鷹女への旅 第7回
瞳に灼けて鶴は白衣の兵となる
三宅やよい
初出『船団』第70号(2006年9月1日)
第 二 句 集 の 出 版
『向日葵』の翌年、第二句集『魚の鰭』が甲鳥書林より出版される。鷹女自身『向日葵』の姉妹篇と言っているように、第一句集発刊からわずか三ヵ月後、ほぼ同時期に上梓されている。『向日葵』は俳壇に向けて従来の俳句とは違う個性の強い俳句を強く打ち出す構成になっていたが、『魚の鰭』は肩の力を抜いて愛着の深い句を中心に句集を編んだ様子。資料的には俳句を始めたころから昭和十五年まで句の変遷を見ることができ、鷹女の多面性がより強く感じられる句集に仕上がっている。
秋風や水より淡き魚のひれ
秋の街曲り角多し曲がりゆく
秋風に黒猫とゐて食む夜食
秋日射し骨の髄まで射しとほし
年代別の編集ではあるが、この句集を編集する鷹女の心を占めている見えないテーマは「秋」の寂寥感である。『向日葵』が鷹女の激しさと俳句への野心を映し出した「夏」の句集だとすれば、後年特に深くなる彼女の孤独への志向性を映し出した句集と言えよう。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
鷹女の代表句として人口に膾炙したこの句は「幻影」と題された、中世を思わせる連作の一句として出現する。「紅葉」を中心に「鎧の武者」「弓矢」「烏帽子」の男の幻影から突如急転して、情念に燃え立つ女と夕紅葉がくっきりと描き出される。鷹女が独特なのは一つのテーマを中心にイメージを展開しているうち、考えもしない場所まで言葉が届いてしまうところで、それは彼女自身が意図したのではなく、「結果として」としか言いようがない出来事だったように思えるのだ。
彼女が意識的に俳句を作る場合、言葉の連想に、取り合わせに独特の機知が働く。
鶴は病めり街路樹の葉の灼けて垂り
立葵咲きのぼりシチウ鍋煮えぬ
藤咲いて海光ひとの額に消ゆ
茱萸熟れてちぶさが二つ小麦色
彼女の資質の一つである「機知」は取り合わせの連想から引き出されたイメージをつなげるのに欠かせない要素であった。
とかく鷹女の代表句集として『向日葵』がよく取り上げられるがこの『魚の鰭』には「鹿火屋」時代に作った初期のものから個性の強い妖艶な句、そして後年の鷹女を思わせる抽象性の強い句までが混在していて独特の雰囲気をもった句集である。
私はネットの古書店から手に入れたが、表表紙にうすい緑の芽の出た玉葱と真紅の万年青の実。裏表紙に枝付きの柿の実を配した彩色の美しい装丁で武者小路実篤が手掛けている。見開きには大判の鷹女の写真が掲げられ、胸高に帯を占めた黒目がちの鷹女の視線はカメラのレンズを越えてはるか中空を見つめているようだ。-鷹女の自愛は彼女の美意識の根底を形作るものだが、これだけ大きな写真を口絵に使うというだけ自分の容姿に自信があったのだろう。四十前の女ざかりの鷹女は匂うばかりの美しさである。
昭和十六年、この句集を持参して藤田嗣治のもとを夫婦で尋ねたときのことが「俳句研究」の自筆年譜に記されている。
『魚の鰭』の装幀と内容を見て「立派な句集だ…この次、出されるときは、ぜひ私に装幀させて下さい…」と嬉しい言葉を頂く。白髪のオカッパが美しく、清らかで物静かな感じを受けた。「俳壇には先生から破門されるということが、今でもあるか」との御質問に対し、「破門される前に弟子の方から出てゆくでしょう」と即座に答えた私に、画伯は微笑を浮かべながら「芸術家には、新しく来るべき世の中を創造してゆく責任があるのであって、そのためには師に反対もし、師を乗り越えても自分の仕事をしてゆかねばならないと思う」と言われた。
