2008-11-09

林田紀音夫全句集拾読 043 野口 裕


林田紀音夫
全句集拾読
043




野口 裕





水銀の粒沈む身の父に堪える

水銀体温計が壊れたときなどに、水銀の粒を実際に見ることがある。そうした点から考えて、子供の発熱時の発想と思える。生来病弱の人間が家庭を支えている不安定さを身に感じているのだろう。

水銀に呪力を付与する考えは古くからあるが、「粒」とした時点でそうした魔力は薄れている。昭和四十四年「海程」発表句。


地球儀の青に流れた血がまじる

昭和四十四年「海程」発表句。「地球は青かった」といわれたときからそう隔たった頃ではない。大局的に見ることの不得手な人間が、地球儀を見ることで得られる俯瞰図。流れた血は、大量虐殺を暗示させるとともに作者自身の血をも含む。


  

鳩ばかり殖え湿葬の膝を抱く

昭和四十五年「海程」発表句。「湿葬」が目を引く。「火葬」や「風葬」などを「乾葬」というのに対して、「水葬」や「土葬」をまとめた分類語らしい。「水葬」や「土葬」という言葉よりも、じめじめした陰鬱な感じを抱かせる。膝を抱くところは、「屈葬」を連想させる。見せかけの平和の中で個人の魂が朽ちて行くような気分を、「湿葬」で表そうとし、当時の日本の状況に対する批評をももくろんだ。

だが、成功していない。「鳩ばかり殖え」、「湿葬の膝を抱く」と句が二つに割れる構造の中で、「湿葬」は重い語となるはずだが、「鳩」と対比的に置かれていることで軽くなっている。「膝を抱く」によって加重するつもりが、「湿葬」の衝撃を弱めてしまった。「湿葬」という言葉に目が眩んだか。

重い十指どこか火を焚く薄暮にまぎれ

かつて、「道ばたの何する火かと訊ね得ず」と、第一句集におさめられた句では詠んだ。もう、他人にものを訊ねる気は最初からなくなっている。個人をぶら下げているような重い指。昭和四十五年「海程」発表句。


  

橋脚に水死ぬ午後の白い工場

昭和四十五年「海程」発表句。「水死ぬ」は、聞き慣れない言葉だ。「風死ぬ」からの連想で作った言葉だろう。河口付近では、満潮時に海水が逆流する。だが、潮はそこまでは来ていない。河は流れを失った状態になっている。

「白い工場」が、負のイメージの「水死ぬ」に似合わぬ明るいイメージをかき立てる。おそらく公害華やかな頃の「工場」は、悪のイメージそのものだっただろう。悪の権化がぬけぬけと白く輝いている。だが工場の傍らの水は、おそらくは工場の排水も、橋脚に死んで横たわっている。ぐらいの意味を込めて作られた句だろう。

公害問題が、工場から地球全体へと広がってしまった地点から見ると、工場に悪のイメージを喚起することは難しい。結果的に、正と負の入り交じった焦点の定まらない都会風景としか読めなくなっている。

にもかかわらず、都会生活者にとって懐かしい風景である。「水死ぬ」が、強烈なイメージ喚起力を秘めている。



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