2008-11-23

鷹女への旅  第9回 三宅やよい

 鷹女への旅  第9回

 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし



 三宅やよい

初出『船団』第72号(2007年3月1日)



句 会 の 発 足

鷹女が昭和四十六年の「俳句研究」三橋鷹女特集号に寄せた自筆年譜によると、「ゆさはり句会」発足は昭和十二年になっているが、これは鷹女の思い違いだろう。成田でいただいた資料をもとにゆさはり句会に参加されていた方に直接電話でお話をお伺いしたが、句会の始まりは昭和二十三年ごろというお話であった。

当時、日鉄鉱業の社屋は東京都新宿区四ツ谷2の4にあり、俳句愛好家が十名程度集まって半月に一度句会を催していた。素人ばっかり集まってああだ、こうだやってもどうにもならないと、俳人に指導を頼もうという話になった。その中の一人が剣三と親戚筋であったため、同じ新宿牛込柳町に住んでいた鷹女のところへ句を持って行ったのが始まりだという。そのうち会社への定例句会へ夫婦で参加を、という話になって、鷹女と剣三、二人で出かけたようだ。

「ゆさはり」はぶらんこの意味。鷹女の冒頭の一句にちなんで名づけられたのでは、と思ったがそうではないらしい。鷹女を交えた定例句会が発足してまもなく席上でこの句会の名前が提案され、鷹女も即座に「いい名前ね」と同意したようだ。句会は月一回日鉄鉱業の会議室で行われた。

鷹女は句会には常に夫剣三とともに参加している。俳句を始めた頃から、そして俳人として完全に鷹女が剣三を追い越してしまってからもその関係は変わらない。当時のメンバーは十七人ぐらい。鷹女は時折参加者の句に手を加えることもあったようだが、「皆さん、ご一緒にやりましょう。私が教えるんじゃありません」と言っていたようだ。鷹女は互選の句会に積極的に参加し、サークルのメンバー達と旅行に行ったり歓談したりするのを楽しみにしていた。選評などを読むと俳句の厳しさはここでも貫かれているが、人を近づけない孤独の影は見受けられない。書くことにプライドは持っていても、奢りを持たない鷹女の人となりが伺える交流の仕方である。

寺内 句会は会員の方が作品を発表しあうのですか。
三村 ほかの句会というのを、私はほんとに知らないんですけれど、ここでは会員の方々が投句して、その中から鷹女先生やみんなも選句したんだという…。

羽磨 先生も選句されてね。
三村 一緒にやりましたね。
濱  我々も先生の句を一緒に選句したんです
三村 先生の句だからというのを知らないままに。
羽磨 ばらばらに書いて、みんなで回して、その中から選考するという形をとっていましたので。
寺内 皆さんの一句一句の俳句の講評は先生はおやりになっているんですか。
羽磨 一句一句というか、特に関心があったものについて、簡単な批評をされたですね。
三村 先生だからと別にしないで、みんなの句と一緒にして、先生もみんなも同じレベルで選考したということです。

鷹女の句をとると、「どうしてこの句をとりましたか」「本当にわかってとったの?」と厳しく聞かれることがあったらしい。俳句の選に責任を負う厳しさを自覚させるためだったのかもしれない。


句 会 で の 鷹 女

「句会のときにはとても厳しかったが、普段は温和で優しい先生だった」というのは、この「ゆさはり句会」の人たちに共通した意見のようだ。

戸田 後から入会してきた私にでも、随分インパクトは強いんですよね。鷹女先生という人が、俳句というよりも先生の生き方というのかしら。なんとなく優しい面と、それからいろいろ先生に「かわいがられる」という言葉がありますね。かわいがってくだっているんだ。そういう印象を受けたんですよね。  

