2008-10-05

〔週俳9月の俳句を読む〕中田八十八 結局は日常

〔週俳9月の俳句を読む〕中田八十八
結局は日常



高校生の頃、とあるセミナーに参加し、ノーベル生理学・医学賞受賞者の利根川進氏の講義を聴く機会を得た。内容は当時話題となっていた分子生物学に関するもので、詳細は忘れてしまったが、分子レベルから生命活動を説明しようという発想に、心が震えたことを覚えている。化学反応や物理法則によって未来は予測可能か、そんなことをワクワクしながら参加者と語り合った。


音速を超えることなし秋の蝉   桑原三郎

夏の蝉と自分は多対一であるのに対し、秋の蝉は一対一という印象がある。蝉と自分の間には確かに空間があって、そこには秋の空気が満ちている。水も、火も、そこにあるものは全て、自然法則を逸脱できない不自由な存在であるのに、美しい。それとも、法則に従っているからこそ美しいのか。いずれにせよ、そんなことは気にも留めないかのように、蝉は相変わらず静かに鳴き、雲は高い空に拡散している。


算数やキリンの首の美しき   中村十朗

算数という言葉は、必然的に幼少期のイメージをその中に含んでいる。中学・高校と進むうち、我々は、キリンは首が長いが首の骨の数は人間と同じだとか、高い位置にある頭まで酸素が届くよう血圧が高いだとか、いろいろの知識を身につける。しかし、我々はそれによって、キリンについてより知ったことになるだろうか。

キリンとはこういうものだと判断することは、同時にそうでない可能性を否定することでもある。視界に盲点が存在するのと同じように、一つのことに注目することは、他のものを「より見ない」ということに他ならない。従って我々は、キリンについて知れば知るほど、同じだけキリンの情報を見失う。

幼少期に見たものと同じ、あの純粋な、一番キリンらしかったキリンを見たい。それは容易なことではないが、長い首や幾何学模様の体を持つキリンを見るにあたって、作者に取っての糸口は「算数」だったのかもしれない。


詩が嫌ひ俳句も嫌ひ海老フライ   さいばら天気

数学者はあるとき、自分たちがやっているものは宇宙の真理である、などと思うことをやめた。私たちがやっているのは、少々込み入った机上の空論ですと開き直ったのだ。20世紀初頭のこと。それが現代数学の幕開けだった。

科学は確かに便利で役に立つが、科学は万能で、それは宇宙の神秘を全て含んでいるなどとは考えない方がよい。そんなことを期待するよりは、科学なんて幾千あるモノの見方の一つに過ぎない、くらいに考えた方がよっぽど楽しめる。

詩が嫌ひ俳句も嫌ひ海老フライ、この深刻でない感じがとても好きだ。俳句を続けていればやがて何かが見えてくるとか、そんなことは期待せずに、ただそこに身を置いて、その感触を楽しみたい。

詩が嫌い、俳句も嫌い、数学も嫌い、科学も嫌い。

あはは、と笑い飛ばして気楽にやれば良い。結局は日常。結局は夕飯の海老フライが旨ければそれでいい。



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