2008-11-02

〔週俳10月の俳句を読む〕岡村知昭 ときどき生活、ときどき幻

〔週俳10月の俳句を読む〕
岡村知昭
ときどき生活、ときどき幻


ここ最近いろいろな方からあなたは気が多い、注意力散漫と言われてしまった私なのですが、よくよく考えてみると日々の生活の中でいつもいつも同じことをずっと考え続けているわけではないだろうと、まあ言い訳がましい考えでありますが思ったりします。

仕事のさなかに仕事終わりにどこに寄ろうかと頭をめぐらし、昼御飯を食べながらテレビに映ったニュースに瞬間的に反応し、職場で人と語らいながら全く会ったことのない人物に思いをめぐらす、そんなような毎日の繰り返しで成り立っているのこの世界で、でもときどきは日頃は目にも止まらないものが飛び込んできたり、自分では思いもつかない幻が見えてきたりするのは、ひょっとするとこの世界で生きる醍醐味だったりするのでしょうか。

  鰯雲ナッツは放り投げて食ふ    福田若之

ナッツはきっとピーナッツ、いやアーモンドでしょうか。すこし上に放り投げてナッツを口に入れる余りお行儀のよろしくない、しかし絵になる食べ方を試しているうちに、目に飛び込んできたのはどこまでも続く鰯雲。この頃余り空を見上げていなかったなあと急にしみじみしてしまったりして、小さなエアポケットにきれいに嵌ったみたいです。でもナッツを思い切り飲み込んでしまって咽喉に詰まらないよう、どうか気をつけて。

  たましひを求めしからだ葡萄食ふ  越智友亮

こちらは葡萄を食べていますが、理由は案外切実なものがあるようです、なにせ「たましひ」をからだが求めているのですから、と思いましたが実のところ切実なものではないのかもしれません。

葡萄を手をとめることなく食べながら、いま自分のからだには何かもっと大事なものが欠けているのではとの思いに駆られています。そう、この人もいつもは通り過ぎていくばかりの想念の姿にふと気がついてしまったのです。

だから葡萄を食べ終わったら、そんなこと思っていたかしらとばかりに生活のなかに素直に戻っていきそうな、そんな気がしてきてなりませんでした。

  豊年や鳥のはばたく切手貼る    加藤光彦

手紙に貼る切手の絵柄、意外と見ていないものだなあとこの一句を読んですぐに思ったものでした。この人は鳥の羽ばたきをモチーフにした切手を手紙に貼って、誰かに送ろうとしているところです。今年は豊年満作、周りの人々は全身で収穫の喜びを表しています。

だとすると鳥の切手の捉え方はふたつありそうで、ひとつは手紙を送る見知らぬ誰かにこの喜びを伝えたいとの願い、もうひとつは自分はいつかこの豊年の世界から旅立ちたいとの願望。切手の鳥は大きな羽ばたきとともに、この人のなかにひしめきあうさまざまな感情を運んでいくのかもしれません。

 晴れ晴れと艦橋の立つ雁渡し    三村凌霄 

艦橋と出てくると、やはり軍艦のイメージが浮かんできます。晴れ晴れとした空のもと、正々堂々と現れた軍艦の上には、各部署にきちんと配置された白い制服姿の兵士たちが緊張した眼差しで敬礼を行なっている、そんな雰囲気です。もちろん多くの軍艦は海に沈み、生き残ったものの解体されたと聞きます、だからこれは幻の一隻、この後ろには幻の艦隊が控えているのでしょう。その艦隊にいるのはすでにこの世のものではない人々、戦で命を失った人に限りません、自らの命とつながりを持つすべての人々の姿かもしれないのです。きっとめったにしない敬礼をもって、彼らを見送ったことでありましょう。

   小戎 せうじゅう
 まだ会へぬ蛇腹の君子を念ふ秋   高山れおな

いまだ会えない「蛇腹の君子」、彼はいったいなにものなのでしょうか。国を富ませ、力を天下に示し、さらなる繁栄に導く名君か、それともあらゆる欲に身を委ね、命を根こそぎ奪い取り、悪虐の限りを尽くして国を傾かせる暴君か。どちらにしてもこの人が彼にもし出会ったとしたら、そのときから世界の形勢は大きく変わることになるのでしょう。

その時をいまや遅しと待ちわびながら迎えるこの秋の冷たさが、どうにも身に沁みてならない今日この頃のようです。名君か暴君かはどちらでもかまわない、自分の中のどうにもならない想念をどうにかしてくれるだろう存在をひたすらに求める姿は、日々の暮らしの中に埋没する自分自身へ向けられた刃なのかもしれません。


高山れおな 共に憐れむ 詩経「秦風」によせて 10句 →読む 越智友亮 たましひ 10句   →読む 馬場龍吉 いざ鎌倉 10句  →読む 福田若之 海鳴 8句 →読む 加藤光彦 鳥の切手 8句 →読む 三村凌霄 艦橋 8句 →読む 小野あらら カレーの膜 8句 →読む 鳥居真里子 月の義足 10句 →読む

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