2009-01-11

〔週俳12月の俳句を読む〕大石雄鬼 共感するということ

〔週俳12月の俳句を読む〕
大石雄鬼
共感するということ


まずは、鴇田智哉氏の作品二句。

ひなたなら鹿の形があてはまる  鴇田智哉
水にゐるごとくに風邪を保ちをる


他の作品もそうであるが、なぜこのような不思議さを醸し出せるのだろう。言葉の繋がりにはそれほどの新鮮さや、斬新な語彙が選択されているわけではない。しかし、一句となったときに、すっと心に入ってきながら、どこか良い意味でのもやもやが残る。たぶん、一句目では「ひなたなら」の「なら」。二句目では「保ちをる」。この俳句の流れのなかで、なかなかこういう言葉は選べない。
「ひなた」と「鹿」、「水」と「風邪」。両句のモノは、それぞれこの二つのみであり、その組み合わせは、分かりやすいというか、それほど新鮮というわけではないが、「なら」という繋ぎが「ひかげなら」どうなのだろうと頭を混乱させ、「保ちをる」に対する作者の思い・意図はなんなのだろと混乱させられる。
その混乱は、俳句に関わるときの無意識な俳句的秩序に対し、意識的に破壊が行われているようであり、その塩梅が心地よい。

 

遠火事の音なく燃ゆる晩ごはん  さいばら天気

遠火事だから、こちらにその燃える音や周辺の慌ただしい感じは伝わってこない。しかしそれは聞こえないだけで、現実には、今確実に起こっていること。
それをまるで作り事のテレビでも見ているかのように、みんなでいつものとおり、穏やかに晩ごはんを食べている。「夕食」などとせず、みんなが普通に口にしている「晩ごはん」を選んだことによって、この句に奇妙な屈折が生まれている。

 

標本の虫喰ふ虫や冬ぬくき  榮 猿丸

先のふたりの句の言葉の選択による不思議さに対し、この句は捉えた事象の不思議さがある。こちらはどの言葉を選んだかというより、なにを発見したか、何を切り取ったかである。
焦点のぴしっと定まった句の先に生じる不思議さ。焦点を合わせた対象と焦点の合わせ方に、作者の心情が伝わってくる。こういう俳句もいい。

 

サンドイッチマンかつサンタ歩み来る  生駒大祐

サンタクロースの格好をしたサンドイッチマンをこのように意識し、言いとめた作者に共感する。サンドイッチマンを先に持ってきたことにより、世の中のサンタのありようが変になった。
この「実はサンドイッチマンだった」というひとつの特別な事象から、サンタってそういうもんなんだよね、と普遍性を思わせるような思いが、頭をよぎっていく。「サンドイッチマンだった」ということが、どのような普遍性を導き出すのかわからないが、ともかく、そんなことが頭をよぎっていく。
きっと作者もそうなんだろうと、勝手に思いを共有する楽しさ。

 

シンバルの黒ずんでゐる冬至かな  江渡華子

水に影それよりあわき四国かな  大本義幸

「黒ずむシンバル」、「あわき四国」。いいなあと思う。ここに取り出してみて、やっぱりいいなあと思う。
「冬至」や、「水に影」がそれぞれの句を包みこみ、いいなあと思う。

 

最後に、書こうかどうかだいぶ迷ったことがある。 仁平勝氏の作品である。 「合鍵を忘れてもどる寒さかな」以外は、どの句も、私には良いとは思えない。それも積極的に。

着膨れて色気もへつたくれもなし  仁平 勝
隠しもつ杉本彩と夜半の冬
猫の手と比べられつつ煤払ひ
引きこもりでなくてこれは冬籠
いちにちを終へて蒲団のありがたし

うーん。どうなんだろう。分かりすぎるというか、俗っぽいというか。
たしかに、長年俳句を作られて、老境の域に達した方などは、俳句から力が抜けて、当たり前そうなんだけどひと味違う、なにか迫ってくるものがある、ということはよくある。しかし、これらの句はどうだろう。
こういう句が並んでいると、私は、俳句って何なのだろうと、急に不安になってくる。人それぞれとは思うが、俳句の根本的なところに隔たりを感じ、俳句というものがさらに分からなくなってくる。著名な作者だけにこの不安感は大きい。他の人はこれらの句をどう見るのだろう。
最後の句に「数へ日や手を抜くことも芸のうち」とあるが、これらの句がそうということなのだろうか。ある考えによる試作なのだろうか。



江渡華子 雪 女 10句 ≫読む
大本義幸 月光のかけら 10句 ≫読む
仁平 勝 合 鍵 10句 ≫読む
榮 猿丸 何処まで行く 10句 ≫読む
生駒大祐 聖 10句 ≫読む
照井 翠  夜 鷹 10句 ≫ 読む
鴇田智哉  人 参 10句 ≫ 読む
村田 篠 冬の壁 7句 ≫読む
上田信治 週 末 7句 ≫読む
さいばら天気 贋 札 7句 ≫読む

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