2008-11-09

〔週俳10月の俳句を読む〕角谷昌子 うつつならざるあはれ

〔週俳10月の俳句を読む〕
角谷昌子
うつつならざるあはれ


人形の乳房に木目みみず鳴く  鳥居真里子(以下同)

しろじろとした月光を浴びながら、すっと立っている白木の人形を思い描く。磨かれた木肌の乳房には、うっすらと木目が浮き、まるで血管があわく走っているようでもある。この人形の存在だけで、詩的空間が美しく広がってゆく。

私が、まっさきに思い浮かべたのは、舟越桂(ふなこしかつら)の楠の木による彫像である。大理石の目の、憂い顔のスフインクスや、肩から羽の生えた娘、時空を透してかなたを見つめる女たち。いずれも、薄紅の乳首をもち、胸をあらわにした半身像なのだが、なまなましさはなく、不思議なエロスをただよわせている。胸をあらわにした女たちというと、ポール・デルボーの絵画を思うが、舟越の女たちは、木彫という肉体をもちながら、もっとやわらかな、澄んだ存在なのである。

そんなこの世ならざる人形がテーマであれば、さまざまな想像が湧き、詩情あふれた物語をつむぎたくなるのだが、作者は、下五の「みみず鳴く」という、俳諧味ある季語で、読者をすっと日本の土壌へ引き戻す。はっと現実に返ったとき、聞こえるのはみみずの声。視覚から聴覚へ、また「詩」から「俳」への転換である。

ところが、「みみず鳴く」の季語は、実際に鳴かないので誤用などとも言われているほど頼りない。「乳房に木目」とリアルに描かれた人形対して、「みみず鳴く」の季語の曖昧さ。下五の解釈にとまどう読者を置き去りに、作者はそっと肩をすくめるのである。


芝居小屋なり蟷螂が燃えてゐる

ここ数年、地元のジブリ美術館裏のスペースで、唐十郎が毎年テント劇を上演している。水や豆腐(役者の汗や唾液まで)が飛んだりするので、最前列にはいつも客がひっかぶれるように、ビニールシートが用意されている。そのむかし、新宿の花園神社境内の芝居のときはもっと過激だった。唐十郎のこだわるテントの芝居小屋は、それまでなにも存在しなかった空間に、突如として出現する。そんな摩訶不思議な魔風殿で演じられる、強烈な台詞の応酬。役者たちのことばの爆弾によって、脳みそに火も点こうもの。

この句の燃えている「蟷螂」は、そんな過激なことばに殉死した、もしくは生贄となった、火葬の「蟷螂」のようにも思える。


月光は月の義足やちんちろりん

真里子俳句には、相手の想像力を試す、スフインクスの謎のように挑戦的な作品がある。だが、この句の場合、同じ謎ではあるが、鑑賞は読者にお任せしますとばかりに投げかけられた、作者の涼やかな眼差しを感じるばかりである。

「月の義足」とはいったいなにを表すのだろう。日本では、「叫び」ばかりが有名になってしまった、ノルウェーの画家ムンクは、己の心象世界を反映させた、月光の絵画をよく描いた。静まり返った、孤独の滲む暗い画面に、月光のみが明るく差しているというモチーフである。彼の絵に、この句のヒントはあるのではなかろうか。

ムンクの月光には、貝割菜にひらひらと降るような、やわらかな感触はない。その月光は、あたかも一本の帯、もしくは棒のように水面に差しこまれている。月から伸びた光を、輝く棒とすると、「義足」は、まったく突拍子もない連想ではなくなる。

夜空の月を支えるための、青白く光る義足と、雅な松虫の声の取り合わせ。この句も、下五で視覚から聴覚に転じている。しんしんとした心象世界を描くのに、「ちんちろりん」は、ますます孤独の深みへと我々をいざなうのである。

鳥居真里子の俳句に触れると、ふといつも梁塵秘抄の「うつつならぬぞ、あはれなる」というフレーズを思い出す。この世ならざるものが、ふと目のまえに現われるので、その端をつかんで、確かめようとするのだが、目を凝らすほど、はぐらかされてしまう。真里子俳句とは、「うつつならざるあはれ」の世界といえようか。



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