この挿話を読むと当時の鷹女の誇り高い俳句への構えを伺い知ることができる。日本画壇に異端として受け入れられることのなかった嗣治は戦後フランスへ帰化してしまい鷹女の句集を装丁することはなかった。独特の画風の嗣治とのコラボレーションが実現していたら、さぞ個性的な句集が出来たことだろう。二つの句集を続けて上梓し、得意の絶頂にあった鷹女の生活にも戦争の影は忍び寄りつつあった。
母 の 愛
鷹女にとって気がかりは一人息子陽一であった。鷹女は一人息子の陽一を厳しく育てながらも溺愛といっていいぐらい愛していた。『向日葵』後半部から『魚の鰭』の各所に陽一を思う吾子俳句が見受けられる。
菊白し男の子み国の子を守れば
子の寝息すこやかに青き蚊帳を垂れ
夏旅の短かに吾子の頬尖り
子の鼻梁焦げて夏山をいまも言ふ
成田の名家である三橋家を自分の代で絶やすことはできない。兄が続けざまになくなった頃から家の重圧は鷹女にのしかかっていた。昭和十七年。一家は三橋家を継ぎ、東姓から三橋姓になっている。鷹女はこの時期愛息を詠んだ俳句を数多く作っている。俳句表現と自身のあり方が密着している鷹女にとって、この時期の関心は息子に注がれており、全力で息子を詠むことは彼女にとって当然のことであったように思う。富国強兵とセットになった良妻賢母教育をしっかり受けた鷹女である。家督を継がすたった一人の息子大事の気持ちとともに「お国に役立つ人間になってほしい」という愛国の倫理は枷となって彼女自身を苦しめたことだろう。徴兵は男子の義務であり家督を継がすたった一人の息子と言えども逃れられるものではなかった。陽一は昭和十五年陸軍経理学校に入学している。
本編を書く上で成田の鷹女像の建立に尽力なさった山本侘介氏にいろいろお話を伺った。氏も陽一氏より若干年下ではあるけど、同じく青春期に戦争をくぐりぬけた世代にあたられる。氏のお話では当時経理学校に入学するには優秀でなければならなかったこと。エリートとしての軍人の地位を確保しつつも戦場に行っても事務系であるので前線に出てゆくこともなければ、苛烈な戦闘に巻き込まれる心配もほとんどないどっちみち戦争に行かなければならない二十歳前の男子の進路として「賢い選択」であるというお話だった。
三橋(絢子) 陸軍を選んだというのは、やっぱりお母様の意向なんでしょう。
三橋(陽一) そう。三橋(絢子) (陸軍)経理学校はね。
三橋(陽一) やっぱり国民はみんな国家のために尽くさなければいかんから、初めはやっぱり一高へ入れたいという気持ちもあったんですけれども、やっぱり一高の合格発表より先に経理学校へ入ってしまったんでそっちへ行けと、ただ軍人でも一人っ子だから、余り戦争ばかりやっているんじゃなくて、経理ならそういう第一線に出るチャンスも少ないだろうし、経理学校がいいんじゃないかと勧めてくれたんですけど、実際上はそうじゃなくて、経理学校は後方ばかりいるわけじゃなくて、我々も現役の時には第一線で戦ったわけですから、全然士官学校出と全く変わりなかったんです。
昭和十六年「俳句研究」八月号には次のような句が掲載されている。
肩章 ─吾子陸軍経理学校予科在学─
吾子来る梅雨の短剣音鳴らし
梅雨冷えの厚き双手を振り来る
梅雨たのし子の肩章に手触れもし
母に振る夏手袋のしろき手を
汗の香の愛しく吾子に笑み寄らる
普段の鷹女からは想像できない親バカぶりである。立派に成長して軍服を着た息子を頼もしく見上げている母の熱い視線が感じられる。息子は鷹女の心のよりどころであり、誇りであった。鷹女のこの当時の句を読むと女である鷹女のもう一つの側面、母としての鷹女がいたるところにいる。
陽 一 の 出 征
しかし、戦争に彩られた不穏な時代はその影をいっそう濃くしてゆく。どの俳誌を見ても、昭和十六年以後紙の質が急激に悪くなり、ページ数も少なくなる。相次ぐ俳句雑誌の廃刊、統合とともに、そこに掲載される作品の価値転換をせまられているそんな緊迫した時代の雰囲気を感じるのだ。「俳句研究」昭和十七年新年号の巻頭には次のような一文が掲載されている。
