2008-11-09

〔週俳10月の俳句を読む〕米男 主食8:おかず2

〔週俳10月の俳句を読む〕
米男
主食8:おかず2


西岸良平という漫画家の代表作に「三丁目の夕日」という作品がある。映画にもなったことだし、皆さんもよくご存知かと思うが、今回、小野あらら氏の「カレーの膜」という小作品を前にしてふと、映像イメージが沸いたのが、その三丁目の夕日の世界なのである。

この小作品の面白さは、私みたいな素人にありがちな、5-7-5の舞台の中に、これ見よがしに聞きかじりの思想を織り込み豪華絢爛性を売る句ではなく、淡々と日常の一齣を切り取った、いわば、私小説のような、それでいてそこにはちっとも悲壮感などはなく、あっけらかんと笑って済ます生活背景が見えるのである。

これはきっと、作者の性格にもよるのであろうが、私など羨ましくてしょうがない。

印象に残る句をいくつか取り上げてみる。


秋の風金色の魚並びけり  小野あらら(以下同)

金色の魚ってなんだろう。秋の風とあるのだから ここはスーパーなんかじゃなく商店街の魚屋の前で夕暮れ前の残照が平棚に並べられた魚に映えて金色に見えたのであろう現在のように各家庭に冷蔵庫があり、まとめ買いできる生活ではなく、冷蔵庫もあるかないか、その日その日の使う分を買っていた当時の生活が見える。


栗飯に栗の形の残りけり

よく混ぜた栗飯なのだ。なぜ、よく混ぜているのか。飯の分量に比べて栗の量が少ないからなのである。栗をけちっているのではなく、飯の量が多いのだ。昔、昔の大家族の名残の時代である。七、八人の家族の飯は往々にして主食8:おかず2くらいの比率なのである。稀に割りそこなった栗がそのまま配られると得した気分だったのだ。


秋の暮カレーに膜の張りにけり

表題となった句である。カレーという今や国民食となったファクターの取り扱いが懐かしいのである。かつて、カレーはときおり作られる御馳走のひとつだった。膜の張ったカレーだから火を落としてかなりの時間が過ぎているのであろう、いうなれば待ち人が帰ってこない状態なのである。秋の暮だから日の落ちるのもずいぶんと早くなってる、待ち人は子供なのではと思える筋もあるのだが、いやいや、これは父親を待っているのだと考えるとすっきりする。そう、当時は家族そろっての夕飯が普通だった。


私自身、マスメディアが創り出した昭和レトロなどという言葉には一過性のチープさを感じて嫌悪感があるのだけれど、ただ、その時を生きてきたひとりとして、たまに懐かしさに浸りたいときもある。さて、小野あらら氏のような世界に到達できるのであろうか。まぁ、どう逆立ちしても無理だけれど。


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