2009-01-04

二代目のレゾン・デートルあるいは「昭和俳諧の標準」 橋本直

近代俳句の周縁 5  
二代目のレゾン・デートルあるいは「昭和俳諧の標準」

高濱年尾著『俳諧手引』 



橋本 直




高濱年尾は明治33(1900)年12月26日生まれ。東京版「ホトトギス」の二代目。この年末に生まれた虚子の長男に「年尾」という名を命名したのは子規である。明治30年代生まれの俳人は近代俳句の「黄金世代」といってもよく、

明治30年 川端茅舎

  32年 阿波野青畝・橋本多佳子・三橋鷹女・横山白虹

  33年 西東三鬼・永田耕衣・中村汀女

  34年 秋元不死男・中村草田男・日野草城・山口誓子・

  35年 富澤赤黄男・皆吉爽雨

  36年 芝不器男・橋閒石・橋本夢道・星野立子

  37年 大野林火

  38年 加藤楸邨・篠原鳳作・平畑静塔

  39年 鈴木真砂女・松本たかし

と、いい仕事をした俳人が名を連ねている。年尾の生年の前後だけをみても四Sの内の二人や草田男、草城がいるわけで、ライバルは多かったといえるだろう。俳句にかかわっている人ならば、これらの俳人達の句を口ずさむことができるだろう。

では、年尾の代表句はなんだろう?私は、作家の有名無名や結社云々とは無関係に、良い句は自然、耳に残ったり人の口にのぼっていくものだと信じるものだが、いまのところ年尾の句は寡聞にして聞かない。そこで「ホトトギス」関連の書籍として名著といえる深見けん二氏の『虚子の天地』から孫引きさせていただくと、「ホトトギス」雑詠欄の巻頭句に、以下の句がある。

  秋晴やかもめの尻に水の映え     昭和10年12月

  火蛾落つる灯下に湖の魚来る     昭和13年9月

  凍江や渡らんとして人遅々と     昭和19年2月

  除夜の鐘撞きに来てゐる鳥羽の僧   昭和21年3月

また、代表句を集めたという『三省堂 名歌名句辞典』では、

  遠き家の氷柱落ちたる光かな

  歳晩の淋しき顔に突き当たる

  真下より仰ぎてぞ梅くらきなり

  お遍路の静かに去つて行く桜

  野分雲夕焼けしつゝ走り居り

  かるたとる手がすばしこく美しく

を入れている。とりあえずはこれらが年尾の代表句だと考えて良いのだろう。

俳句の世界での親子作家についてまとめて論じた物があるのかは知らないが、この高濱親子は、飯田蛇笏・龍太親子などに比すと、圧倒的に子の影が薄い。先の代表句のこともそうだが、他にも例えばグーグルで検索すると、虚子は約4万、飯田親子は約2万ずつヒットするが、年尾は3千に届かない。(ちなみに、稲畑親子は約2万と2千足らず)。

また国立情報学研究所の研究者向けの論文検索機能(過去の「俳句」「俳句研究」の記事を検索できるので重宝する)でも、先の3者は200件ほど文献にあたるが、年尾は10件ほどで圧倒的に少ない。つまり、ほぼ論じる対象とされていない。

さらに、「ホトトギス」や日伝協のホームページを見ても、Webの利用者は年尾に興味など無いとみたのか、どっぷりと「虚子」であって、年尾のことはほとんど出てこない。そして、全句集『年尾句集』はだいぶ前に出ているが、90年代に始まった全集の刊行は、主要なものは刊行されているものの、第7巻で止まったままで、99年8月以後続刊がない(『星野立子全集』はもっとさみしい状況。同じ版元だが、どうかしたのだろうか)。