俳壇唯一の総合雑誌である小誌も国民詩伝統詩たる俳句が時局下に捲ふ責任の重大なるを認識して、ひたすら健全国民詩の樹立の方向に進みつつあるのでありますが、その意図を完全に達成するためには全俳壇人の協力を必要とすること勿論であります。
昭和十七年には「日本文学報告会」が設立され、俳句部会の会長は高浜虚子、代表理事に水原秋桜子、理事長に富安風生などが名を連ねている。設立の目的は勿論戦争協力、であり、開戦以後昭和十八年、十九年の「俳句研究」の俳句は戦時色が濃厚になってくる。鷹女も「俳句研究」昭和十七年4月号に次のような句を寄稿している。
神風 ─米太平洋艦隊撃滅
凍天に凍海に嗚呼神風吹きし
あだ敵艦沈め冬白浪ぞ高鳴れる
還らじと還らじとゆきし凍天を
凍天に魂を駆けらしをみな我等
日の国の真冬真穹をおろがみ泣く
後の時代から見てこれらの俳句を批判するのはたやすい。しかしそれは今の時代からあの戦争を、当時の状況を俯瞰して言えることで、明治以後天皇を機軸とする時代の教育を受けてきた大半の国民にとって戦争は開戦した以上戦い抜かねばならない大事であったろう。伊藤 整の『太平洋戦争日記』に十二月八日開戦当日の東京の街の様子について次のような記述がある。
日比谷にて、バスそばで新聞に皆がたかっているので自分も下り四枚買う。売子の男まごまごしていて金をとれぬ。やっと渡し、それをカバンに入れ、小便をしに日劇地下室に入る。割にしんとしていて、皆がラジオを聞き、新聞を開いている。ラジオで軍歌、「敵は幾万ありとても」をやるとわくわくして涙ぐんで来る。朝日のケイ時板に号外が出ており、見るとハワイ空襲出ている。なるほどと思い、朝日の電光ニュースを見る。新聞に出ていることなり。 ─中略─ 自分はハワイ空襲はよくやったと思いうれしくなる。タイヘンな損害をこちらも受けたろう。
一般的な国民感情としてこの開戦を肯定的または仕方のないものとして、とらえる向きがほとんどだったろう。「まるで非国民のようなことを言われると、たしかに気がくじける」とは著述の批評に関して伊藤整が漏らしている言葉。戦争に流れてゆく時代状況に漠然とした不安を抱いていることを言葉に表すだけでも危険な状況であった。印刷媒体に作品を発表するのに戦う国民の決意を、あらゆる場所で求められる時代だったのだろう。
出征するべき年代の息子を持つ母親の大多数と同じ悲壮な覚悟を鷹女も抱かざるをえない。
三橋(陽一)私も戦地に行くときは、下関の港から朝鮮経由でずっと北支那、中支那の方へ行ったんですけれども、そのときも父や母が行ってくれてね。最後まで見送りしてもらいましたよ。
後年陽一が回想しているように、昭和十九年五月に中支派遣部隊付主計将校とする息子を鷹女は夫とともに下関まで送りに行っている。こう書けば簡単なことのように思えるが当時の交通事情で東京から下関に行くのは二日がかりの旅行である。病弱な鷹女は都内でさえ一人で出歩くことはめったになかった。人ごみに出るだけでふっと気が遠くなることも多く、外出には常に誰かに同行を頼んだそうだ。後にも先にも鷹女がこれだけの遠出をした記録はない。戦局も押し迫ったこの頃、鷹女は愛する一人息子との別れが永遠の別れになることを半分覚悟していたのではないか。
事実、陽一は爆撃による負傷を負い、戦争が終っても音信不通のまま帰っては来なかった。
(つづく)
【参考文献】
『俳句研究』昭和十六年八月号、十七年一月、七月号
『太平洋戦争日記』(1)伊藤整
『市民が語る成田の歴史』成田氏叢書第二集
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