連載第2回
商店街放浪記 02 阿佐ヶ谷Ⅱ スターロード商店街
小池康生
前回、<続く>という言葉で終わったので、前号までのあらすじから始めたいところだが、残念ながらそういうものはなく、これからもない。
阿佐ヶ谷のパール商店街で、谷川俊太郎とすれ違ったのだ。
それでもって、東京を感じたのだ。
四十歳を幾つか過ぎ、大阪から東京にやってきた直後のことだ。
読者諸兄よ、愛する商店街を思いだしていただきたい。
即座に、その頃の生活が思い出されるはずだ。商店街は、<当時の自分>とセットで存在するのだ。
さて、阿佐ヶ谷。
今回は、北口を抜けての阿佐谷北口駅前スターロード商店会。
知る人ぞ知る大人の商店街である。
くたびれた感じを漂わせながら、どっこい、かなりの実力をもっている。
昼間は、死んだふりをしている。
いや、寝たふりか。いや、寝ているのだ。
とはいえ、鶏肉の小売をするお店が、何気に商店街の臍のようにあり、うねうねと北西に進み住宅街に近づいていくと、お店の途切れるあたりに名曲喫茶『ヴィオロン』がある。
珈琲、紅茶が350円。何時間居ても文句を言われない。それどころか、一旦店を出て、また戻っても最初のオーダーだけでいいというのだ。食事を持ち込んでもいいとまでおっしゃる。
じっくり音楽を聴いて欲しいからとマスターは言う。ご自身が、昔、中野駅の名曲喫茶でそんな風に終日音楽を聴かせてもらったので、そうしているのだと言う。商売気がないというかなんというか。
薄暗い店内は本を読みにくいのが難だが、音楽を聴くにはこの照明の方がいい。わたしは、通りに面した出窓の席を陣取り、頁にあかりを取り込んでいた。
ここのオーナーのこだわりは半端ではなく、1920年代、1930年代、近代、それぞれのレコードを当時の人が聴いたのと同じ状態で聴いてもらいたいと、 各時代のレコードに合う再生装置を研究し、複数のアンプを使うのだ。
地味な商店街の先っぽにこんなお店を持つところが、東京の底ヂカラである。
ちなみに、隣接したタイ料理屋『ピッキーヌ』も同じオーナーのお店で、『カウソイ』(タイの汁そば)や『トムヤンクン麺』『カレー』等をワンコインで食べさせる。しかも麺とカレー両方を頼むと800円なのだから、食べ盛りにもお勧めしたい。なんだかグルメガイドみたいだけれど。
それはそれとして、商店街全体を見渡すと、昼間は死んでいるのである。
ところが、夜になると一変する。
劇的に一変する。
電車がなくなっても商店街全体が活き活きしている。若者より中高年が多いのも痛快である。
夜中の1時に他の商店街の真昼のように元気なのである。
人間も商店街も、ぴちぴち、ぷちぷちしている。
おっさんやおばさんが笑い、騒いでいる。
新宿が不夜城なのは誰でも知っているが、そこから西に生活感のある不夜城が延びていた。
誰だ。中央線を<脱力系>などと形容したのは。
昼間はそうだが、酒が入ると違う。
それに一軒一軒の店が、ひとりひとりのオーナーの匂いを漂わせる。
駅前にチェーン展開する店ではこうはいかない。
今や、駅前の商店街のおいしい場所は、大手の飲食店が陣取り、どこの駅も同じ顔になり下がっている。
阿佐ヶ谷も、ご他聞に漏れないが、スターロード商店街は、異彩を放つ。
ホットビールを飲ませる店、ワインをショットで飲ませる店、演劇関係者の集まる店、フォークのライヴをやっている店、上品な母子が朝の8時までやっているお店、べニヤ板のような戸口がまるで鳥の巣のようにデコレーションされ、それに似合わず『会員制』とある、“片方の手首をひっくり返し、片頬に当てる係”のお店などなど、子供はこなくていい領域なのだ。
なんとも喜ばしい商店街である。
さて、今回二度目の“さて”であるが、ここからが本題である。
少し長い話になりそうである。
俳句ばかりやっているので、自分でも長い話には疲れる。
ここに住んで何年目かに、フォークシンガー友部正人が、かつて、この街に住み、スターロード商店街に出没していたらしいと知ったのだ。
谷川俊太郎、寺山修司ときて、友部正人の消息をこの町で聞いたとき、なんだかとても不思議な感じになった。十代から二十代中盤のわたしにとって憧れの人物ばかりなのだから。
高校時代―――――、
僕たちは、“驚かしあい”、“おどかしっこ”、うーん、どちらも変な日本語だ。当時、どんな言葉を使っていたかよく思い出せないが、そんなことをしていたのだ。原点は、庄司薫の小説かエッセイだった。そこに、そういう言葉があったのだ。
僕たちは、クラスメートの矢内君と高木君の三人で、“驚かしあい(やはりこんな日本語おかしい)”、“おどかしっこ”をしていた。
例えば、矢内君がある朝、突然、
「安部公房の“箱男”、読んだか?」
などとのたまい、新潮の箱入り本を鞄から取り出すのである。
その場は、曖昧に逃れ、学校を出てから調べる。
戯曲か。戯曲ってなんや?芝居の台本か?安部公房って誰や?小説も書くんか。それが“おどろかしっこ”。
