2008-10-19

鷹女への旅 第4回 三宅やよい

 鷹女への旅  第4回

 流れゆく瓜のお馬よ水に月


 三宅やよい

初出『船団』第67号(2005年12月1日)



夫 婦 競 詠 時 代

六月十三日(月)

引き続き、俳句文学館で鷹女の俳句を追って「鹿火屋」を読み継いでゆく。八十年前の俳誌は今の結社誌とその枠組みはほとんど変わっていない。ホトトギスを原型とする俳句誌の型が既に出来上がっていたのを感じさせられる編集だ。軽いエッセイのような俳文。評論。主宰の選評。同人を中心とした座談会形式の合評会があるのが、珍しい。座談会は大正十二年頃、菊池寛が初めて試みた、という話を聞いたことがあるがこの時代すでに一般的であったのか?何人かで磊落に話すうちに思わぬ考えや感想が飛び出したり、話にはずみがついての思わぬ展開に意外性があるからだろうか。この時代の「鹿火屋」はホトトギスの庇護を受けていないちょっと風変わりな個性を持つ主宰を中心によくまとまりながらも自由活発な印象を受ける。石鼎の病気という爆弾をかかえながらも「鹿火屋」がホトトギスを脅かす勢いのあった時代でもあった。

鷹女の「鹿火屋」での五年間は俳句修行といった面持ちのある作品がたくさん並んでいる。結社で学ぶとは主宰の句風を体現し、自らの個性をじんわり俳句表現に染み出す修練をすることなのか。多くの俳人は結社に属し主宰の選を受け、句を通じてさまざまな批評を受ける中で、俳人としての輪郭を浮かび上がらせてゆく。鷹女のこの五年間もまたそうした時期であるように見受けられる。

蛤となりしゆふぎり雀かな  文恵

昭和六年一月の雑詠で採られたこの句について永田耕衣が評した文が昭和六年二月号の「鹿火屋」に載っているので引用してみよう。

この句をみて私はかって私の戯作の対話の中で雀が海に落つこちると蛤になるさうだ、といふ一齣を用いたことを直ぐ思ひだしました。(…中略…)そのウイツトの如何に東洋詩美に富んでゐるかを、又、その爛漫平和の中にも古人がいかに現代人におとらず配合の美を悟るに新鋭の感を以つてしたかをあたらしく味つて見たいと思ひます。次の文を以つて見らるるも雀が蛤に早変わりするのは作者の手柄では無論ないのですがゆふぎり雀といつたところにこの句の価値が新鮮づけられてゐると思ひます。

古来からの小話を鷹女自身の機知に富んだ感性で情緒深く転化させた、斬新な「ゆふぎり雀」という言葉に着目するあたりに、後の耕衣の在り方を伺うことができる。

この年、鷹女も夫謙三も順調な成績。三句欄に仲良く肩を並べている。

吹雪やんで輝き出でし樹氷かな 
白いんこ目覚めてありぬ除夜の鐘 (剣三)

繭玉のさくら色より明けにけり
蒼空のあをきを知れる子猫かな 
※セル地買ふや緑蔭といふ名のありし(文恵)『魚の鰭』 

夫婦ともにこの「鹿火屋」をどんな気持ちで開いたのだろう。自分の名前を見つけ、そして互いの伴侶の名前を近くに見つけたときは喜びが倍になったことだろう。「いつでも俳句の話をしている」夫婦は、落選したときにはどこが駄目だったのか、厳しい句評を交わしたかもしらない。いずれにせよ謙三も文恵も俳句に夢中だった。東京例会の句会において石鼎の講評を得たのは文恵が先だった。

寒雀茎の石より飛びにけり  (文恵)『魚の鰭』

莖つけをするあの重し石から寒雀が飛んだといふ事は、只これだけのことでありながら何となく面白い。何で面白いのか一寸言葉で表しにくい、かういふ事に親しみを持つ事が、所謂俳句を作る者の最も好むところのものであるからでもあらう。
            
と、鷹女の俳句の感性のよさを褒め上げている。個性ある俳句を生み出す前にも鷹女の俳句における資質は非凡だった。石鼎が指すところの「俳句を作る者の最も好む」微妙な勘所をすぐに習得してしまったとも言える。

この頃、東京の下宿で鷹女に短歌の指導をしてくれた次兄慶次郎を昭和六年三月に、鷹女をこよなく愛し慈しんだ父重郎兵衛を昭和七年一月三十日に、相次いで失っている。鷹女の墓に行きその墓標を調べて疑問に思ったのは鷹女自身が作成した年譜に父の没年を昭和六年一月としていること。石碑の裏には