同時代や現在の結社内部での存在感は不明瞭だが、あの「ホトトギス」の主宰としてはあまりにさみしい。年尾についての雑誌の特集もほとんどみないのだが、この記事の執筆中、たまたま「俳句界」2008年12月号で年尾の小特集を組んでいた。依田明倫氏の記事で、年尾は小樽高商で留年した関係で、小林多喜二や伊藤整と同時期に同校に在学しており、関東大震災の義援活動で演じられた「青い鳥」で同じ舞台に立っていたことなど、色々知ってありがたかった。ただ、この特集はほとんど各執筆者の思い出話で終わっていて、最後に句が抄出されてはいるが、コーナーのタイトルと違って俳人としての年尾の「魅惑」はあまり見えない。これは読んでいてやや寂しい。結局年尾は、半永久的に父が偉大すぎるの一言で片付けられてしまう運命なのだろうか。

さて、その高濱年尾が俳句の世界に貢献した仕事の一つは、連句の再評価である。高濱年尾の句業をもっともコンパクトにまとめた本である『現代俳句の世界12高濱年尾 大野林火集』(朝日文庫)には、稲畑汀子氏の手によって『年尾句集』『句日記』などから抄出されているほか、巻末に齋藤愼爾氏による略年譜と三橋敏雄氏による解説が付してあり、おおよその人と成りを知ることができる。解説では全句集からある程度の年代傾向ごとに年尾の句を抜いており、これはこれで三橋選の年尾句抄とも言え、一読の価値があると思う。

その解説で三橋は、虚子の「俳句をいわゆる有季定型に基づく花鳥諷詠詩として厳密に規定するかたわら、より一層広範な俳諧の世界につらなる連句の復興、あるいは俳諧詩創作への意欲を早くより燃え立たせていた」という意欲を受け、年尾が昭和13年から「誹諧」を編集発行したのを「時宜を得たもの」と評価している。「時宜を得た」とは、虚子のそのような意向とタイミングがあった、ということの他に、大正10年から昭和10年くらいに渡って、特に新興俳句を中心に、俳壇で連作俳句の試みや議論がさかんに行われていたことも指しているのであろう。連作の実践に停滞感を持った俳人へ、あらためて連句の見直しについて論じるための一石を投じることは、一見悪い試みではなかったように思える。

『俳諧手引』は、その「誹諧」の記事を中心にまとめられ出版されたものである。先の解説で三橋は同書の「あとがき」の多くを引用した上で、「ちかごろ行われている同種類の連句手引書の内容に先んずる貴重な一書で、当時はもちろん、現在でも連句実作者に資するところは大きい」と高く評価している。内容は、子規以来俳人が連句を顧みない状況となったことを打破したい願いに満ちており、130頁ほどの中で、連句の意義、式目の解説、連句の実践例、芭蕉連句の解説と、丁寧な文体で書かれている。筆者は連句についてはほぼ素人であるが、連句の入門書としては、現在でているいくつかのものと読みくらべても遜色ないように思われる。

しかし、大きな問題、と言っていいと思うが、同書は、前回の記事でも触れた「日本文学報国会」が定めた(高濱虚子や柳田国男による)「昭和俳諧式目」(写真参照)に基づいて書き進められているのである。この式目自体も、内容だけ見ればまっとうなものだと思うが、国策による戦時協力体勢の上に乗った形で世に出たことになる。

よく知られている通り、この「誹諧」創刊と『俳諧手引』出版の間の時期に、新興俳句とプロレタリア俳句は弾圧でつぶされ、先にあげた30年代生まれの俳人の中にも検挙された人が複数いる。史観には慎重にならねばならないが、それに対してこの本は、言ってみれば当局側にたった側の出した連句入門書だったのであり、おそらく書いた本人の考えとは別に、俳句の暗黒時代の影を戦後に引きずるものになってしまった。

三橋も評価するように内容的には良いものであるけれども、歴史の流れの中に投げ込まれてしまうと、戦後は触れられにくいものであっただろう。年尾が晩年になってから出した改訂版を見ていないので、この点をどうクリアしているのか知らないが、連句にとっても年尾にとっても不運なことであった。おそらく年尾自身長く不本意であっただろう。

