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2009-11-08

南洋の写生 井岡咀芳『南洋のたび 咀芳句日記』 橋本直

近代俳句の周縁 6  
南洋の写生
井岡咀芳『南洋のたび 咀芳句日記』(昭和10年4月非売品)

橋本 直


子規は石炭の時代の俳人であり、虚子は石油の時代の俳人である。新大陸での大規模油田開発後の世界は大きく変わることになった。地政学的には、石油のぶんどり合戦となった中で自国に油田を持たない日本は、再び江戸の生活に戻るのでもない限り(戻りようもないが)、それを求めて南方へ討って出るしかないと思われた。そしてその通りに行政も動いたが、もしそのことがなければ、虚子の歳時記に南方季語が入ってくることはなかったのではないか。立場上彼も微妙に片棒を担がされた「大東亜共栄の夢」とやらは、やはり居直り強盗的に後付の理屈の匂いがするが、しかし、過ぎ去ったものとしてドライに言い切ってしまえば、帝国主義の時代をロクに資源もなく社会資本も整っていない後発貧乏国家がサバイブする不安の中では、実態の怪しげな構想でもそれなりに人を酔っぱらわすヤケ酒の役割はしたのだろう。ともあれ、かつて日本に南方植民地(南洋委任統治領)があったころがあり、物語の中の存在であった「南の島」の世界が、本当に「領土」としてやってきたのである。 

中島敦は昭和16年夏より翌春まで、パラオ南洋庁の一国語編修書記として南洋諸島にいた。彼の代表作「山月記」の冒頭、「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、次いで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。」は、高等教育までの教科書に載っている小説の中では一番好きな書き出しだった。高い教養とプライド(精神)がやがて精神とそれを持つ身体を変容させ、ついには人格を滅ぼしてしまうと読める短編物語。いかにも大正以後の戦前の知的大衆や、戦後民主主義教育が好んだ、男性的で倫理道徳的な読みが可能な肉体と精神の相克のお話。たしか資料には、中島敦は喘息の持病もちで長く苦しみ、温暖な気候が体に良いという理由で教員を辞めてパラオの南洋庁に勤めたと書いてあった気がする。彼の地でかえって風土病に悩まされ、結果として寿命を縮める結果を招いたとも。しかし、彼ほどの才人にして、南洋の風土病への認識の薄さ加減はかなり意外で、合理的には愚かとさえ思われ、上記説明は俄に信じがたいと思っていた。

後、彼が『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』のスティーヴンソンの境涯に強くあこがれ、作品に書いていたことを知った。スティーヴンソンは中島と同じような病弱な体であったが、作家として成功の後に南の島に移住し、現地にとけこみツシタラ(酋長)とまで呼ばれていたのだとか。なるほど中島敦の変身譚も、中国の怪異譚「人虎伝」に想を借りつつアウトラインは『ジキル~』と共通する点がある。彼は漢籍文明圏のジキルとハイドを書きたかったのか。そして中島も、帝国主義時代の酔っぱらいの一人として文学で成功し南洋のツシタラとなる甘い夢を見てパラオに出向いたのだろうか。

憧れの〈常夏の楽園〉としての南の島。一方で荒々しい野生動植物の世界〈ジャングル〉と、そこに棲む毛皮や植物を腰巻きにし、どくろのアクセサリーを身にまとう〈首狩族〉の怪しい太鼓や踊り。それらは現代の文化内にも濃厚に擦り込まれ共有され続けている。例えば、東京ディズニー「リゾート」では、物語によって囲い込まれた非日常の人工空間の中に、イメージのジャングルやコロニアルな建築群を見ることが出来るが、これらは既に戦前から広まっていたイメージであった。観光(つまりはそこに落ちるゼニ)の力によってそのイメージは現地人にも共有され、異文化のもったイメージを現地人が自ら演じてみせるようになるという状況もかなり早くからおこったようだ。現代の沖縄にもそういう側面を指摘する論があるが、事態はもう少し多様な視点で語れるだろう。ともあれ、間主体的造形イメージが社会的関係性の中で主体自身手による自己日常の読み換えを起こすという現象は興味深い。短時間にせよ、ディズニーランドの中では我々もイメージを意図的に世界観に乗っかってこまめに読み換えて過ごしている。それは我々の中の「南方」イメージが元々何に根ざしているかを垣間見せてくれる場であり、さらに言えば、読むことを含め知覚とはどのようなものなのかを見せてくれてもおり、そしてそれは私たちの日常と、俳句に於ける季語の世界の間の出来事ともそう大差はない話であることにも気づかせてくれる。

