2008-12-21

スズキさん 第17回 あんドーナツ 中嶋憲武

スズキさん
第17回 あんドーナツ

中嶋憲武



「吉展ちゃん事件」のあった公園の銀杏は、まぶしいくらい黄葉している。今年は寒いせいか、銀杏が黄色く色づくのが早いような気がする。助手席から窓の外の、冬の陽光が斜めに差す町を眺めつつ、スズキさんと配達に行く途中の俺。

朝、すこし時雨れていたせいか、葉が洗われてことさらまぶしく見える。その時雨のなか俺は鶯谷駅を降りると、いつものコーヒーショップへ立ち寄るのを、はたと思いとどまり、通勤の道とはすこし遠回りになるが、出勤の前に、昨夜の通夜に出席した寺へ寄っていこうという気になったのだった。

友人が死んだ。木曜日に倒れて土曜日の夕方逝去という流星のような死。53歳。早すぎるという思いは、彼を知る誰の胸にもある。やりたい事をやり、ふたりの妻に看取られて、彼は幸せ者だったのだろう。俺はそう思うことにしたが、喪失感は否応も無く存在を大きくしていく。

寺の階段を上がると、祭壇のある部屋があり、扉を押すと容易に開いたので、なかへ入る。彼の棺へ近づき、線香を、と思い、14、5本も立てる。線香の十四五本もありぬべし、と反射的に頭に浮かび、こんな時に不謹慎な、と思いつつ合掌する。

昨夜、お清めとして飲み食いした仏間の方を覗いてみると、彼の細君が蒲団をすっぽり被って寝ていた。木曜日から、あまり寝ていないのだろう。

棺へ戻り、小窓から彼の顔を見る。すこし笑って寝ているような、おだやかな顔。その顔をじっと見ていると、祭壇の左手にある扉が開いて、ご住職の母上と思われる女性が顔を出したので、俺は挨拶をし、名前を名乗った。急なことで、と言い、二人で棺を見守っていたが、それでは、とその場を辞した。その時、傘を置き忘れて行ってしまったのだ。

配達の出がけにスズキさんに、傘を忘れて来てしまったことを告げ、すみませんが寄ってもらえませんかと言うと、二つ返事でOKしてくれた。今日の行き先とは逆方向になるのに、だ。それで俺は傘を置き忘れた経緯と、亡くなったのが俳句仲間であること、奥さんは二十歳年少で初婚であること、友人にとっての再婚生活が半年だったこと、その再婚のお宅へ2、3回泊まったことがあること、友人と善福寺川や青梅街道を歩いたことなどを話した。根岸通りへ入り、いつも配達している、得意先の倉庫の手前の路地を入ったところがその寺であるので、その路地が近づいたときに俺は、
「そこの路地入ってったところですんで、その辺で」と言うと、
「そこは、一方通行の出口だから反対側まで廻ってあげるよ。時間もあるし」とスズキさんは言った。

そこでぐるりと迂回しその道の反対側の、せんべい屋の分かれ道を右に入って行った。
「あそこの蜜柑の生っているとこっす」と俺が言うと、ああ、あそこねとスズキさんは鷹揚に頷き、ゆっくりと車を停車させた。
「悪友のみな喪服着て冬銀河」スズキさんは声に出して読んだ。掲示板に住職の筆で柔らかく認められた俳句が掲げられていたのだ。
「なるほどね。俳句仲間を悪友に見立てたわけか。冬銀河を渡ってっちゃったんだね」
「悪友と冬銀河がいい味なんすよ」と、俺は言って車を降り、階段を駆け上がった。

傘は元の場所に、元の通りにあった。隣室から、なにやら告別式の打ち合わせをしてでもいるかのような会話がひっそり聞こえている。俺は傘を持ち、そっと外に出た。階段を駆け下り、「ありました」と言って、助手席に座る。

