2008-10-12

鷹女への旅 第3回 三宅やよい

 鷹女への旅

 第3回

 蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫
 
 三宅やよい

初出『船団』第66号(2005年9月1日)



俳 句 と の ふ れ あ い

六月十一日(金)

成田の広報Tさんにいただいた資料には鷹女の長男である陽一氏と妻絢子さんに聞き取り調査をした貴重なインタビューが収録されている。年譜ではわからない鷹女の家庭での姿が生き生きと甦る。孤高の俳人と呼ばれた鷹女は夫から俳句の手ほどきを受け、兄や夫を中心とした句会を手始めに「鹿火屋」という結社にデビューすることになる。今日は俳句文学館に行って、鷹女が「鹿火屋」の雑詠欄に投句していた形跡を追ってみることにする。

俳句文学館はJR大久保駅から徒歩十分あまり行ったところにある。角川財団の寄付によって建てられたこの建物の図書館は俳句関係の資料が充実している。閲覧時間が六時間に限られているのと、コピー代の高いのが難点だけど、俳人協会員でなくても資料を自由に調べられるのが嬉しい。鷹女が所属していた時代の「鹿火屋」をお願いしたところ、移動式ワゴンに満杯。何時間かかることやら。

鷹女(本名たか子)は二二歳、大正十一年に歯科医師東謙三を結婚。翌年には長男 陽一を出産。そしてその年の九月に関東大震災に会っている。自宅にいた鷹女は建物の下敷きになり、八ヵ月の陽一を抱いたまま夫に発見されるまでの三時間をじっと耐えたという。

この日、鷹女と同年齢の私の祖母は神戸市兵庫区の自宅の庭でやはり赤子だった父を抱いて庭で立ち話をしていたところ、それとわかるほど地面がぐらりと揺れたという。遠く離れた神戸でその揺れだったのだから、地震の規模のほどが図られよう。この地震は周知の通り東京のみならず関東一帯大きな被害をもたらした。鷹女が被災したのは、夫が開業していた千葉県館山市の病院だった。

私たち夫婦があの海辺に近い松の木に、その年も最初の鵙の鋭い鳴き声を二声三声聴いたあの日、子供は生まれてやっと八ヵ月。私は昼餉の仕度に余念もなかったが、そのとき恐ろしい大地震が沸き起こったのであった。そして、どの家もどの家も、積木の倒れるように倒壊していった。地震の底の惨たらしい幾ときかを私は過ごしたのであった。私は気を失ってはいなかった。足の自由を奪われ、嬰児を抱きしめた私が、崩れ落ちた土蔵造りの母屋の底から助け出されたとき、隣の町は炎々と燃えあがり、轟々と鳴りよどむ海鳴りに続いて、なお絶えまなく余震の波が襲い来るのであった。夫の経営していた母屋つづきの病院では無残にも押し潰された医員の一人が廂の下から曳き出され別棟の病院では、重病患者が二人までも圧死していた。本当に夢のような瞬間の出来ごとであった。(『鵙』)

鷹女の父は鷹女の身の上を案じ、成田から三時間かけて見舞いにやってきた。末娘をこよなく愛したこの父は汽車も不通になった道を何十キロも歩いて会いにきたのである。

鷹女が俳句を始めたのはこれより四年後、大正十五年のことだった。震災で移転して東京の早稲田大学の近くに謙三が開業したことは鷹女にとっていいきっかけだったようだ。俳号は文恵。父の和歌の雅号文彦にちなんでつけられた幼名の文子によるものだろうか。

夫と、鷹女の長兄の英治、次兄の慶次郎、近所の人たちとともに「早稲田クワルテット句座」を自宅で開催した。兄弟の仲のよさもさることながら若い夫婦の華やぎのあるサロンがこの名前からは感じられる。震災のあと東京はますますモダンに、都会に集まる大学生や若者を中心にした大衆文化が花開いてゆく。そうしたモダニズムの雰囲気が神楽坂界隈の鷹女の自宅付近にもあったのだろう。

「短歌もいいけど、俳句もなかなかおもしろいものだよ」

俳句の世界を何も知らない鷹女をまずその世界にいざなったのは「鹿火屋」に句を投じ始めた夫謙三だった。この頃作られたとおぼしき鷹女の処女作は、

すみれ摘むさみしき性を知られけり
蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫

あたりと思われる。(「蝶飛べり」の句は『向日葵』の巻頭に収録。)

鷹女は同じテーマでいくつかの句を作る。まとめかたは新興俳句がのちに試みた連作というより一つのテーマを自分の感情を軸に様々な角度から眺め、対象を深めてゆく手法である。そして自分が女であることを「さみしき性」とする考え方。処女作に早くも鷹女の資質の一端が伺える。