『南洋のたび 咀芳句日記』の著者である咀芳井岡大輔は、いわゆる専門俳人ではない。残された仕事からすれば在野の民俗学者のようでもあり、玄人はだしの画を描く人だが、醸造学も学んだ人のようだ。大阪朝日新聞 1942.3.4(昭和17)の記事に「ジャバ各地を踏破して、工芸家の角度からジャバ更紗を蒐集、昨年七月帰朝した大阪府立貿易館技師井岡大輔氏」(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫 東南アジア諸国12-063を引用)とあるから、とりあえずの職業は工芸家かつ技術系の公務員であったと思われる。この人物の多才さや行動力はかなり興味深いが、筆者はその辺の詮索を得意としない。

なぜ井岡が南方に出向いたのか、それが私意なのか仕事なのかははっきりしないが、おそらくその両方であろう。明確に南方の風土調査を行う目的をもっていたようで、その仕事は後に『ジヤワを中心とした南方の実相』(昭和19年3月湯川弘文館)(下写真参照)に詳しく纏められている。詳細は略すが、ふんだんに絵や写真をいれ、多くの南方の民族、産業、宗教などの調査報告をしており、物語の中のイメージとしての南方でない姿を描こうとするものである。お話の中の冒険旅行家気どりでやってくるアホな日本人を皮肉るセンスを持ち合わせており、当時の南方風土記とも戦後のルポルタージュの先がけともいえるかもしれない。井岡は昭和14年に満州の歳事を比較文学的に纏めた『一簣』(後に『満州歳事考』として再版)を天津で出版しており、両書とも大東亜の夢に乗っかった物言いの大仰な前書きがついている。戦時下の出版物には、検閲対策としてか、なにかとお国に貢献するため云々と書かれるのがお約束だから、それが彼の手段にすぎないものか、思想立場を真に反映しているのかは不明であるが、たんなる工芸家の仕事の延長とは思えない緻密さからして基本的に民俗学者的センスをもち風土、民族の風習などの調査が大好きな御仁であったことは確かである。

さて、『南洋のたび』は、出版年から見て上記の記事や著作より前の旅に基づく作であると思われる。カラーの口絵をのぞけば非常に粗末な作りで、印刷したものを折り返して紐で綴じただけの非常に簡素な作りである(冒頭写真参照)。奥付までで五三頁。頁カウントされていない口絵や序文をふくめても六三頁。非売品で、大阪の浜田印刷所で印刷されており、編集発行人は井岡本人。自費出版であろう。なお、口絵では句を絵の外に活字印刷してある(右写真参照)。本編にはいって各頁に画に句を添えた下に説明する短文をそえてあり(右下写真参照)体裁としては画賛集に近い。冒頭まず横顔の自画像、南方の風物のカラー口絵(おそらく水彩)の末に「バダビヤ市に於ける燕靑氏歓迎句筵出席者」として、主賓の木村燕靑(この人物未詳)はじめ井岡ら十七名が浴衣に団扇で涼む集合写真が掲載されており、この人々を中心に、縁のあった南方の知人や近親者に配るために少数を編んだ本ではないかと推測される。句会ならぬ「句筵」とは、洒落気で付けたか旧派俳諧の流れかなんとも言えないが、白黒の集合写真のなかにあって、同じ浴衣を着ながら他の勤め人とおぼしき人々に比し井岡の目線容貌ともに明らかに異彩を放っており、ただの役人でないことは一目明らかである。この点で中島敦に通うものがあるのではないかとも感じる。集中58の画と句がある。恣意でぬくと、

