2008-11-02

鷹女への旅  第6回 三宅やよい

 鷹女への旅  第6回

 亡びゆく国あり大き向日葵咲き



 三宅やよい

初出『船団』第69号(2006年6月1日)



『 向 日 葵 』 の 時 代

昭和十一年小野蕪子「鶏頭陣」で独自の俳句表現を掴んだ鷹女は句集を発行する。最初の句集『向日葵』は三省堂の俳苑叢刊シリーズとして発行された。このシリーズは昭和十五年の俳句研究に綴じ込み広告が載っている。小型本、各冊約百ページ。五十銭の価格がついているが、当時としては画期的な試みだった。渡辺白泉がこの当時三省堂の社員であり、この企画に関係していた。

渡邊白泉は、勤務先の三省堂出版部長として、前年来、菊半截判の句集シリーズ「俳苑叢刊」の企画編集にあたっていた。―中略─「俳苑叢刊」は、当時の伝統派、革新派にわたる新鋭俳人の句集を網羅しようとしたものであった。(『現代俳句の世界16』解説より)

当時の雑誌広告に掲載された俳人のラインアップを見ると星野立子、中村汀女、阿波野青畝といったホトトギスの俳人と並んで東京三と西東三鬼、石橋辰之助といった新興俳句系作家の名前が見えるのが新鮮に思える。このシリーズで第一句集を発行した俳人も多い。鷹女もその一人であった。

ここに初めてアンチ新興俳句といい、対峙しては、互いに閉鎖的であった俳壇を俯瞰するかまえの、このシリーズによって、同じ体裁による句集が競合する、共通のフィールドを持ったわけである。いや、持つ筈であった。しかし、この時宜を得た企画の続刊は、続刊の途中で起きた新興俳句事件の余波をうけ、二十六冊を出し挫折する。

前掲書で三橋敏雄が続けて述べているように俳句弾圧事件はこの画期的な試みに大きな影を落とした。

『向日葵』の発行年度は昭和十五年十月十五日。今ほど個人の句集を出すのが容易でなかった時代に企画されたこの-シリーズは昭和九年に創刊した総合雑誌『俳句研究』とともに、ホトトギス以外の作家を世に広めるのに大きな役割を果たしたといえるだろう。鷹女の作品に初めて触れた人たちも少なくはなかった。この『向日葵』は自選句集であり、師の序文もない。ただ、簡単な自序があるのみ。

古い頃のものは私の最初の句集である事を意味づける為に、その少数を取り入れるほかはすべて捨て去ることとして、活字になつたもの二千に近い中から自選し、これに最近の作で未発表のものを択び加へた。

「序」の言葉どおり所収三百四十句の比重は昭和十年以後のものが多く、巻末の「伝」に-「従来の俳句に不満寂寥を感じ、敢へて冒険的なる句作を試し初め」と、自身でも書いている通り、「鹿火屋」を辞めてのち「鶏頭陣」同人誌「紺」に所属する中で書き始めた今までとはまったく違う傾向の俳句を自身の俳句と位置づけていたことがわかる。年代別に題が付けられているが、「鹿火屋」で評価を受けた昭和十一年までの句では四十四句しか収録されていない。「いそぎんちゃく」と名づけられた昭和十年代から比較的手堅い季語との取り合わせやおとなしい俳句的表現から飛躍的に自分を押し出す、斬新な表現に方向転換していることがわかる。


「 冒 険 的 な る 句 作 」

  夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

俳句で「好き」「嫌い」という感情表現をはっきり押し出すことは危険である。ある意味読み手に想像する幅を制限してしまうし、その断定が押し付けがましく思われて俳句を読むトバ口で拒否されてしまうかもしれない-。しかし、鷹女のこの句に託しているのは好き嫌いの感情表現だけではない。「嫌いなものは嫌い」という日常によく聞く頑是無い子供の言い回しが「なり」という日常から断ち切れた俳句独特の断定表現と一体化してミスマッチなリズムを生み出している。

「夏痩せて」という季語の斡旋は「武士は食わねど高楊枝」のようにことわざ的なフレーズとしても効いている。それだけに理に落ちてイメージに乏しいかもしれないが、季語を中心に日常を叙情的に詠うホトトギス的女性俳句作法からすると、まったく異質な文体の新鮮さを感じさせられる。

