鷹女への旅 第8回
仙人掌に跼まれば老いぐんぐんと
三宅やよい
初出『船団』第71号(2006年12月1日)
鷹 女 の 試 練
昭和二十七年に刊行された第三句集『白骨』は昭和二十七年三月発刊されている。
冒頭部分「母子」は昭和十六年から二十年までの俳句が収められているが、前書きが付けられた句が多く、戦時中から戦後の混乱期にかけて鷹女と息子陽一の消息を伝える。鷹女は俳句で日記を書くタイプの俳人ではないと思うが、戦争から戦後にかけて一人息子を愛おしみ、陽一と過ごす貴重な時間を言葉で書き留めようとする鷹女の母としての気持ちの深さが伝わってくるようである。
敗戦
子を恋へり夏夜獣の如く醒め
夏浪か子等哭く声か聴え来る
日本は戦争に負け、一人子の陽一は消息不明。頼みの夫謙三は胃潰瘍で一時危篤に陥った。今日食べる食糧を確保するにも走り回らなければならなかった混乱の時期に、夫は重篤の床につき、成田の家督を一家で継いだものの跡継ぎの息子は行方不明。郷里に残した母は心細く老け込む一方で、全ての責任が鷹女の細い身体にのしかかってきた。
私は泣かない女である。だいたいこの泪といふものは私にとつては手に負へない代物なのである。一滴─若しも泪がこの眼を離れてたら最後、泪はあとからあとからと堰をなして流れ落ちる。さうして私のからだはだんだんと萎えしぼんでいつて遂には消え失せて了すのではあるまいかとふ気がしてならぬ。 ~中略~ それ故悲しい事に出逢ふたからとてうかうかと出されない泪なのである。私はいつの頃よりか泪は目の中に押し込んで置くべきものと心得るやうになつた。溢れ出ようとする泪を押し込まなければならぬ努力は決して只事ではない。見栄や外聞では有り得ないことなのである。(「鶏頭陣」昭和十一年六月号所載)
女一人、年老いた母をささえ、夫を看病し、鷹女は孤独に耐えていた。心から愛する父、兄の葬儀にすら泣き崩れなかった自分を少し離れたところから見つめてこのように書き綴る鷹女のことである。きっとこの時期も唇をきっと噛みしめ。余分な言葉はひと言も発しないで、黙々とやるべきことをやりながら苛酷な現実に耐えていたに違いない。
日録的に句を作ることのなかった鷹女ではあるが、この頃の俳句の多くは鷹女の生活に密着したところで作られており、前書きとともに句を読めば、その句が作られる背景となった鷹女の生活をそのまま知ることができる。
夫剣三、患者診療中突然多量の吐血をして卒倒し重態となる。病名胃潰瘍
ひとり子の生死も知らず凍て眠る
一週間後再び危篤に陥る
胼割れの指に孤独の血が滲む
二三ヵ月を経て稍愁眉をひらく
藷粥や一家といへど唯二人
一月七日は子の誕生日なれば、
七草にちなみせめて雑草など摘みて粥を祝はんとせしも…
焼け凍てて摘むべき草もあらざりき
昭和二十一年二月四日吾子奇跡的に生還
あはれ我が凍て枯れしこゑがもの云へり
ようやく鷹女に安堵の時が訪れる。陽一が生還したのである。陽一の姿を見た途端張り詰めた気持ちが溶け、身体の奥に押し込んでいた声が漏れ出て、涙が滲んできたことだろう。敗戦から翌年二月までの半年間、一人で耐え忍んできた鷹女の気持ちが推し量れる。
息子陽一はこの間の消息について、次のように語っている。
三橋(陽)(戦地は)中支那、今の武漢ですね、漢口付近に駐留部隊がありまして、そこへ赴任して、一五、六人行ったのが途中でみんな分散して、私一人になって、それで部隊へ、そうしたら大東亜戦争、湘桂作戦という戦争にも駐留地からでちゃって、一人であとを追いかけていって揚子江を渡って追いかけていって、途中で戦闘中に部隊に合流しましたけれども、それで二十一年の二月に復員して帰りました。だから子供を戦地に送った母の心情というものはね、随分俳句を通じて本当に懐かしくてね、涙を流したと思いますけれどもね。一人息子を戦地へ送って、随分つらかったと思うんですけれども、何か後から聞いたことがあるんですけれども、戦地に行って帰らなかったら、やっぱり三橋家は絶やすわけにはいかないから養子をということも考えたようです。お国のためだという気持ちがやっぱり強かったようですね。