先の三橋の指摘にもあるが、そもそも虚子や年尾は、俳句と連句を切り分け、役割分担させる意図を持っていた。これは大まかに言って子規以来の、小説を軸とする「近代文学」(あるいは、世界標準の文学)性を俳句にも担わせようとする営為を否定しつつ、俳句から切り分けたそれを、連句(と彼らの考えた「俳諧詩」)の方に、それなりに日本独自の形で担わせようという意図があったといっていいだろう。「花鳥諷詠」と「客観写生」ばかり話題になりがちだが、虚子らのこの切り分け論は見落とせない。

今の「ホトトギス」が連句をどうしているかは知らないが、そもそもなぜ子規が連句を否定したのかを考えれば、連句に何らかの形で文学の属性を担わせることもそう容易なことではなかっただろう。

それにこの切り分け問題は現「俳句世間」においても継続している。近代文学性云々の他にも、そもそも「俳句」とはなんなのかという問いにおいて、例えば、発句と平句のうち、発句の特性のみを「俳句」とするのか、発句と平句が何らかの形で融合したものを「俳句」とみるのかということは、いまも明確な答えはない。高柳重信は発句と俳句と全く違いのないものを「発句もどき」と呼び、この差異に無頓着に作句する同時代の俳人を批判していた。

また上田五千石は歌仙における発句に残りの平句35句の要素が吸収されていく過程が近現代の俳句ではないかと考えていたようである。

彼らのような問題意識を持つ俳人は私を含め少数ではないと考えるのだが、現状はいまひとつはっきりしない。この問題は子規以後の「俳句」のありようそのものの問題であるにもかかわらず、根本的な議論の俎上にのることは少なくなっているように感じる。

芭蕉以後としても随分長い短詩型の歴史のなかで、明治にはじまった「俳句」の営為をどう眺め得るものか。いまさらなかったことにして発句とイコールにできるとは思えないのだが、問題そのものに無頓着だったり、人によっては、開き直っているのかともみえる。それは一つには、連句への無知無関心がもたらした状況なのかもしれない。

しかし昨年、身近なところで俳人に連句が見直されていると感じる機会が何度かあった。自分自身、実際に歌仙を巻く機会もあったし、複数の俳人から別の場で、やったとかやってみたいという話を聞いた。もしかするとちょっとした流行と言っていいかもしれない。

もし今があらためて文学としての連句を考える時だとするなら、参考になる書物は少なくない。例えば、冒頭に「優美な屍骸」を作った経験や、飯島晴子の「言葉の現れるとき」を引きつつ連句論へ展開していく宮脇真彦氏の『芭蕉の方法』(角川選書338)は非常に為になるし、三省堂『連句・俳句季語辞典』(第二版)は歳時記の体裁でありつつ、式目の解説が詳しい。その他にも、浅沼璞氏のWebでの活動など、いまや年尾の時代より、素人に対し入り口は広く用意されている。

実際に歌仙を巻いてみると、連句は難しくも純粋に面白い。しかし、この小流行の中で、もし俳人が自句の停滞の突破口を得る期待から、カノンとしての連句を追いかけるのなら、あるいは、時代の気分として、日本の文学の独自性の一端をそこに見出そうとするのなら、高濱年尾の仕事と、近代俳句と連句の間に横たわる問題について看過すべきではないだろう。





1 コメント:

tenki さんのコメント...

連句、「来ている」のかもしれませんね。
『図書』(本屋のレジで貰える岩波書店の広告誌)の1月号、冒頭が、丸谷才一、大岡信、岡野弘彦三氏による歌仙と座談会です。

この歌仙「案山子の巻」、もっぱら出来事の続きを付けているだけで、私にはまったくおもしろくありませんでした。

もっとも、歌仙というのは、巻いている本人たちが楽しむもので、外から見ても、つまらないもののようです。句会と同じで、見るものじゃない、やるものだ、といったところでしょうか。