「ゆさはり句会」の会員とのふれあいは孤高と呼ばれた鷹女にとってもやすらぎの場であったようだ。ゆさはり句会の会員が家に遊びに来れば気軽に家庭の話もし、寒ければ「うどんを食べていらっしゃいな」と声をかけ料理もふるまったようだ。自宅の庭で映した写真はちょうど薔薇の時期だったのだろう。息子陽一が仕事でアメリカに渡る前に植えていったという薔薇が美しく咲き誇っている写真が残っている。鷹女は会員達の真ん中で夫剣三と共ににこやかに笑っている。資料にはゆさはり句会で旅行に行った写真が何枚か残っているが、まだ幼さの残る若い女子社員と並んで写っている鷹女は声をあげて笑った直後のような明るい表情で映っている。ゆさはり句会の歓談の場にいる鷹女は、カメラを見据えるように身構えている鷹女ではない。

  某ホールにゆさはり句会会員らと友に一夜を四句

 夜やタンゴ氷のやうに火のやうに

 老いながら椿となつて踊りけり

 母子踊る粉雪の如く静寂に

 脚組んで極月の灯の高階に

昭和二十五年。ゆさはり句会のメンバー達と忘年会を楽しんだのだろうか。五十歳の鷹女は陽一とともに、ダンスを踊ったのだろう。「老いながら」の句の華やかさは中年から老年にさしかかる女が、若さや美しさへの未練を断ち切り、今宵ばかりはとくるくる踊っている気持ちの高揚があって印象深い句である。


ゆ さ は り 句 会 報

『白骨』に収められた鷹女の人口に膾炙した句はこの時期に集中的に作られている。「ゆさはり」と題されたガリ版刷り句会報を成田の図書館で閲覧させてもらうことができた。毎月の句会報とともに、エッセイ、季語解、評論などが掲載されている。五号しか残っていないが、昭和二十五年から二十六年のこの頃の鷹女の作品を検証するには興味深い資料である。句会の出席人数は十五人から十八人。夏には海の家に連泊で吟行もしている。鷹女はこの句会に提出した句を多く『白骨』に収録している。毎月の題詠から『白骨』の収められた句を抜き出し、どのような推敲がほどこされたか検討していみたいと思う。

  昭和二十六年 一月句会 兼題「雪」「手袋」

 一塊の穢となり佇てり雪の中

 冬天に父ありと思ふ一礼す
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 初空に父ありと思ふ一礼す

 母老いぬ枯木のごとく美しく

一月句会へ出句した五句のうち三句を「天の密書」と題した昭和二十六年の部に順に収録。二句目季語を「初空に」と添削したのは年代別収録句の最初を飾るのにふさわし句という意図とともに、冬の天より正月の明らかな空が自分をおおらかに包んでくれた敬愛する父にふさわしい、と思ったからだろう。「初空」と置いたことで新しい年を言祝ぐとともに句柄が大きくなったように感じられる。

  二月句会 兼題(梅・春の水)

 春水の底では知らず櫛投げて
 ↓
 春水のそこひは見えず櫛沈め (『羊歯地獄』収録)

春水、底、櫛という素材は同じであるが、句の形も句意もまったく違う形に変化している。最初の「底では知らず」というのは櫛を投げいれて底についた櫛のその後を知らない。と、春の水のもったりと温い感触と女の櫛の関係が着地点のなきままに放り出されている中途半端さがある。推敲句では、「知らず」が「見えず」になり、行為も「投げる」から「沈め」へと変わっている。作者の春水への凝視とともに櫛を沈めたために春水の色が変わって底が見えなくなったというように初案とは、櫛と春水の因果関係が逆転したようで興味深い。

  三月句会 兼題(燕、陽炎)

 つばくらや我が家ならねば逐はるべし

 墓石を抱きかかへて陽炎へり
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 墓石を抱きかかへてかぎろへり

「陽炎へり」がひらがな書きの「かぎろへり」へと変化している。陽炎の所在のない揺曳と重い墓石との対比にはひらがな書きの「かげろふ」が似つかわしいと判断したのだろう。

この句会録と『白骨』の収録句を照合していて気付いたことだが、『白骨』には三月句会の題詠句として提出した「つばくらや我が家ならねば逐はるべし」のすぐ隣にかの有名な「燕来て夫の句下手知れわたる」の句が並べられている。この日の題「燕・陽炎」への剣三の提出句は次の二句。

