〔週俳9月の俳句を読む〕
水内慶太
一日の片隅
西脇詩論の遠いものを近づける手法と、近いものを離す手法を瞬時に駆使する十朗さんの技術に、以前から注目していた。今回、週刊俳句に「家に帰ろう」十句を掲載したのを聞いて、早速見てみた。カタカナの句が視覚的に目立ったが、これは作者の傾向なのだろう。
読み進むと、大まかに三つ位に分けられるようだ。その一つは彼本来の性格からくるペシミスティックな(厭世的)句、たとえば「売文や里芋さがすかさこそと」や「家に帰ろう桃が腐っているよ」はその雰囲気のある句だろう。どこか夕暮れ感が漂っていて、半世紀以上前の良き時代の下町の匂いがする。「売文」とは余に古いし、「里芋」も新しいイメージは無い。しかしそこに十朗さんの原風景があり、根っ子があるのだと思う。それに「腐っている桃」その「家に帰る」作者のうしろ姿はまさしく、夕暮れ感は漂う。この句を鑑賞する場合「家に帰ろう」と「桃が腐っているよ」の間に「たぶん」と言う推量の言葉を入れると、桃に向かってひたすら、家に帰ろうとしている作者が見える。そのうしろ姿は哀感をそそる。
「算数やキリンの首の美しき」と「戦あることなど忘れ薄の穂」は、遠い物と事を取り合わせることにおいて、結びつけるもう一つの手法なのだろう。「算数」と「キリンの首」が良く出会ったものだと思うが、無季にする必要はあったのかどうか、今度会った時に聞いてみたい。「戦」と「薄の穂」との取り合わせは、戦場ヶ原からイメージを起こしたのか、セイタカアワダチ草と薄との生息域争いからの発想か、どちらにしても季と物の出会いはイメージを広げてくれる。これ位のドグマ(独断)ならば、読者に折伏出来るし、そこに取り合わせの面白味が生れるのだと思う。
三つ目は、二つの物や事の近い関係を遠くに離す手法で、「ミンミンやコンクリートコンクリート」や「絵本から文字の逃げ出し夏休み」や「木々はみな空と向き合い法師蝉」がその中に入るのだろう。「ミンミン」の句は「や」の切れ字が一つで、あとは名詞だけと言うのも潔くて好きな句だ。都会の蝉は大方こんなもので、土中から出て来るにも「コンクリート」だらけで、偉い苦労をするに違いない。哀しい句だ。「文字」に「逃げ出」された「絵本」の句は、究極の絵本かも知れない。「夏休み」と「絵本」とはそれ程遠い関係じゃないばかりか、「夏休み」の子供達には近い近い関係だろう。「法師蝉」の句も「木々」「空」「法師蝉」と、どれを取っても近い関係だけど、近いだけに景の復現力は強い。
最後に「一日の片隅にある扇風機」、この句の「一日の片隅にある」と言うようなレトリック(修辞)は十朗さんには珍しい。レトロな「扇風機」が出て来るところは、紛いもなく十朗さんであり、何時もの通りなのだがこの「一日の片隅」と言う把握の仕方に、新しい十朗俳句が垣間見えているのかも知れない。何時も通りリリックな(叙情的)句だけれど、もし新しい表現法がここに隠されているのであれば、これからの十朗さんの変貌を楽しみにしたい。
■ 桑原三郎 ポスターに雨 10句 →読む
2008-10-19
〔週俳9月の俳句を読む〕 水内慶太 一日の片隅
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