  ドリアンの熟れ落つる待つ集(つどひ)かな

  賓客やサラク、ジャムブウ、ランブウタン

  マンギスや月下に浮ける果房(ふさ)と果房(ふさ)

  山荘や椰子の根元の蘭の花

  赤道へ三日路なるを五月雨るゝ

  マカツサや瑇瑁(たいまい)語る汗の人

など。「ドリアン」「サラク、ジャムブウ、ランブウタン」「マンギス(マンゴー)」「椰子」「赤道」「?瑁」など、いかにも南の島のイメージである。南方季語と言えそうなわかりやすいところでは、上記を含めてドリアン、ランブータン(ランブタン)、マンゴー(マンギス、マンゴウ)、椰子、パパイヤ(パパヤ)、キャッサバ(カツサバ)などが使用されている。爪哇(ジャワ)、マカツサ(当時のセレベス(スラウェシ)島の中心港)をはじめ、地名などもふんだんにもりこまれており、その点では異国情緒たっぷりである。

「はしがき」で井岡は「句の形は成しても、所詮は自分勝手の素人句である。(中略)然し机上の句でも繪でもない。咀芳としての力一ぱいの寫實寫生である」と書いており、句も絵も写生であるという。筆者は絵は門外漢だから以下は印象批評だが、口絵のカラー画はいわゆる西洋絵画的写生であり、本編のほうは、中村不折の『不折俳画』(明治43)的な趣味人の絵と似通うように思う。一読して、井岡の言うとおりの南洋紀行記録句画集というところであるが、短文においては、短い見聞中にも作者の観察者としての比較的ニュートラルな視点があらわれるのを読み取れる。例えば、「日盛りや昼寝得ならず地のほてり」句では、「白人の習慣として夙に朝起きすれ共昼寝の風あり。真似てはみるも、ものにならざるは日本人なり。然し志那人の炎天下の活動振には一驚すべし」など、当時まだ蘭領で戦時では無い時期だったとはいえ、妙な日本文化中心主義な視点をもっていない。また、「稔田に隣る植田やスンダ唄」は、年中稲作をできるなか、稔りの隣でスンダ列島(インドネシア)の田植え歌が聞こえる様子を句に詠み込んだと思われるが、井岡は短文で「水の利と土地の肥度さへ許せば、一年中次々と稲作し得る筈なれ共、斯く迄にはなし。然し収穫、田植、開花の隣接相並列する田は折々見る所なり」と書くのである。句画のかもしだす異国情緒への演出意図はかけらもない。彼は雅文ではなくこのようなジャーナリストのような書き方をしてしまうのである。もし面白おかしく「異文化」を本土日本に伝えるだけなら、句画で喚起されるイメージをこわすような注意書きは付けないだろう。非常に趣味的な作本ながら、趣味的ではない目線がここには感じられる。そのような人物が、大東亜なんちゃらの夢に何の疑いもなくまるまる素朴に乗っかっていたとは想像しがたい。

先に書いたように、中島敦はその南方の現地人を教導するための教科書を作成するために役所から派遣されたのであるが、その間の書簡がまとめられ、中公文庫から『南洋通信』と題されてでている。これを読むと彼の南洋での経験や家族への思いがよくわかる。有名作家はある意味気の毒である。彼は役所の用意したパラオ島コロール町アラバケツ南進寮の12号室に住み、妻宛にまめに手紙を書き、覚悟の上とはいえデング熱のかゆみに苦しみ、快復後は島々まわり、日本に残した妻子の心配を細々し、幼い自分の子と現地の子のイメージを重ね、高くてまずいヤキソバやらお刺身やら食べている。その辺はまさに今時の単身赴任の若いパパと変わらない。

