2009-01-11

〔週俳12月の俳句を読む〕岡本飛び地 ミュージカルに似て 

〔週俳12月の俳句を読む〕
岡本飛び地
ミュージカルに似て


しづけさに烏飛び立つ聖夜かな  江渡華子

芝不器男の「寒鴉己が影の上におりたちぬ」を思い出した。対になっているようにも思える。日中に降り立った烏が、聖夜に飛び立つ。
街がにぎやかになる聖夜どこに、烏が去ってしまうほどの静けさがあったのだろうか。

 

水に影それよりあわき四国かな  大本義幸

水に落ちた影。その影は確かに淡い存在。実体もなければ、形も定まっていない。そんな影より淡い四国とはどんな存在なのか。その四国で生まれ育った私も、さぞかし淡いことだろう。

 

大根の根の下紐を解きにけり  照井 翠

あまり知られていないことだが、大根畑の地中には妖精さんが住んでいる。収穫前の大根畑を掘り下げてみると、大根の先端の細くなった部分と、地中から伸びた紐とが蝶々結びになっているのがわかる。
運が良ければ逃げ惑う妖精さんの姿も確認することができるかもしれない。
妖精さんの役目は大きく分けて2つ。1つ目は、大根が小指大に成長した頃に紐を結ぶこと。2つ目がその紐を解くこと。大根が十分な大きさに育ったと判断すれば、蝶々結びを解き、収穫に備える。大根が引き抜かれるその瞬間には、見守り続けた大根を見上げ、手を振って見送るという。
さて、大根がこの紐から栄養を供給されていることは自明であるが、さらに地中深くへとこの紐を辿っていくとその先には何があるのだろうか。地球の中心にあるという<母なる大根>に全ての紐が繋がっているという説が最も有力であるが、未だ確認されていない。

 

手のひらにきて綿虫になつてゐる  村田 篠

俳句歴の長いある方が、俳句では、一瞬にして劇的な変化を表現することができる。
というようなことをおっしゃっていた。
この句もまさにそう。
今手のひらに綿虫が乗っている。これだけのことを、こんなにもドラマチックに、そして少しメルヘンに感じさせることができるのが、私たちがやっている俳句なのだなあ、などとしみじみ思ってしまった。
私もこんな句を詠んでみたい。


 

石ごろごろ冬菜明るく雲明るく  上田信治

楽しそう。とにかく楽しそう。なぜだろう。
石ごろごろ
冬菜明るく
雲明るく
それだけのことなのに。
そうだ。ミュージカルに似てるからだ。

落ち込んだ主人公が下を見ながら外を歩いていて
足元にごろごろしている石に気付く。
いいなあ、石は何も悩みがなくて、なんて言いながら。
そして石の横の冬菜が明るく照らされていることにも気付く。
そうだ。今日はこんなにも気持ちよく晴れている。
どうして今まで気付かなかったんだろう。
雲だってこんなに明るいじゃないか。
主人公の歌が始まる。
石ごろごろ、冬菜明るく、雲明るく
街の人たちも集まって歌う
石ごろごろ冬菜明るく雲明るく

歌になりそうなくらいのリズム感と、ただひたすらに明るいということが、この句をこんなに楽しそうに感じさせているのだ。




江渡華子 雪 女 10句 ≫読む
大本義幸 月光のかけら 10句 ≫読む
仁平 勝 合 鍵 10句 ≫読む
榮 猿丸 何処まで行く 10句 ≫読む
生駒大祐 聖 10句 ≫読む
照井 翠  夜 鷹 10句 ≫ 読む
鴇田智哉  人 参 10句 ≫ 読む
村田 篠 冬の壁 7句 ≫読む
上田信治 週 末 7句 ≫読む
さいばら天気 贋 札 7句 ≫読む

 

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