 初燕鏡裡蓬髪刈られをり

 陽炎を見てゐて奇蹟あらはれず

このうち「陽炎」の句は昭和24年、鷹女が「俳句研究」十月号に発表した句「花茗荷奇蹟は遂に現はれず」のもじりとも思えない句なのだから、物真似のきらいな鷹女をすっかり怒らしてしまったことも考えられる。句会の各人に俳句を方法や、詠む内容を指導はしなかったが、推敲を重ねること。物をよく見つめること。人の真似ではいけないとそれだけは厳しく言っていた。「人まねをするというのじゃなくて、知らず知らずのうちに使っても、同じ言い回しに気付いた時点で捨てる。そのくらい厳しく自分を律しなさい。」と。鷹女は常々言っていたそうである。

三村 私、大変いい言葉があったと思って先生のところへ持っていった句で「神の御意」という言葉を、私使っていったら「これは何とかさんが使っていたからこの句はもう捨てなさい。決して同じものをしてはいけない」と言われましたよ。

一緒に先生と呼ばれている剣三が自分の句を模倣するとは。一番身近にいる夫が自分の発表句を知らないはずはない。初めて一年にもならない若い男女に混じって句を出す鷹女である。技術的な俳句の上手下手を云々することはなかったろうが、人の真似までして俳句の外見を整えることには辛辣だった。「燕来て夫の句下手知れわたる」夫への意趣返しとも言えるぴしりとした厳しさ。それと同時に自分に俳句の楽しさを教えてくれ、俳句で競い合った剣三がいまや自分の言葉を模倣するまで精神的に老いてしまったことに言いようのない寂しさを感じたのかもしれない。

  四月句会 兼題(菜の花・風船)

 天が下に風船売りとなりにけり

 天曇る日は風船は悲しめり

最初の句については折笠美秋が「(これには)心底びっくりであった。たかが女、現代版千代女に、私以上にこの句が詠めるわけがない─そう信ずることで、私は横倒しになるのを防いだ。」と、早稲田俳句研究部の部室でこの句と初めて出会ったときの衝撃を書き留めている。高柳重信もこの句を「昔ながらの鷹女の機知が、次第に深まりを見せながら正確に捉えた不思議な寂しさである」と評価している。

「俳句評論」の切れ者たちがそろって評価するこの句が兼題から作られたこと。それも俳壇とはまったく無縁の会社の一サークルの集まりで作られたことに私は嬉しささえ覚えるのだ。同時期に「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の句も作られている。「ゆさはり」がぶらんこ・鞦韆と同じ意味であるのを思うと、この集まりがこの句の発想の何らかの土台になっているとも考えられる。再度、月例句会の例に立ち戻ろう。

  七月句会 兼題(行水・天道虫)

 てんたうむし天の密書を翅裏に
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 天道虫天の密書を翅裏に

天道虫の「天」の字の重なりが気になって最初は平仮名書きにしていたのか。句集に収録するときには天と天道虫の字面がいかにも虚空の密書を携えてくるのにふさわしいと感じて漢字を選択したのではなかろうか。この句は前述した通り昭和二十六年の句群を集めた部立の表題にもなっており、鷹女にとってこの年の句を集約する大切な句であったと考えられる。

このほか句会報にあり、『白骨』に収録した句の推敲例では次のようなものがある。

 行水を了ふる月界までの距離
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 行水を終ふる月界までの距離

 西方の蛙に鳴かれ字を習ふ
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 西方の蛙が嗤ふ字を習ふ

気になるのは、句会報の最後十一月の兼題「落葉」。

 落葉して胴体四肢を失へり

という句があるのだが、これが『白骨』表題句にもなった

 白骨の手足が戦ぐ落葉季

の発想の下敷きになっているように感じられる。

句会録を見ると出席人数は十五人から十八人。「鶏頭陣」を離れて十数年ぶりに囲む句座は鷹女にとって暖かい刺激になっただろう。この交友は長らく続く。この時期の鷹女は一人ではなかった。



(つづく)


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