2008-12-07

〔週俳11月の俳句を読む〕さいばら天気 インデアンの教え

〔週俳11月の俳句を読む〕
さいばら天気
インデアンの教え


夏服の医大方面明るい夜景   小野裕三

魅力的な韻律をもったこの句、「医大方面」という名詞で切れるという従来的な約束に添った読みよりも、あえて「夏服の」のあとの軽い切れを感じながら、全体=上五・中七・下七の柔らかな連結を愉しみたい。詩的な感触を活かしたアプローチに、すでに私たちは慣れ親しみ、違和感のない俳句的悦楽のひとつとして受け止めることができる。

つまり、俳句の多様なスタイルは、ひとつひとつがモードであった時期を過ぎ、「こんなのも、あんなのも、どれもおもしろい」的に、愉快に、俳句のあれこれに接することができるようになったのだ。

さて、「服」と「夜」というこの句の「部品」からのみ思いの到る別の句がある。

  クーラーのきいて夜空のやうな服   飯田晴 (『雲』2008年10月号)

冒頭の掲句とこの句とに、部品の上で、という以外にあまり共通点はない。けれども、いずれも、従来的な俳句のアプローチとは別のところから、俳句の宜しさを伝えてくれる。どちらの句にも「詩」の成分は多量かもしれないが、その摂取法は異なる。

詩やその他の文芸形式のある一点、その前後をすぽんと取り去ったものが、俳句、なんてことは言わないが、一歩前も一歩後ろも空白のみが在るかのような、崖のてっぺんに、根拠や意味を持たずに、なおかつそれを重大には受け止めず、のんきに存在しうる一句というものの価値(=愉快さ)は格別だ。

モノと言葉のあいだの宙ぶらりんな場所で、2句ともに奥行きをもたず、軽やかに表面的である。含意(コノテ-ション)を引きずってもいない。ただ書かれてあることが書かれているに過ぎない。

奥行きや含意にまみれた、鈍重に〈文学〉的な俳句が多数、また、それ以上の数で、くたくたの叙情にまみれた〈共感〉俳句が多数排出されるなか、このように悦ばしく表面的な句もたしかに存在するのだ。

 

血統のかなしさのあり馬肥ゆる   長嶺千晶

諧謔味。筆致・口調としては凛として叙情的なぶん、諧謔味が激増する。どんな優秀なサラブレットも秋になれば肥えるのかもしれないが、やはりここは駄馬。

「あり」で切れて「血統」を一般に敷衍して読むような「むりくり」に俳句的な読みは、不要である。血統と来て、馬とあれば、「肥えてしまうかなしさ」を馬に見るべき。それが可笑しい。

 

秋風や歩いて埋まる人類史   中山宙虫

アフリカに誕生した人類は500万年の旅の末、地球全土に広がったそうだ。たしかに、歩いて歩いて、歩いたその結果が人類史だ。この茫洋とした事実を、秋風という語が絶妙に、俳句へと仕立てあげた。

 

雀瓜烏瓜よりさはがしき   八田木枯

「さわがしい」という言葉にはいろいろなニュアンスがある。雀瓜と烏瓜における騒がしさの比較。これは植物学の分野ではなく、音楽や小説、詩の分野でもなく、だんぜん、俳句分野に属する思考だ。

スズメウリ ≫参考   カラスウリ ≫参考

どちらが騒がしいのか。今も私には判然としないが、雀瓜のほうが、とおっしゃるのだから、そうなのだろう。「老獪の白い芒」に、ここはひとつ、すっかり騙されてみるのがオツ、という10句。

 

平原の水あるところ窪みかな   寺澤一雄

インデアン(ネイティブ・アメリカン)の教えのような一句。つねづね、俳句は、野生の思考(pansee sauvage)と深く繋がるものではないかと考えている。この句を見て、やはり繋がる、と思った。

正しいことを言い、実用に役立つことを言い、この2つ、俳句がもっとも失敗に陥りやすい2つのことを言っておきながら、俳句としてみごとに成功をおさめる。この大逆転・大事業を、この作者、なんだか、ふわっと簡単そうに実現してしまう。

真空型・脱力系俳句
として極上の一句



小野裕三 医大方面 10句 ≫読む
長嶺千晶 大きな月 10句 ≫読む
中山宙虫  ゆらぎ 10句  ≫読む
八田木枯 夜の底ひに 10句  読む
寺澤一雄 行 雁 アメリカ雑詠 10句  読む
中西夕紀 夢 10句  ≫読む
冨田拓也 冬の貌 10句  ≫読む
谷さやん 献 花 10句  ≫読む
斉田 仁 なんだかんだ 10句  ≫読む
大石雄鬼 狐来る 10句  ≫読む

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