一方で、現地人を愛し、彼らを怒鳴りつけたりこき使う居丈高な日本人達を批判的に見つめ、戦時下で検閲があり表現に制限のあるはずの手紙の中でも「今度旅行して見て、土人の教科書編纂という仕事の、無意味さがはっきり判って来た。土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある。教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ」と妻に向けて書き、小品「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」では、「お前は島民を見ておりはせぬ。ゴーガンの複製を見ておるだけだ。ミクロネシアを見ておるのでもない。ロティとメルヴィルの画いたポリネシアの色褪せた再現を見ておるに過ぎぬのだ」と内省もする。彼もまた、自身がイメージの楽園の中にいることを冷厳なまなざしで自覚している人であったようだ。彼もまた、変な夢に酔っぱらっていなかったことがわかる。彼がなぜ南洋に行ったのかは謎のままだが、おそらく動機の奥底には、観光的にイメージの中に遊ぶような、単純なあこがれや平凡な日常からの逃避志向ではなく、そこに行かなければ絶対にわからない求める何かがあると確信してしまったからなのだろう。何を見つけたか/なかったかをきちんと言葉にしきる前に、残念ながら彼は亡くなってしまうのだが。

我々は石油と原子力の折半の時代から、また違う形へと変わる過渡期の時代にいるらしい。既に石油の時代においても、石炭の時代に方法として開発された子規の「写生」は、当時の文化の中心地では古びていた。が、はるか南方の日本が領土的野心を持った場において、井岡のような素人俳人が、異文化としての南の島をさっと写して持ち帰るのにまことにもってこいの方法であった。その手法は、見ようによっては芭蕉の奥の細道の旅(とその後追いの旅)とかわりはしない性質をもつものだ。そこにある可能性と問題系は、様々なことを示唆してくれていると思う。

2009-01-04

二代目のレゾン・デートルあるいは「昭和俳諧の標準」 橋本直

近代俳句の周縁 5  
二代目のレゾン・デートルあるいは「昭和俳諧の標準」

高濱年尾著『俳諧手引』 



橋本 直




高濱年尾は明治33(1900)年12月26日生まれ。東京版「ホトトギス」の二代目。この年末に生まれた虚子の長男に「年尾」という名を命名したのは子規である。明治30年代生まれの俳人は近代俳句の「黄金世代」といってもよく、

明治30年 川端茅舎

  32年 阿波野青畝・橋本多佳子・三橋鷹女・横山白虹

  33年 西東三鬼・永田耕衣・中村汀女

  34年 秋元不死男・中村草田男・日野草城・山口誓子・

  35年 富澤赤黄男・皆吉爽雨

  36年 芝不器男・橋閒石・橋本夢道・星野立子

  37年 大野林火

  38年 加藤楸邨・篠原鳳作・平畑静塔

  39年 鈴木真砂女・松本たかし

と、いい仕事をした俳人が名を連ねている。年尾の生年の前後だけをみても四Sの内の二人や草田男、草城がいるわけで、ライバルは多かったといえるだろう。俳句にかかわっている人ならば、これらの俳人達の句を口ずさむことができるだろう。

では、年尾の代表句はなんだろう?私は、作家の有名無名や結社云々とは無関係に、良い句は自然、耳に残ったり人の口にのぼっていくものだと信じるものだが、いまのところ年尾の句は寡聞にして聞かない。そこで「ホトトギス」関連の書籍として名著といえる深見けん二氏の『虚子の天地』から孫引きさせていただくと、「ホトトギス」雑詠欄の巻頭句に、以下の句がある。

  秋晴やかもめの尻に水の映え     昭和10年12月

  火蛾落つる灯下に湖の魚来る     昭和13年9月

  凍江や渡らんとして人遅々と     昭和19年2月

  除夜の鐘撞きに来てゐる鳥羽の僧   昭和21年3月

また、代表句を集めたという『三省堂 名歌名句辞典』では、

  遠き家の氷柱落ちたる光かな

  歳晩の淋しき顔に突き当たる

  真下より仰ぎてぞ梅くらきなり

  お遍路の静かに去つて行く桜

  野分雲夕焼けしつゝ走り居り

  かるたとる手がすばしこく美しく

を入れている。とりあえずはこれらが年尾の代表句だと考えて良いのだろう。

俳句の世界での親子作家についてまとめて論じた物があるのかは知らないが、この高濱親子は、飯田蛇笏・龍太親子などに比すと、圧倒的に子の影が薄い。先の代表句のこともそうだが、他にも例えばグーグルで検索すると、虚子は約4万、飯田親子は約2万ずつヒットするが、年尾は3千に届かない。(ちなみに、稲畑親子は約2万と2千足らず)。

