〔週俳11月の俳句を読む〕
さいばら天気
インデアンの教え
夏服の医大方面明るい夜景 小野裕三
魅力的な韻律をもったこの句、「医大方面」という名詞で切れるという従来的な約束に添った読みよりも、あえて「夏服の」のあとの軽い切れを感じながら、全体=上五・中七・下七の柔らかな連結を愉しみたい。詩的な感触を活かしたアプローチに、すでに私たちは慣れ親しみ、違和感のない俳句的悦楽のひとつとして受け止めることができる。
つまり、俳句の多様なスタイルは、ひとつひとつがモードであった時期を過ぎ、「こんなのも、あんなのも、どれもおもしろい」的に、愉快に、俳句のあれこれに接することができるようになったのだ。
さて、「服」と「夜」というこの句の「部品」からのみ思いの到る別の句がある。
クーラーのきいて夜空のやうな服 飯田晴 (『雲』2008年10月号)
冒頭の掲句とこの句とに、部品の上で、という以外にあまり共通点はない。けれども、いずれも、従来的な俳句のアプローチとは別のところから、俳句の宜しさを伝えてくれる。どちらの句にも「詩」の成分は多量かもしれないが、その摂取法は異なる。
詩やその他の文芸形式のある一点、その前後をすぽんと取り去ったものが、俳句、なんてことは言わないが、一歩前も一歩後ろも空白のみが在るかのような、崖のてっぺんに、根拠や意味を持たずに、なおかつそれを重大には受け止めず、のんきに存在しうる一句というものの価値(=愉快さ)は格別だ。
モノと言葉のあいだの宙ぶらりんな場所で、2句ともに奥行きをもたず、軽やかに表面的である。含意(コノテ-ション)を引きずってもいない。ただ書かれてあることが書かれているに過ぎない。
奥行きや含意にまみれた、鈍重に〈文学〉的な俳句が多数、また、それ以上の数で、くたくたの叙情にまみれた〈共感〉俳句が多数排出されるなか、このように悦ばしく表面的な句もたしかに存在するのだ。
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血統のかなしさのあり馬肥ゆる 長嶺千晶
諧謔味。筆致・口調としては凛として叙情的なぶん、諧謔味が激増する。どんな優秀なサラブレットも秋になれば肥えるのかもしれないが、やはりここは駄馬。
「あり」で切れて「血統」を一般に敷衍して読むような「むりくり」に俳句的な読みは、不要である。血統と来て、馬とあれば、「肥えてしまうかなしさ」を馬に見るべき。それが可笑しい。
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秋風や歩いて埋まる人類史 中山宙虫
アフリカに誕生した人類は500万年の旅の末、地球全土に広がったそうだ。たしかに、歩いて歩いて、歩いたその結果が人類史だ。この茫洋とした事実を、秋風という語が絶妙に、俳句へと仕立てあげた。
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雀瓜烏瓜よりさはがしき 八田木枯
「さわがしい」という言葉にはいろいろなニュアンスがある。雀瓜と烏瓜における騒がしさの比較。これは植物学の分野ではなく、音楽や小説、詩の分野でもなく、だんぜん、俳句分野に属する思考だ。
スズメウリ ≫参考 カラスウリ ≫参考
どちらが騒がしいのか。今も私には判然としないが、雀瓜のほうが、とおっしゃるのだから、そうなのだろう。「老獪の白い芒」に、ここはひとつ、すっかり騙されてみるのがオツ、という10句。
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平原の水あるところ窪みかな 寺澤一雄
インデアン(ネイティブ・アメリカン)の教えのような一句。つねづね、俳句は、野生の思考(pansee sauvage)と深く繋がるものではないかと考えている。この句を見て、やはり繋がる、と思った。
正しいことを言い、実用に役立つことを言い、この2つ、俳句がもっとも失敗に陥りやすい2つのことを言っておきながら、俳句としてみごとに成功をおさめる。この大逆転・大事業を、この作者、なんだか、ふわっと簡単そうに実現してしまう。
真空型・脱力系俳句として極上の一句。
■小野裕三 医大方面 10句 ≫読む
■長嶺千晶 大きな月 10句 ≫読む
■中山宙虫 ゆらぎ 10句 ≫読む
■八田木枯 夜の底ひに 10句 ≫読む
■寺澤一雄 行 雁 アメリカ雑詠 10句 ≫読む
■中西夕紀 夢 10句 ≫読む
■冨田拓也 冬の貌 10句 ≫読む
■谷さやん 献 花 10句 ≫読む
■斉田 仁 なんだかんだ 10句 ≫読む
■大石雄鬼 狐来る 10句 ≫読む
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2008-12-07
〔週俳11月の俳句を読む〕さいばら天気 インデアンの教え
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