三橋(絢) 戦争中はお父様が防空団長やったりなんかしてね。一生懸命なさったみたい。
三橋(陽) それで、私が戦地に行っている間に、そういう疲労がたまって血を吐いて父ば胃潰瘍で倒れましてね。私が復員してきたときは、ちょうど吐血した後、寝ている最中のところへ突如として帰ってきたわけですけれども、だから病気の父親を抱えて、子供は戦地で生死もわからないのに、随分つらかったと思います。
前回見てきたように『魚の鰭』後半部に所収の句と、『白骨』前半、昭和十七年から二十年まで鷹女の句は息子の成長を見守り、安否を気遣う日記のようだ。戦争の前後集中的に陽一の句を作り続けたのは一人子の無事を心から願う母の祈りだったのかもしれない。鷹女は痛いほど視線を陽一へ集中させており、それ以外の俳句を作る気持ちになれなかったのだろう。一つのことにこだわりだすと周囲が見えなくなるのが鷹女のストイックさではあるが、陽一が無事戦場から帰還したことで孤独に張り詰めていた鷹女の心持ちも落ち着き、再び俳句表現への飽くなき試行錯誤が始まることになる。
再 出 発
この時期からようやく鷹女は本来の自分に立ち返ることが出来たようである。戦争も終わり、夫剣三の病状も快方に向い、陽一も手元に戻り、人で背負い込んでいた家督の責任の重圧からようやく逃れることができた彼女は五十の声を聞こうとしていた。
鷹女の写真を見るとどの写真も正面からきっと写される相手をまっすぐに見つめている。その気の強さはいつまでも変わらないが、戦中、戦後の過酷な時代を潜り抜け、身体の衰弱からも老いと死を意識する日も多くなったのではないか。老いと孤独が鷹女の俳句の陰影を濃くし始めた。
鳥の名のわが名がわびし冬侘し
鵙昏れて女ひとりは生きがたし
いちじくや才色共に身にとほく
鵙騒ぐ鏡面しこ醜をあざやかに
吾子俳句から始まる『白骨』ではあるが、日記的に心情を叙述する句ばかりでは勿論ない。鷹女の多面体はこの句集でも遺憾なく発揮されている。鷹女の句を通して読むと、どの句にも鷹女の独特の個性が裏打ちされてはいるが、率直に感情を表した句。通俗的なまでに感傷がかった句。切れや取り合わせに冒険的飛躍を試みた句など。同時期作られたものでも句風は様々で、分裂的である。
俳人の多くは作句の中心を定めると自ずから句風は定まってくる。句集ごとにテーマやはっきりと方法論を展開しながら句集を編む俳人も多い。理論と句の制作が車の両輪のごとく展開してゆく俳人はその集大成として句集を編むことも多いので、句集に収められる句も意識的に選択される。自然諷詠の俳人の場合は処女句集から生涯に編む句集で句風がその都度変動することはあまりなく、年齢によってその濃淡が変わる程度であろうか。虚子に至っては、題名からして『五百五十句』『六百句』なのだから恐れ入る。
鷹女の場合は句集ごとに句風の変遷が追える俳人ではあるが、幾筋かの表現の流れが同時的に見られることにも特徴がある。鷹女は自己矛盾しかねない要素を気分として同時に抱え込むことの出来る俳人で、それが魅力ではあるのだが、破綻しないのが不思議である。一般的に結社の主宰に選をゆだねることの多い句集はその結社の作句のあり方や価値観からはみだした句、未完成のものは削られる。「鶏頭陣」以来、選をされることのなかった鷹女は全ての句集の句が自選であるので、基本的に彼女の「好み」が選に反映しており、そのあたりの事情から句の統一感に欠けるのかもしれない。『白骨』前半からこの時期の彼女の句を見てみよう。