また国立情報学研究所の研究者向けの論文検索機能(過去の「俳句」「俳句研究」の記事を検索できるので重宝する)でも、先の3者は200件ほど文献にあたるが、年尾は10件ほどで圧倒的に少ない。つまり、ほぼ論じる対象とされていない。

さらに、「ホトトギス」や日伝協のホームページを見ても、Webの利用者は年尾に興味など無いとみたのか、どっぷりと「虚子」であって、年尾のことはほとんど出てこない。そして、全句集『年尾句集』はだいぶ前に出ているが、90年代に始まった全集の刊行は、主要なものは刊行されているものの、第7巻で止まったままで、99年8月以後続刊がない(『星野立子全集』はもっとさみしい状況。同じ版元だが、どうかしたのだろうか)。

同時代や現在の結社内部での存在感は不明瞭だが、あの「ホトトギス」の主宰としてはあまりにさみしい。年尾についての雑誌の特集もほとんどみないのだが、この記事の執筆中、たまたま「俳句界」2008年12月号で年尾の小特集を組んでいた。依田明倫氏の記事で、年尾は小樽高商で留年した関係で、小林多喜二や伊藤整と同時期に同校に在学しており、関東大震災の義援活動で演じられた「青い鳥」で同じ舞台に立っていたことなど、色々知ってありがたかった。ただ、この特集はほとんど各執筆者の思い出話で終わっていて、最後に句が抄出されてはいるが、コーナーのタイトルと違って俳人としての年尾の「魅惑」はあまり見えない。これは読んでいてやや寂しい。結局年尾は、半永久的に父が偉大すぎるの一言で片付けられてしまう運命なのだろうか。

さて、その高濱年尾が俳句の世界に貢献した仕事の一つは、連句の再評価である。高濱年尾の句業をもっともコンパクトにまとめた本である『現代俳句の世界12高濱年尾 大野林火集』(朝日文庫)には、稲畑汀子氏の手によって『年尾句集』『句日記』などから抄出されているほか、巻末に齋藤愼爾氏による略年譜と三橋敏雄氏による解説が付してあり、おおよその人と成りを知ることができる。解説では全句集からある程度の年代傾向ごとに年尾の句を抜いており、これはこれで三橋選の年尾句抄とも言え、一読の価値があると思う。

その解説で三橋は、虚子の「俳句をいわゆる有季定型に基づく花鳥諷詠詩として厳密に規定するかたわら、より一層広範な俳諧の世界につらなる連句の復興、あるいは俳諧詩創作への意欲を早くより燃え立たせていた」という意欲を受け、年尾が昭和13年から「誹諧」を編集発行したのを「時宜を得たもの」と評価している。「時宜を得た」とは、虚子のそのような意向とタイミングがあった、ということの他に、大正10年から昭和10年くらいに渡って、特に新興俳句を中心に、俳壇で連作俳句の試みや議論がさかんに行われていたことも指しているのであろう。連作の実践に停滞感を持った俳人へ、あらためて連句の見直しについて論じるための一石を投じることは、一見悪い試みではなかったように思える。

『俳諧手引』は、その「誹諧」の記事を中心にまとめられ出版されたものである。先の解説で三橋は同書の「あとがき」の多くを引用した上で、「ちかごろ行われている同種類の連句手引書の内容に先んずる貴重な一書で、当時はもちろん、現在でも連句実作者に資するところは大きい」と高く評価している。内容は、子規以来俳人が連句を顧みない状況となったことを打破したい願いに満ちており、130頁ほどの中で、連句の意義、式目の解説、連句の実践例、芭蕉連句の解説と、丁寧な文体で書かれている。筆者は連句についてはほぼ素人であるが、連句の入門書としては、現在でているいくつかのものと読みくらべても遜色ないように思われる。

しかし、大きな問題、と言っていいと思うが、同書は、前回の記事でも触れた「日本文学報国会」が定めた(高濱虚子や柳田国男による)「昭和俳諧式目」(写真参照)に基づいて書き進められているのである。この式目自体も、内容だけ見ればまっとうなものだと思うが、国策による戦時協力体勢の上に乗った形で世に出たことになる。