得意先に向かう道すがら、車内でスズキさんは、早すぎるねえ、かわいそうだねえ、奥さんは大変だねえ、でも若いから大丈夫かねえと繰り返していた。

仲見世のいつも行く得意先の倉庫へ、品物を納め、仲見世の裏の路地をのろのろと徐行していると、向こうからひとりのお年寄りが、ひょこひょこと歩いてきた。スズキさんは、窓を開けて顔を出し、そのお年寄りへ向かって、
「おじさん、おじさん、チャック」と言った。そのお年寄りは、前屈みになって、ズボンの前のジッパーを引き上げる仕草をした。
「空いてたんすか」と俺が尋ねると、スズキさんは、
「なかのものが、飛び出してなくてよかったよ」と言った。

路地をゆるゆる走らせ、浅草寺の山門に突き当たるところを右に折れると、甘味屋が並んでいて、そのうちの一軒は何が名物なのか、いつも行列が出来ている。路地は更に狭くなっているのに、人だかりがあって剣呑である。スズキさんは、窓から顔を出し、「すみません。通ります。すみません」と言いつつ、俺も左側の窓を細く開け、「すみません。すみません」と言いつつ走る。行列のなかに小学生の兄弟があって、2年生くらいの弟が、6年生くらいの兄の尻を回し蹴りした。兄はへらへらしているが、弟は怒気に染まって真っ赤である。スズキさんは、窓から顔を出して、「おっ、すごいなあ。元気がいいのはいいけど、危ないよ。兄弟仲良くね」と、その弟へ向かって言った。

すこしのろのろ進むと、高校生がひとりひょろりと立っていて、その高校生は我々に背を向けて立つ格好だった。傍に並んでいた友人らしきもうひとりの高校生が、「ナオト、車」と声をかけると、ナオトと呼ばれた高校生は、緩慢な動作で端へ寄った。スズキさんは、窓から顔を出して、「ナオトくん、ごめんね」と言いながら、ゆるゆる走った。

人だかりを抜けてから、
「はは、研ナオトか」とスズキさんは言っておかしそうに笑った。研ナオトに合点のゆかぬ思いでいると、
「あ、研ナオコだったか」とスズキさんは何でも無いことのように言った。

大通りへ出て、隣に2階立てバスがしばらく並走し、最後尾の非常口のデッキに初老の男性が、祭と書かれた法被を引っ掛けて立っていた。スズキさんは、その男性へ「おっ、いいねえ」とにこにこしながら言った。法被の男性もにこにこしていた。通り去ってから、「知り合いですか」と尋ねると、「いや、知らないひと」と答えた。

帰りの道と、違う方向へ行くのでもう一軒どこか配達か納品でもあったのかと思っていると、「ちょっと、あんドーナツを買っていくから」と、スズキさん。
「美味しいんだよ、その店の」と言うので、俺は酒が嫌いな甘党であるので、
「本当っすか」とひと膝乗り出す気分で聴くと、
「食べてみる?ここいらあたりじゃ、一番じゃないかな。つぶ餡とこし餡とどっちがいい?」
「つぶ餡っすかね」
「つぶ餡か。ぼくはこし餡がいいね。ま、だいたいこし餡かな」
「いや、つぶ餡がいいっすよ。だいたいつぶ餡っすかね」
「へえ。人によって、この好みはさまざまだねえ」
「おはぎはこし餡がいいっすけど」と、俺が言うと、
「ぼくは、おはぎはつぶ餡だ。逆だねえ」
「面白いっすね」
「面白いね」と、話しているうちに、そのベーカリーに着いた。あんドーナツは、ベーカリーの人気商品で、すぐに売り切れてしまうらしい。言問通りから千束通りへ入ってひとつめの信号を左に折れて、しばらく行ったあたりだ。

スズキさんが、あんドーナツを買っている間、カーラジオで、スリー・ドッグ・ナイトの「喜びの世界」がかかった。ジェレマイヤは牛蛙に似てるけどとっても良い友人と歌いだし、この不思議なバンド名は、「寒い夜は犬と一緒に寝て暖まり、もっと寒い夜は2匹の犬と寝て暖まり、さらに冷えて身も凍る夜は3匹の犬が必要だ」というオーストラリアの古い言い伝えに由来しているということをどこかで読んだけど、どこだったかと考えているうち、スズキさんが、あんドーナツを抱えて戻って来た。

つぶ餡のあんドーナツを、つまむ。なるほど美味だ。餡もドーナツもかなりの代物だ。こいつをひとつ仏前に、と目論んだ。





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