可憐さに惹かれて摘んでしまった菫ではあるが、このまま萎んでしまうものを、ふっと気の沈むやるせなさに、傍らに飛び立つ蝶。その姿に菫を重ね、鷹女は思わず菫に「飛べよ」と呼びかける。この頃の鷹女の句は「思い」を中心とする短歌での詠嘆をそのまま俳句にスライドさせているかのようである。「おもふ」とまで言ってしまうのは言い過ぎであったとしても鷹女にとっては省きようのない言葉であっただろう。自分の思いを「もの」や微細な表現のニュアンスに転化してゆく俳句特有の表現方法をまだ身につけていなかった鷹女は持ち前の一途さで、先輩格の夫や兄に熱心に質問し、黙々と句を作り続けた。


鷹 女 の 新 婚 生 活

代々和歌をたしなむ生家の環境。文学を志向した兄の庇護。それに引き続き結婚したあと俳人である夫の導き。

女が学問をするだけで世間があまりいい顔をしなかった時代に、鷹女は幸せな環境にあった。鷹女より少し上の杉田久女などは、芸大出の画家である夫と結婚しながらも、夫との相克、家庭の維持と俳句活動の葛藤にいつでも身を引き裂かれていた。

この時代俳句にかかわった女性達を思うにつけ、句会や吟行などで絶えず外に出歩くこと、男の俳人たちとの付き合い、家事も手につかないほど身を入れて句作をしたり文章を書くことに、連れ合いや家族がどのような反応をしめしたのか、今からは想像も出来ないぐらい大変だったろう。女が職業を持って自立できない以上、経済的には夫に頼るしかない。趣味で手掛けるならまだしも、女の本分である(と、男が考える)もろもろの仕事を放りだして俳句に熱中することにいい顔はしなかったと思われる。

我が強そうに見える鷹女だが、そのあたりの気遣いは充分にあったようだ。四十歳ぐらいまで、自宅で句会を開催することが多かったのも歯科を営む謙三への配慮であっただろうし、原石鼎の「鹿火屋」や小野蕪子の「鶏頭陣」等、結社の入会、退会、行動はいつも夫と一緒であった。鷹女の夫の謙三と鷹女の家庭での俳句生活について息子三橋陽一氏は次のように述べている。

三橋(陽) 震災ですべてを失って家計といいますか、非常に苦しい生活で、父の歯科医の方も、本当に看護婦なしに随分そっちに献身しておって、なかなか俳句をやる暇もなかったと思いますけれども。多少私が物心ついてからは、句会に私も一緒に連れていってもらったりして、俳句を二人で一生懸命やって、二人でやっているというのは、本当に俳句の話ばっかりしていました。でも、まあいい家庭婦人で、よい母で。私も俳句をそんなにやっているということは、本当に物心ついてからも、そんな意識はないほど、やっぱり家庭というものを非常に大事にした。(『市民が語る成田の歴史』)

陽一氏の妻、絢子さんの話によると、鷹女は裁縫も料理もうまくて、料理などは夫の持って帰ったもの、外で食べたものは味をみただけでそのとおりに作ることができたという。口にするだけで作り方から材料までわかってしまうセンスを持ち備えていたのだろう。家庭の切り回しも謙三と相談しながらも、鷹女が中心になって動かしていた。歯科医は自宅で開業しているのがほとんで、その経営と維持についても妻は重要な役割を持つ。

三橋(陽)―中略― 内助の功というか、患者さんを大事にしましてね。よくお茶を出したりしてました。診察が終わると応接間でどうぞお話くださいと、母がお茶を出したりとか。それで非常に俳句の方でも新しい人を知ったりね、俳句仲間もそういうことで、患者さんで来た人も結構あるんですね。そういう内助の功も随分あったんですけれども、何か患者さんが来ると、とにかく応接間へ行って話しているというのが、私が子供ながらにも見ましたね。患者さんが来るとお茶を飲むのが普通なのかなと思うくらいに。(『市民が語る成田の歴史』)

謙三は無口なうえに、歯科医稼業に熱心ではないタイプの医者だった。「患者に多少痛い思いをさせてもさっさと治してしまう」、「よそに一月ぐらい通う患者を五日で治してしまう」という離れ業は、さしずめ丹念に歯を削って微に入り細に入り治療せずに、悪いとなればさっさと抜いてしまうという態度を想像させられる。そんなおそろしい歯医者ならば近所の評判はよくなかったろう。(私だって行きたくはない)そんな夫の仕事ぶりを鷹女は内助の功で補おうとしたのかもしれない。人嫌いともいえる孤高を保っていた印象のある鷹女だけど、気遣いの行き届きた親切な人だった。


「 鹿 火 屋 」 入 会  
    
年譜によると、

昭和三年
王子俳句会、つるばみ吟社(「鹿火屋」及び「雲母」系)を知り入会。
昭和四年
―ーかねてから石鼎先生の吉野時代の作品に魅せられていた私は、「鹿火屋」に入会。麻布の“石鼎窟”を訪れ、初めて先生の謦咳に接した。また、石鼎選・東京日日新聞俳投句欄に投句。「鹿火屋」及び「日々俳壇」に夫と競詠したのも、この時代であった。
(俳句研究 三橋鷹女略年譜)