よく知られている通り、この「誹諧」創刊と『俳諧手引』出版の間の時期に、新興俳句とプロレタリア俳句は弾圧でつぶされ、先にあげた30年代生まれの俳人の中にも検挙された人が複数いる。史観には慎重にならねばならないが、それに対してこの本は、言ってみれば当局側にたった側の出した連句入門書だったのであり、おそらく書いた本人の考えとは別に、俳句の暗黒時代の影を戦後に引きずるものになってしまった。

三橋も評価するように内容的には良いものであるけれども、歴史の流れの中に投げ込まれてしまうと、戦後は触れられにくいものであっただろう。年尾が晩年になってから出した改訂版を見ていないので、この点をどうクリアしているのか知らないが、連句にとっても年尾にとっても不運なことであった。おそらく年尾自身長く不本意であっただろう。

先の三橋の指摘にもあるが、そもそも虚子や年尾は、俳句と連句を切り分け、役割分担させる意図を持っていた。これは大まかに言って子規以来の、小説を軸とする「近代文学」(あるいは、世界標準の文学)性を俳句にも担わせようとする営為を否定しつつ、俳句から切り分けたそれを、連句(と彼らの考えた「俳諧詩」)の方に、それなりに日本独自の形で担わせようという意図があったといっていいだろう。「花鳥諷詠」と「客観写生」ばかり話題になりがちだが、虚子らのこの切り分け論は見落とせない。

今の「ホトトギス」が連句をどうしているかは知らないが、そもそもなぜ子規が連句を否定したのかを考えれば、連句に何らかの形で文学の属性を担わせることもそう容易なことではなかっただろう。

それにこの切り分け問題は現「俳句世間」においても継続している。近代文学性云々の他にも、そもそも「俳句」とはなんなのかという問いにおいて、例えば、発句と平句のうち、発句の特性のみを「俳句」とするのか、発句と平句が何らかの形で融合したものを「俳句」とみるのかということは、いまも明確な答えはない。高柳重信は発句と俳句と全く違いのないものを「発句もどき」と呼び、この差異に無頓着に作句する同時代の俳人を批判していた。

また上田五千石は歌仙における発句に残りの平句35句の要素が吸収されていく過程が近現代の俳句ではないかと考えていたようである。

彼らのような問題意識を持つ俳人は私を含め少数ではないと考えるのだが、現状はいまひとつはっきりしない。この問題は子規以後の「俳句」のありようそのものの問題であるにもかかわらず、根本的な議論の俎上にのることは少なくなっているように感じる。

芭蕉以後としても随分長い短詩型の歴史のなかで、明治にはじまった「俳句」の営為をどう眺め得るものか。いまさらなかったことにして発句とイコールにできるとは思えないのだが、問題そのものに無頓着だったり、人によっては、開き直っているのかともみえる。それは一つには、連句への無知無関心がもたらした状況なのかもしれない。

しかし昨年、身近なところで俳人に連句が見直されていると感じる機会が何度かあった。自分自身、実際に歌仙を巻く機会もあったし、複数の俳人から別の場で、やったとかやってみたいという話を聞いた。もしかするとちょっとした流行と言っていいかもしれない。

もし今があらためて文学としての連句を考える時だとするなら、参考になる書物は少なくない。例えば、冒頭に「優美な屍骸」を作った経験や、飯島晴子の「言葉の現れるとき」を引きつつ連句論へ展開していく宮脇真彦氏の『芭蕉の方法』(角川選書338)は非常に為になるし、三省堂『連句・俳句季語辞典』(第二版)は歳時記の体裁でありつつ、式目の解説が詳しい。その他にも、浅沼璞氏のWebでの活動など、いまや年尾の時代より、素人に対し入り口は広く用意されている。

実際に歌仙を巻いてみると、連句は難しくも純粋に面白い。しかし、この小流行の中で、もし俳人が自句の停滞の突破口を得る期待から、カノンとしての連句を追いかけるのなら、あるいは、時代の気分として、日本の文学の独自性の一端をそこに見出そうとするのなら、高濱年尾の仕事と、近代俳句と連句の間に横たわる問題について看過すべきではないだろう。





