってはいけない」という禁制を維持している、あるいはつい最近まで維持していた結社はたくさんあるようです。

さて、あとはどんな展開がありましたっけ? どうも思い出しにくいほど散漫な部分も多いので、読者としては、ちょっと退屈したら、おもしろい箇所が出てくるまで、どんどん飛ばして読む必要はあります。

例えば、磐井氏が「俳句は文学ではないという意識で作ると、言葉を重ね合わせて膨大に作った中から選ぶことによって出て来る新しい発見が結構あるんですね。文学的価値はゼロに近い名作というものを俳句は認めなくてはいけないと思う」という、やや目くらまし気味の(しかし、これが磐井氏のホトトギス観の核心部分であるところの)文言には誰も反応せずに(できずに)、伝統vs前衛といった二元論を繰り返すことになったり(坂口昌弘氏の伝統称揚の発言がかなりの紙幅を割きます)、谷氏の「総合誌も内向き」との指摘が大きな展開を見せることなく、総合誌に関しては、やっぱ、商売なんで売れなくちゃしようがないんでね、いろいろタイヘンなんすよ、といった当たり前の現実論に落ち着いたりする。

そして終盤近く。星野氏の「十年後というより二十年後三十年後『ホトトギス』はあるでしょうか?」といったフェイントめいたスルーパスあり、澤好摩氏(円錐代表)の「(…)虚子の問題に決着がついていないのが問題です。例えば虚子選の幅の広さは何に基づいているのかという問題を考えずに、ただ虚子選は凄かったといってもはじまらない」といった正当な指摘ありで、これなら、虚子とホトトギスについての座談でもよかったのでは?と思えるような展開。

「現代俳界のねじれ現象」と銘打った座談ですが、何がどうねじれているのか、もうひとつ判然としません。判然としないことこそが、ねじれなのか、と、そんなしょうもないオチは不要です。この座談の皆さんの発言を拝読したうえで、ねじれについて、私なりの感想をかいつまんでみました。

1) 虚子/ホトトギス起源の結社システム、これがいまも俳句世間のメジャーな仕組みになっている。それぞれ(濃淡はあれ)教義に向かって求心的な組織である結社が大きな存在感を持つ以上、批評が活性化することは困難。批評には、相対化、並置、比較などの基本操作がついてまわるが、それらと結社的観念との相性は、すごく悪い。結社は基本的に、他を見ちゃダメって言うんだもの。

以上から、結社はこれからも有効とする考え方と、批評が必要という考え方との併存はきわめて困難なことは明らか。なのに、両方を言う人がいますね。そりゃ無理、不可能、とまでは言いませんが、二律背反を抱えていることに意識的であるべきでしょう。これがねじれのひとつ。

2) 総合誌も読むな、という結社が存在する/した。それでも、総合誌へのコンテンツ供給元の大きな部分を担っているのは結社。これもねじれ?(*1)

3) 虚子と虚子時代のホトトギスは、俳句世間において現在でも主要テーマとなる。一方、現在のホトトギスは膨大な会員数をもちながらも存在感は希薄(*2)。これもねじれ?

ついでにいえば、ホトトギスについて総合誌等でいま最も多く語っているのは筑紫磐井氏(であるように思う)。これも、一種のねじれ?

いまのところはこんなところでしょうか。

  

最後に、前半あれだけ活躍した谷氏を、後半、ほとんど登場させないのもなんですので、谷氏の発言を最後に引いておきます。

(…)「ひとりの天才を見届けよう」というときにそれができる結社や主宰は本当に少ないと思います。例えばある結社の○○という若手が売れているらしいと聞いても、作品を見ればがっかりする人が多い(…)結社が有効に機能していないのが現状ではないでしょうか。(谷氏)

そのとおりだと思います。

まあ、「ひとりの天才」うんぬんばかりでなく、結社にせよ、総合誌にせよ、もつべき機能というものがあるはずです。その機能とは何なのかといった検討と併せて、それをどのくらい果たしているのかという査定の観点も必要でしょう。

動かないクルマに、見ると、たくさんの人が乗っている。むかしからあるものだから、というのが理由。あるいは、動かなくても雨露がしのげるならいい、といった物凄い理由かもしれません。しかし、やはり、さすがに、それでは、ねえ。人にあまり胸張って説明はできない。存在する以上、すこしでもすこやかに機能する存在であったほうが、誰にとっても気持ちがいいものです。


(*1)とりわけ俳句作品は、結社単位で供給される。この場合、結社は卸問屋のような機能を果たしている。一方、(批評的)散文については、結社束縛の緩い書き手(主宰も含む)が好都合の場合も多い。しかし、その数は限られており、そこに依頼が集中するように見える。

(*2)私の想像というか感想だが、現在のホトトギスには「十字軍」的、あるいは「巡礼集団」的なものを感じる。正しくない俳句を駆逐し、俳句の聖地を奪還しようとする十字軍。信仰が篤く連帯感が強い高密度のコミュニティとしての巡礼集団。


『俳句界』2008年11月号は、こちらでお買い求めいただけます。
仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22



【おまけ】
出版ダイジェストのページ(p181)に鴇田智哉著『60歳からの楽しい俳句入門』刊行との情報。

えっ!? 入門書? 40歳の鴇田氏が、60歳からの?
どうしちゃったんですか(笑

鴇田智哉ファンの私としては、もちろん即、注文しました。

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