16歳の僕たちは、フォークシンガーや作家や映画監督を発見し、
「日活の田中登って監督、知ってるか?『色情メス市場』、タイトルはあまりにあまりやけど、中身は凄い。芹明香って女優も凄い。絶対でてくるぞ、この監督」
と奇襲攻撃をかけあっていた。
矢内君というのは、一歳年上。高木君や僕が入学した年、工業高校建築科で二度目の高校一年生をやっていた。
なぜ留年したのか。出席日数が足りなかったのだ。
高校で留年はなかなかできない。
病気の長期欠席ではない。
朝起きる、家を出る。空を見る。晴れている。そこで矢内君は思う。
『ええ天気やなあ。学校行くの、もったいないなぁ』
そして、京都に行ってしまう。彼は大阪に住み、大阪の今宮工業高校建築科に通っているのだが。
一年の内、天気のいい日がたくさんあるので、彼は何度も京都に行き、二年続けて高校一年生を経験することになる。そして、1歳年下の僕たちとクラスメートになった。
もうひとりの高木君はというと、バレーボール部のキャプテンになる健康的な男なのだが、のちのち、二十代半ばで、ピンク映画の脚本家としてデビューし、その時の相棒が、今、映画『おくりびと』で話題の滝田洋二郎監督。高木・滝田のコンビは『痴漢電車シリーズ』でピンク映画にコメディのエッセンスを盛り込み、日本映画界でも名前も知られるようになっていく。その後、高木功は小説を書き、オール読物新人賞を獲ることにもなる。
僕らの高校時代に刺激を与えたのは、出席日数の足りない矢内君だった。
彼は日本のフォーク、ロック、洋物のフォーク、ロック。小説、詩、演劇など守備範囲が広く、三人の“おどろかしっこ”(書いていてこの表現、とてもおかしいが、正しい表現が浮かばない)の中心人物だった。
矢内君は、運動神経が悪く、ルックスは老けすぎていて、教室で授業中にお漏らしをしそうになるなど、みんなに笑いを提供することが多い人物なのだが、文化的には先端を行き、歌声が抜群に美しかった。
学校の成績は、うしろからベスト3を堅持し(わたしもだが)、それでも、クラスの優等生の無知を軽蔑し、文化的には飛びぬけていた。でも、わたしたちは、「ヤナイ」と呼び捨てにし馬鹿にし、彼の映画や小説の読みの甘さを責めていた。
そんな僕ら3人が、高校時代に一番認めあっていた歌手が、友部正人なのだ。
「友部正人は違う。特別や」
吉田拓郎から入り、加川良やディランⅡや、遠藤賢司を聴き、あれはいい、これはダメ。あいつの詞は幼稚すぎる。あいつの歌は、いつまでも進歩がないなどと勝手放題を言いながら、友部だけを特別扱いしていた。
詞も曲も全身から発する空気にも参っていた。
僕たちは残酷に軽薄に生意気でありながら、友部正人には一目も二目も置き、見上げていたのだ。
あれから、二十年では足りない歳月が流れ、友部正人が阿佐ヶ谷に住んでいたということを阿佐ヶ谷で知った。
わたしは充分中年になっていたが、少なからず興奮した。
「そうか『一本道』の“中央線よ 空を飛んで あの娘の胸に突き刺されれ”、あれはここか」
谷川俊太郎、寺山修司、友部正人。
かつて、高校生の三人が、驚かしあいをしていたときの、エースのカードやジョーカーだったのだ。
わたしが、23歳のとき、大阪のNHKラジオドラマのコンクールに作品を送ったのは、寺山修司が、23歳のとき、谷川俊太郎の薦めでラジオドラマを書き、それをあちらこちらの放送局に『よかったら、使ってください。おもしろくなければ捨ててください』という手紙とともに送り、地方局で取り上げられたというエッセイを読み、年齢が同じだったから、軽薄に真似ただけのことだった。
前年に日活のシナリオコンクールに応募し、それは入選も佳作もなく、ただ映画化されるか否かのコンクールで、ラスト5本に残り、結局が該当作なし。次はどうするか迷っていた矢先のことだった。NHKでは佳作にひっかかった。
その寺山の著作に辿りついたのも、結局は、3人の“おどろかしっこ”の延長だ。僕らは、そんなことを繰り返していた。クラス替えのない建築科で3年間、油断も隙もない関係だった。
矢内君は、いま、大阪の某商店街の乾物屋で働き、休みの日には、山に登っている。冬山にもひとりで出掛け、雪のなかに穴を掘り、そこに身を潜め、ビデオカメラで山を撮影している。
“おどろかしっこ”は、終わった。
でも、僕は阿佐ヶ谷を知ってしまった。
高木功が生きていたら、言ってやりたいところだ。
「東京の阿佐ヶ谷って街、知ってるか?スターロードたら言う商店街を知ってるか?」と。
ゆびさして寒星一つづつ生かす 上田五千石
(一週置いての未来へ続く)
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2009-01-18
商店街放浪記02 阿佐ヶ谷Ⅱ 小池康生
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