2008-07-13

日本の原風景の痕跡あるいは銃後の日常の記録 橋本直

近代俳句の周縁 4   日本の原風景の痕跡あるいは銃後の日常の記録~臼田亜浪・飯田蛇骨・富安風生・水原秋桜子共著
 『勤労俳句の鑑賞』
(昭和21年3月/編纂:俳句研究編集部/代表:伊東月草/発行:目黒書店/167頁)  



橋本 直




古本屋をまわっていたときふと目に付いた。「勤労俳句」という用語なんて初耳である。今「蟹工船」が流行っているけれど、一瞬そのようなものかとも思った。すでに背表紙が壊れかかっており、紙質はひどく悪い。戦後まもなくの出版。横書きを右から読み始める共著者名とタイトルであることには、やはり違和感がある。それにしても、タイトルからすれば、栗林農夫(一石路)とかが書きそうなのに、なぜ臼田亜浪、飯田蛇骨、富安風生、水原秋桜子の四人なのだろう。 

さらに、広告類が一切なく、奥付の次から裏の見返しまで四枚がまるまる白紙であることも変な感じである。しかも、頁をめくると、「俳句研究編集部」名による、昭和二十年八月二十日の日付(写真参照・クリックすると大きくなります)のある、敗戦(ポツダム宣言受諾)を受けてという体裁の序文があり、「本書は、俳句を通して勤労、勤勉の精神を身につけるべく、働くよろこび、ものをつくるたのしさをうたつた作品を集め、これに現代大家の鑑賞的批評を乞うたものである」云々とあって、要は戦に負けてこの国は大変なことになった。そこで、勤勉にならにゃいかんが、俳句でも勤労意欲を増進させよう、というコンセプト(写真参照)。初見、なんじゃこの本は、という感じだったのである。

  ●


昭和二十年八月二十日の日付のある編集部名による序文は、おそらく編集代表の伊東月草の手によるものと思う。この、玉音放送からわずか五日しかたたないで書かれたことになっている序文と、集中の臼田亜浪の「付記」中の「皇紀二千六百五年十月一日校正に際して」から、非常に短期間にまとめられ、翌年三月には出版の運びとなっていると推定される。平時である現在の出版の状況を見ても、これらの日付がどの程度正しいのかは定かでない。むしろ、日付にこめられた意味の方がポイントかも知れない。例えば、同じ目黒書店から出ている大野林火の句集「早桃」は、昭和二十一年八月十五日発行である。その日に込めた思いがあるのは明らかだろう。ちなみに二十年八月二十日は灯火管制が解除された日らしい。

編集代表が伊東月草であるとき、著者がなぜこの四人なのかを考えると、戦時中の状況が顔を出す。伊東月草は角川源義の師でもあり、芭蕉の研究などでも名をなす学者肌の俳人であるけれども、国士的に頭でっかちな資質があったらしく、大政翼賛の動きに乗って全国の俳句結社に働きかけ、もろもろ悪名の高い小野蕪子とともに「日本俳句作家協会」を起ち上げている(楠本憲吉は「バスに乗り遅れないようにと、月草が取った時局順応の処置」とやや擁護を感じる物言いをしている。「昭和俳句史 上」『俳句講座』明治書院)。

これがのちに「文学報国会」の「俳句支部」となるが、その部会長には当然の如く虚子が座り、代表理事に秋桜子、幹事長に風生、常任理事に月草、幹事に蛇笏、亜浪らが名を連ねていた。つまり、戦後出た本ではあるが、戦前の月草の意志働きかけの延長線上にこの本は成ったとみてよいだろう。さらに後年、同書店からでた『句作の道』(二巻 昭和二十五年)でも、彼らは主要執筆者として活躍している。

冒頭、広告類が一切なく、奥付の次から裏の見返しまで四枚がまるまる白紙であると書いた。結論から言えばその理由はまだよくわからない。この時期の出版物がすべてそうであった訳ではないだろうが、「俳句研究」をだしていた改造社は、戦時中当局ににらまれ、横浜事件などの弾圧を受けて解散させられてもいたので、その関連があるかも知れない。

