〔週俳11月の俳句を読む〕
中田 八十八
真実をつかまえろ
こすもすをはなるるゆらぐことありて 中山宙虫
風にコスモスが揺れている。いや、揺れているのは自分か。「動く」というのは相対評価でしかないから、確かなのは何かがゆらいでいるということだけだ。コスモスはゆらいで「位置」を失う。観測している自分がそこを離れればコスモスは「姿」も失う。その淡い色と「ゆらぐ」という性質だけが抽出されて、私の心の中でコスモスはいよいよコスモスらしくなる。
美しき嘘狐火を見しことも 八田木枯
狐火を物理現象として解明しようということも世間では行なわれているようで、それはそれで面白い。しかし「狐火」という言葉がさすものは、そのような物理現象としてよりも、「幻想」や「嘘」の中にこそ存在するといえよう。狐火という嘘。それを見たという嘘。その嘘が美しいという真実。誰が誰についた嘘なのか分からないが、ここには確かに真実が、歴然と存在している。
放蕩の末に海鼠となったのか 斉田 仁
海鼠になるほどであるから、よほどの放蕩をしたのであろう。手も足も失って潮に身をまかせる海鼠の姿は情けなくもあり、滑稽でもある。
海鼠は作者の自画像とも言えよう。自分というのはどこにあるのか。それは恐らく、その人が何を見ているか、どう受け取るか、すなわち、その人がどういう世界に生きているのか、そこにあるのだと思う。作者が海鼠に見たものは自分の情けない部分か。それに対して作者は、真摯に向き合っているようにも見えるし、ある種の諦めをもって眺めているようにも見える。
煮崩れるじやがいも雨音はほんもの 谷さやん
じゃがいもがことこと煮えている。気づくと、鍋の音に紛れて静かな雨音が聴こえていた。徐々に輪郭を失い、空気中へ溶けていきそうな意識の中に、雨音だけが確実なものとして響いている。
煮崩れるじゃがいもは、一体いつまでじゃがいもなのだろう。完全にとけてしまったら、それはもうじゃがいもではない。そもそも、じゃがいもなどというものが存在するのか。言葉は決して、それが指し示す対象そのものではない。皿も、パソコンも、花も、空も、雲も、言葉とは関係なくそこに存在している。従って、そのような言葉から紡ぎ出されたあらゆる説明は、必然的に嘘を含んでいる。そこには多少の真実が含まれているかもしれないが、おそらく多くの真実は見えなくなっているのであろう。
改めてじゃがいもの鍋を見れば、言葉は意味を失い、ただただそこに世界がある。その世界で雨音が、ひとつの真実の証として静かに肥大していくようだ。
2008-12-14
〔週俳11月の俳句を読む〕中田 八十八
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