 重郎兵衛 文彦 行年 昭和七年一月三十日

と刻まれている没年は確かであると思うが、年譜は鷹女の思い違いだろうか。この父の死後すぐ(「鹿火屋」七年3月号)に

 文恵改め鷹子

と俳号文恵を鷹子に改めることが掲載されている。


文 恵 か ら 鷹 子 へ

文恵の文は父のつけてくれた幼名文子、父の和歌の雅号「文彦」にもちなむものである。本名のたかに「鷹」の字を当てたのは自分を可愛がってくれた兄と父の庇護なきあと、自分自身の翼で力強く飛び立とうとする決意の表れではないか。昭和七年十一月、この父の新盆の句が雑詠欄三席の成績を収めている。

白々と暁はさみしき切籠かな (鷹子)
白玉の露にぬれたる切籠かな
有明の松にかかれる切籠かな
流れゆく瓜のお馬よ水に月
百聯の提灯ゆくや魂送り

この句は特に愛着があるのか、数ある句の中から選りすぐって作った処女句集『向日葵』にも「父逝きて半歳生家に新盆を迎ふ」。という詞書とともに四句収録されている。「鹿火屋」時代の俳句のほとんどは第二句集『魚の鰭』に収録されているものの俳人として勝負をかけた第一句集ではほとんど捨てられているのを考えると、この句群は異例の扱い。それだけ鷹女にとって大切な句であったともいえる。この句群のうち

流れゆく瓜のお馬よ水に月

特にこの句について、昭和七年十一月号雑詠句評の座談会でも取り上げられている。石鼎と同人達のやりとりの一部を引用してみよう。

石鼎 私は時刻としては日が暮れて程ない頃と思ふ。「流れ行く瓜のお馬よ」とあつてその瓜のお馬の形も色彩も眼に見える様である。そして「水に月」とあるから、恰度流れて行く淀みの處に月が移つて居ると考へる。一体お馬を流す時刻は此の地方の習慣では何時頃であらうか。次の句の註より推せば十五日夜である。私の郷里の方では昼でも流す様である。

十字 私の方では朝流すと思ひましたが。 杜藻 僕の郷里では旧暦十五日の夜に流す。従つて僕としては「水に月」とあつて満々たる月影が水に映じて居ると想像される。

早茅子 水に月といふ言葉から月影の淡くうつつてゐる様に考へられます。

石鼎 一体十五夜の月の出る時刻、入る時刻はだうであらうか。

しげる 十五夜に有明月はありません。 早く上がるでせう。

石鼎 流す瓜のお馬が夕方でないとするならば、月の晩の満々たる月光を考えることが至当である。併し、此の句の最も好い美しい光景としての解釈は前にも述べた通り、「流れ行く瓜のお馬よ」まで考え、次に「水に月」を考へ、次に「水に月」を考へ、瓜の形、色を想像し、そして何処かの淀に今出たばかりの月の映るといふのが一番よい。 ―中略― 一体お盆の句に、流れゆく瓜のお馬、迄はよくある材料である。此の句では矢張りこの「よ」と「水に月」といふ下五に情景の主点があつて、その部分が少し趣きを異にしてゐる。(太字・著者)

師、石鼎はかなりのスペースを割いて鷹女の句に言及している。この「瓜のお馬」が他の人が流したものであるのか、自分のお馬を流して愛着を持って呼びかけているのかひとしきり議論があったあと、石鼎はこの「よ」という呼びかけに最大限の賛辞を尽くしている。それなのに鷹女は『向日葵』収録の際に惜しげもなく「や」という中七で強い切れを入れる形に変えて出している。敬愛する父の新盆に流して茄子のお馬は抒情に彩られた単なる風景であってはならなかった。「よ」が甘い呼びかけにとられてしまうのも嫌だったかもしれない。父の新盆に際し、もっと強い思いを持って流した馬を限定する形で書き換えたのだろう。師や同人の評価よりも鷹女にとっては自分の感情をより直截に伝えることが大事であったのだろう。

俳人の多くは師を絶対視するあまりそのエピゴーネンになってしまう。現在でも主宰のきらいな季語を使わない、師の添削には絶対服従の結社も多くあるだろう。鷹女は自分がよしとする俳句のエッセンスを自分の中に取り込むのに最大限の努力はするが、あくまで自分自身の道は見失わない。この一つの助詞からも鷹女の矜持を読み取ることができる。

これまで鷹女と夫謙三(剣三)は雑詠にとられる回数は五分五分であったが、父の死を境に鷹女俳句はどんどんその資質を伸ばしてゆく。年譜によると鷹女はこのころ牛込市ヶ谷に転居。自宅で「牛込」句会を結成し、月例句会を開いている。鷹女に言わせると、「まだ俳句は遊びごとに過ぎなかった」(俳句研究 年譜)そうだが、その俳句に表れる感性のみずみずした。そして、言葉のセンスの点で鷹女と夫とは目に見えて格差がつき始めた。謙三の句はこうした場で講評されることはなかった。いわば「俳句らしく無難な」百の句群からは抜けられぬごくありふれた俳句だったのだろう