鷹女がやりたかったのは自我の主張より従来の俳句表現の殻を破る踏み出しの一歩だったのかもしれない。

  つはぶきはだんまりの花嫌ひな花

この句も前揚句と似たような構成になっているが、「だんまりの花嫌ひな花」のリフレインが、ひっそりと咲くつはぶきの花の印象を読み手の心に刻みつけるぐらいきっぱりした強さを持っている。鷹女の芯にある自分を媒介にして見るもの触れるものを新しく塗り替えてゆくようでもある。

  みんな夢雪割草が咲いたのね

  風鈴の音が眼帯にひびくのよ

  詩に痩せて二月渚をゆくはわたし

  煖炉灼く夫よタンゴを踊ろうか

新興俳句は自由律俳句や川柳にあった口語表現を俳句の中でいきいきと表現する方法を試みた。その先鋒は渡邊白泉であったが、口語俳句の一番の難敵は「切れ」だと思う。ただの日常の呟きごとに陥ってしまうものをいかに切れの二重構造を生かしながら俳句的広がりを持った文体として昇華させるか。季語とフレーズの取り合わせから出発する第一歩を踏み出したのが鷹女であった。

  みんな夢/雪割草が咲いたのね

「みんな夢」という独り言に近い呟きと、「雪割草が咲いたのね」という事実への飛躍。夢と雪割草とのイメージを優しく繋ぎとめつつも、この飛躍があるからこそ鷹女の寂しい呟きから雪割草が咲きこぼれたような不思議さを読み手に感じさせる。

詩に痩せて二月渚をゆくはわたし

これなどは全体の調子が少々ナルシシズム的に感じられるが、末尾に「わたし」と押し出し切れる形は実に大胆である。この句集で鷹女は主語を省略することの多い俳句では異質とも言える「わたし」(自我と自身が感受する世界観)をはっきりと押し出した。

  爆撃機に乗りたし梅雨のミシン踏めり

  書き驕るあはれ夕焼野に腹這ひ

  夏藤のこの崖飛ばば死ぬべしや

触れれば火傷しそうな烈しい感情が俳句の定型いっぱいに収められている。新興俳句は従来の俳句の「かな」、「けり」、と言った切れ字に変えて、動詞、形容詞の語尾で切れる形など模索していたが、鷹女も冒険しながら一つ一つ句を作っている様子がよくわかる。


連 作 の 方 法


昭和十年前後にさかんになった連作の方法も、鷹女の『向日葵』の構成にも大きな影響を与えているように思える。

現代俳句ハンドブックを見ると「(連作には)全体の展開を重視した水原秋桜子の設計図法、一句の独立性を重視した誓子の多作構成法・モンタージュ法とがあった。」とある。おおまかに当時の連作の傾向を私なりに分類してみた。

一 場所、時間に制限を持たせての構成 
二 従来の題詠的発想の連作。(渡辺白泉 「山葡萄」)
(テーマ詠のようなものか)
三 主題の展開、深まり、(高屋 窓秋 「おもひ求めて」)
四 小説などのように物語性のある展開
(日野 草城 「ミヤコホテル」)
五 映画的手法、ロング、アップ、モンタージュといった映像性を重視した手法。(山口誓子『黄旗』、仁平勝『俳句のモダン』より)

鷹女の連作は一、二の方式が多く、連作を発想の踏み台にしており、構成的要素はあまりないように思われる。

   いそぎんちやく

  颱風はをとこおみなの住む薝を     〔註〕薝:エン・ひさし(軒のこと)

  颱風の夜は紺青の絽の寝巻着

  颱風のしほから海に吠く魚貝

  颱風はいそぎんちやくの踊る闇

「颱風」を中心に寝間着の色から海へ、そして海底にイメージを広げてゆく形で作品が構成されている。窓秋や誓子のような方法論的な連作ではないが、季語からばかりではなく、「草原」「鳥屋の店」など嘱目の「物」や「こと」ではなく、言葉から発想する方法がとられているところが同時代的である。句集は小題のもとに五句から十句ずつまとめられており、当時の鷹女の代表句とされる多くがこの方法で作られた句群のうちの一句であることは前回の「ひるがほと醜男」の連作でもわかると思う。

この時代大衆の娯楽として君臨した映画は新興俳句に大きな影響を与えた。絵画から写真、映像へ。新興俳句はイメージと、色彩豊かな作品を次々と送り出していったが、鷹女の作品にもそうした試みが見られる。