昔雪夜のラムプのやうなちいさな恋
あきかぜに狐のお面被て出むや
天上はかみなりぐせやきりぎりす
千万年後の恋人へダリヤ剪る
月見草はらりと地球うらがへる
うちかけを被て冬の蛾は飛べませぬ
「雪夜のラムプのやうな恋」は感傷的でやや通俗的な感傷であろうが、鷹女が無防備にみせる抒情が美しい比喩のうちに素直に表されている。鷹女が厳しい自己規制からほろりと見せる素直なセンチメンタリズムは安易な抒情に溺れてはいず、透明感がある。
「あきかぜに」の句は新興俳句の高 篤三の句「しろきあききつねのおめんかぶれるこ」を髣髴とさせる。篤三の句はお面を被って遊ぶ子供の姿をひらがな書きで郷愁を織り交ぜて描き出しているが、鷹女の句は自分の素直な気持ちを隠して世を渡る自分を戯画化しているともに行き場のない寂しさを感じさせられる。
「天上」の句は鷹女が本来持っている言葉の斡旋の上手さが遺憾なく発揮されている。雷が鳴り止まぬ空の様子を「かみなりぐせ」と表現したところが奇抜だし、かぼそく鳴くきりぎりすとの取り合わせも効いている。従来の鷹女の機知を発揮した句であろう。
「千万後」「月見草」の句は後年の「羊歯地獄」への大胆な時空間の切り取り方へつながってゆく予感のする柄の大きな句である。
「うちかけを」の句はけばけばしい模様のある蛾の羽をうちかけと形容し寒さに弱り、羽を広げたまま飛び立つ力もなくじっとしている様を描き出している。口語口調のきっぱりとした断定が単なる見立てではなく飛べない蛾に老いた自分を投影してかつ、突き放す厳しさを同時に感じさせる。これら多様な方向性を持った句のほとんどは昭和二十三年代に作られている。表現は多様であるが、いずれの句にも一人の自分を見据える鷹女の眼が背後に光っている。戦中、戦後抑えていた自分の中から突き上げてくる表現への欲求を次々と俳句へ汲み上げていっている印象。その混沌とした状態の中からだんだん鷹女の基底にある「女」と否応なくせまりくる「老い」のせめぎあいが鷹女の心を深くとらえるようになる。
句 会 へ の 誘 い
緑陰にわれや一人の友もなく
結社にも属さず、師も持たない鷹女は孤独だった。俳句は座の文芸と呼ばれるぐらいであるから一人で作り続けるのは困難が伴う。二十年以上一筋に俳句を続けてきた鷹女にもそのくらいのことはわかっていただろう。当時の鷹女に尋ねたなら、「入りたい結社、つきたい師がいなかったのです。」と至極当然な言葉が返ってきそうな予感がする。
鷹女は俳句への厳しさにおいて妥協がなかったし、社交レベルでの付き合いには顔を出さなかった。鷹女が簡単に人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていたことが「孤高」「潔癖」の伝説を助長させているように思う。鷹女はむやみに気難しい人ではなかった。
鷹女に、まったく俳句に素人の日鉄鉱業の会社の職場句会の指導の誘いがかかったのは昭和二十二年ごろであった。鷹女自身が作成した年譜によると昭和十二年になっているが、彼女の思い違いのようだ。会社の発足が昭和十四年であること。句会が発足したのが戦後であることをこの句会に参加していたメンバーから確認した。この句会の指導と付き合いは長らく鷹女の生活の一部だった。鷹女のここでの在り方から今まで見えていなかった鷹女の別な側面が見えてくる。
(つづく)
【参考文献】
『三橋鷹女全集』立風書房
『市民が語る成田の歴史』成田氏叢書第二集
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