鷹 女 誕 生

そして翌年昭和八年七月号より俳号を鷹子より鷹女と改め、堂々の巻頭を占めている。

うち披く香のとりどりや香り傘
すずらんの香はしけやし香り傘
龍玉を描きし日傘も香り傘
月のもとの乙女よろしも香り傘
とつ國の娘もぞかざせば香り傘

「香り傘」とは日傘の類で香料が仕込んであり開くと香るようになっているそうである。昭和五、六年ごろからデパートで売られだしたらしい。同人杜藻の評によると夏の季題として採り入れて作句したのは鷹女が初めてらしい。「調子も暢びやかで気が利いていて香り傘といふやうな伊達なものを詠じるにふさわしい。即興の句であるがいかにも作者の才気が溢れていると」ほぼ絶賛である。

結社で巻頭を取るということは、結社での地位がある程度不動のものとなることだ。昭和九年八月には立葉会吟行と称して、「鹿火屋」の女流俳人七人と原石鼎と連れ立って堀切の菖蒲観賞に出掛けている。

千輪の花を上げたり白菖蒲

鷹女は以下五句が石鼎選の筆頭に上げられており、ぴんと髯をはねあげた石鼎を中心に池のそばで撮った写真にも鷹女らしき人の姿が認められる。鷹女はもはや「鹿火屋」内部では押しも押されもせぬ俳人の一人であった。

それが、この次の年、「俳句研究」自筆年譜によると昭和九年、「鹿火屋」に思いを残しながら両人退会。東鷹女と改名になっている。前述のとおり、「鹿火屋」に在籍している昭和八年に既に東 鷹女を名乗っているのである。「鹿火屋」退会を機に改名したというのは、鷹女の思い違いか。

それにしてもこの唐突とも言える脱会は不思議だ。他に何か理由があるのだろうか。この頃は冒頭に記したように、牛込に転居したのを機会に「牛込句会」という月例句会を自宅で開催。菖蒲園吟行のあとも、昭和九年一二月号までは鷹女も「鹿火屋」に順調に句を出し続けている。

「鹿火屋」での彼女の成績と石鼎の着目の仕方を見ていると、鷹女自身この結社での自分の位置に不満があって退会したとは思えない。この頃の彼女の作風を見ていると石鼎の独特な感性やものの見方と共鳴している、座談会の評言を読めば、石鼎は鷹女が伸びてゆこうとする俳句の言葉づかいの微妙な点まで汲み取っているのがわかる。ほかの俳句についてもたびたび石鼎は鷹女俳句を取り上げているが、鷹女自身も気がついていないであろう。細かい言葉の使い方に自然美への鋭い感応力を読み取りその能力を高く評価した句評を誌上に書き連ねている。

この師のもとでそれなりに鷹女自身も自分を伸ばせたのではないか。「思いを残し」ながらもこの結社を去ったのは、なぜだろう。この頃の石鼎は俳句だけでなく俳画展も催しそれが次々に完売になる勢いであった。石鼎年譜によると「昭和八年一月号は二百三十四ページという大冊で創刊以来の記録となると記述があり、「麻痺性痴呆症」によって二三年しか持たないと虚子に告げられた症状も深刻化することもなく良好な健康状態を保っていた。この頃の石鼎の俳句もまた、油が乗り切っていた。

松過ぎてなほきさらぎを心かな
春宵や人の屋根さへみな恋し
雪に来て見事な鳥のだまりをる

少なくとも原因は「鹿火屋」にあるとは思えない。退会の理由は夫謙三が昭和四年より「鹿火屋」にいた小野蕪子が主宰する「鶏頭陣」同人となり投句の中心を移したがためではなかろうか。気が強いように見えて鷹女は、夫と別に一人「鹿火屋」に席を置き続けることはできなかっただろう(鷹女が単独で所属を決めたのは戦後からである)。

新興俳句「京大俳句事件」などでどす黒い噂を残す小野蕪子ではあるが、「鶏頭陣」に移ってからの鷹女はのびのびと自分の個性を開花させ、当時の俳壇が注目する俳句を次々と発表してゆくことになる。


(つづく)

【参考文献】
『原石鼎』小島信夫・河出書房新社
『原石鼎全句集』沖積舎
『鹿火屋』昭和四年~昭和九年
『三橋鷹女全集』立風書房
『市民が語る成田の歴史』成田市叢書第二集


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