  幻影は砕けよ雨の大カンナ

  亡びゆく国あり大き向日葵咲き

  雪を来てボーイ新鮮なり地階

  まなぶたに花ちる朝は字を習ふ

  茱萸は黄に暁さめてゐるちぶさ

  冬来るトワレに水の白く湧き

雪とボーイの白い上着。ちる花とひらがな。滅びゆく国と向日葵。茱萸と乳房。取り合わせでより共通のイメージが詩的に広がってゆく。鷹女の句にある色の取り合わせの鮮やかさは「鹿火屋」時代に画家でもあった石鼎から学んだことが多かっただろうが、そのセンスが都会的に洗練された点が新味を感じさせる。

  六月の海の碧さにポスト塗る   高 篤三

  南国のこの早熟の青貝よ   富沢赤黄男

  南風や並木の果に巨船白し   嶋田的浦

  白馬を少女けがれて下りにけむ   西東三鬼

モダニズム詩に影響を受けた新興俳句の若き俳人達の基調は青と白であったが、時代の好みは鷹女のこれらの俳句にもかすかにその影響を及ぼしているようだ。


四 T の 位 置 づ け

四Tという呼称を用いたのは山本健吉であるが、血液型四分類のように彼の考える女性俳句の特色を仕分けする都合のよいモデルとして名前にTのつく四人を選び出したとも言える。山本健吉が何時この呼称を用いたかはよくわからないが、四人の性格づけに用いている例句がほとんど昭和十年代のものなので健吉が「俳句研究」の編集をしていた時代と思われる。言ってみれば、この四人にこれからの女性俳句の可能性を編集者として感じとっていたのだろう。 

「鶏頭陣」を辞めたあと、結社に属さなかった鷹女もまた、句集『向日葵』を出した前後、たびたび「俳句研究」に発表の機会を与えられている。

四Tの評価として健吉は多佳子と鷹女については「もっとも新しい俳句意識にたって句を作っている」(「昭和俳句史」)とも評している。四Tの中で多佳子と鷹女には今までの女性俳句にない方法意識があると健吉は考えていた。その意識が鷹女においては「多彩で特異な個性的句風を生み出していった」と注目したのだ。 

「鹿火屋」や「鶏頭陣」などでは力ある俳人として知られてはいたが、表立つことのなかった鷹女を俳壇に押し上げたのはホトトギス中心の俳句の世界を新しく横断する力を持った総合誌「俳句研究」の誕生が大きかったと言える。この時期の「俳句研究」には鷹女のエッセイ、題詠、などの作品が掲載されており、年鑑の女流特集には汀女、立子、しづの女と肩を並べて特集されている。

句集「向日葵」や鷹女のこの頃の俳句に対する評はあまり見られない。かっての同人の誼か「俳句研究」昭和十六年四月号に永田耕衣の読後評が掲載されている。

「日向葵(原文ママ)」の後記に鷹女さんは「従来の俳句に不満寂寥を感じ敢へて冒険的なる句作を試み初めた」と書いてある。従来の俳句とはどんなのを指してゐるか判明しないが、恐らく無気力は花鳥諷詠を心においてであつたらう。しかし、それにも関わらず僕はコノ悲願が果して何を他にプラスしてゐるかがわからないのである。竹下しづの女氏に似てしかもそれほどの哲学的思索はみとめられない。かしこまつた心の技巧や押への風態に業を煮やし、持ち前の詩性で囚はることなく、ただ思い切つてズバリズバリ吐き散らして行つた息に過ぎないとふ気がする。

俳壇での『向日葵』の評価はこの耕衣と似たりよったりではなかったか。鷹女の個性の強い句は歓迎されなかったのかもしれない。昭和十六年『向日葵』に引き続き『魚の鰭』を甲鳥出版から上梓した際、俳句研究に自選二十五句を抄出しているが、鷹女が『向日葵』選び出した句はおとなしいものばかり。鷹女の句として人口に膾炙した句や今まで例に揚げた句は一句も選び出してはいない。どこか物寂しげで一人息子陽一にまつわる句も多い。太平洋戦争前夜の世相は一段と暗く、鷹女にも戦争の影がしのびよりつつあった。



(つづく)



【参考文献】
『現代俳句の世界16』「富澤赤黄男・高屋窓秋・渡邊白泉」「昭和俳壇史」村山古郷
『俳句研究』昭和15年~16年



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