と、彼女自身が語っている。

そんな鷹女が所属を決めた「鹿火屋」の原石鼎は大正の初めホトトギスに投句した吉野の句によって虚子に認められた新進作家だった。これらの句は」『進むべき俳句の道』などに取り上げられ、その斬新で新鮮な表現は当時の若者達に大きな影響を与えている。水原秋桜子の『高浜虚子』には、俳句は時世に遅れて退屈なものだと考えていた彼が俳句に眼を開くきっかけになったくだりが書かれている。

--東大の二学年の試験前、図書館で勉強しつゝ読んだ高浜虚子の著書『進むべき俳句の道』は、私の俳句観を全く訂正せしめる内容を持っていた。それはホトトギスの主要作者の句を評釈したものであるが、中でも渡辺水巴、村上鬼城、前田普羅、飯田蛇笏などの句には精彩があり、殊に新進原石鼎の華麗に新鮮なる作風は私の心をつよく惹きつける力があった。

頂上や殊に野菊の吹かれ折り
風呂の戸に迫りて谷の朧かな
磐石をぬく灯台や夏近し

などの石鼎の句は「殊に」という従来の俳句におさまらない言葉がそのまま用いられた新鮮さ、磐石を「ぬく」といった力強い表現の斬新さなどが当時の若者を惹きつけた。石鼎主宰「鹿火屋」は大正十年より刊行。

当時のホトトギスをしのぐ勢いがあったらしい。「鹿火屋」は美しい雑誌で、展示会をして絵を売るほどの力量のある石鼎が表紙と裏表紙に美しい彩色で絵を描いている。俳句文学館で私が見たのは鷹女が在籍していた昭和四年から九年までの間であるが、表表紙は色刷りを変えながら一年間同じ表紙であるが、裏表紙は季節にあわせて雀や、粽など書き分けられている。小野蕪子、永田竹の春などが中心的な執筆陣で雑詠投句欄には加藤かけい、永田耕衣などの名前も見える。

昭和初期の「鹿火屋」はホトトギスに次ぐ勢力を誇っていた。雑詠欄に投句している会員数も多く、鷹女(この当時の俳号は文恵)の名前を見つけるのもひと苦労だった。文恵(鷹女)の名前が見つかると自分の名前が載っているのを見つけたような嬉しさが湧き出てくる。鷹女もこんな気持ちで毎号手にした雑詠蘭の名前を指で追っていたのかもしれない。

(以下、※の句は『向日葵』および『魚の鰭』収録。)

昭和四年一月号には夫、剣三の

 山茶花の日向に鞠をつく子かな

が、「紅葉を観ながら句を作る会」の吟行句として掲載されている。鷹女のこと文恵の句は夫に遅れること五ヵ月、昭和四年五月五日に行われた東日鹿火屋春季俳句大会(二百人参加)で互選八点集めた三位で入選して二句掲載されている。

※葉桜や豊かにたれし洗髪(八点)『魚の鰭』
葉桜や急がぬ旅を夫と子と(四点)

このときには石鼎選には入らなかったものの互選で三位の票を集めた美貌の女性俳人登場は人々の関心を惹くのに充分なものだっただろう。小さな集まりでこつこつ俳句を作っていた鷹女の華々しいデビューの日だった。

このときから「鹿火屋」雑詠欄で夫婦が競って投句する時代が始まる。初めて鷹女が石鼎選、雑詠に一句入選したのは昭和四年十月号だった。

虫ばめる蕗の広葉や更衣(文恵)
ぬりかへてボート伏せあり月見草(剣三)

十一月は鷹女の俳句はなく、

からたちの咲けばうぶすな祭りかな
萩の花風におくれてこぼれあり(剣三)

剣三の句のみである。そして十二月号の

  新涼やみどりつぶらに芋畑 (文恵)
※ うたゝねの唇にゐる鬼灯かな 『魚の鰭』

鷹女の句集の自選の規準を考えるうえでもこうした雑誌を時系列に沿って検討してゆくのもおもしろい。鷹女にとって俳句の出来不出来は主宰による評価ではなく確固としてある自分の美意識にかなうことが大事であったように思われる。

昭和五年
一月
水仙の芽に降る雨や爐を開く(剣三)

二月
舞ひ終へてこんじきさむし獅子頭(文恵)
(※舞ひ終へて金色さむし獅子頭 『魚の鰭』) 
落葉踏むかそけきものに藁雀かな(剣三)

三月
※初夢のなくて紅とくおよびかな(文恵)『向日葵』
はしきよしはらから連れて嫁ヵ君(文恵)
白鶏のゆるゝとさかや石蕗の雪 (剣三)

この頃は夫婦ともに雑詠欄に入選する数、質ともにあまり差はなかった。文字通り夫婦競詠の時代である。しかし入会して三年目、鷹女のみずみずしい叙情と鋭敏な感覚ははいちはやく石鼎と同人達の高い評価と注目を受けてゆくことになる。


(つづく)


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