印刷は「改造」と同じ秀英社(大日本印刷の前身)であった。この時期、紙も不足し、その確保の困難を乗り越えるのは大変だったはずであり、さらにこの間にやってきたGHQの検閲もパスした上での出版で、これは容易なことではなかっただろうと思われる。鈴木六林男も「証言・昭和の俳句 上」で、戦後のGHQの検閲のことから語り始めるが、関西は事後検閲だが関東は事前検閲だったとも言う。

このあたりの経緯の資料は少なく、GHQの検閲を研究した江藤淳の労作『閉ざされた言語空間』(文春文庫)でも、今ひとつよくわからないのだが、GHQの資料には削除または掲載禁止の対象の指針を定めた検閲方針リストがあって、江藤は「古来日本人の心にはぐくまれて来た伝統的な価値の体系の、徹底的な組み替え」が意図されている、と指摘している。江藤の指摘する視点は、今日的にも非常に重要であるが、彼の論法を真に受けて敷衍すると、とても生ぐさい戦後があらわれる。しかしそれは、この本の内容と微妙な齟齬が感じられるのである。

閑話休題。以上のように、出版の経緯など縷々述べると、いささかあやしい書物っぽいのであるが、内容は非常に堅実な選集である。目次は、「初富士」水原秋桜子、「さわやかに」富安風生、「高原の秋風」飯田蛇笏、「農魂と工魂と」臼田亜浪。一句一句に鑑賞がつき、章末に選者の自作が五,六句載っているが、風生はそれを載せない代わりに冒頭で一文を書き、月草のやや頭の中優先のコンセプトに対し、「生活人の俳句に直接工場生活を詠つたもののみ強要するのは少し無理である。工場人にとつて激しい勤労が生活の現実であると同時に、激労の間のほつとした僅かの憩ひに、工場の庭隅の一木一草に日本人らしい心やりをもつ」等々と至極まっとうな批判を書いており面白い。以下、各々から恣意に句を引く。

「初富士」
初富士や工都の煙いくすぢも      矢島年秋
枯野みち四方ゆあつまり船作り     篠田悌二郎
みのを着て学徒なりけり田を植うる   大月九合草
刈り終へて一隊の乙女稲架を組む    齋藤栄一郎
箱根疎開学園
蒲団干す子等のたのしも照紅葉     小林広子

「さわやかに」
さわやかに機械は鐵を截りはじむ    鈴木莞爾
肥桶をきれいに洗ひ草紅葉       井手陶泉子
末弟を弟子とし夜なべ忙しく      立花大生
昼は山夜はつぎはぎの母の冬      山添斗汐
電休日は俳句を作る石蕗の花      久保太一

「高原の秋風」
大野ヶ原共同開墾
高原の秋風にのる呼子笛        大須賀秀子
麦打の調子揃へば唄ひけり       福間吐史
稲車頭うづめて押しきたる       木下慈杖
風つよき石狩の野に耕馬出づ      比良暮雪
耕牛をはげますこゑの稚き       迫 牛彦

「農魂と工魂と」
鍬祭る日を昏々と土ねむる       大石石佛
窓よりの初日旋盤つかふ手に      石坂春水
土曳きの橇舐るよに人かがめり     佐野良太 
片影にこぼれし塩の点々たり      大野林火
短日の虹へ工門押され出づ       藤田洲明

このように、一部有名俳人の作品があるものの、作者のほとんどは、おそらく当時の各選者の結社内の関係者で、今や無名の俳人達である。戦後すぐの出版だからといって、あらためて戦後に俳句を集められようはずもなく、多くは戦前戦中に詠まれた作と思われる。いわば、銃後の作である。そのなかから「勤労」にまつわる句を選んだものであり、しかも、鑑賞文には時折戦時体制を感じさせるくだりもあって、GHQの検閲によくひっかからなかったと思う。同時に、戦時下では戦時下で、戦争の影など微塵もない、穏やかに働く風景など、かえって公刊がはばかられたかもしれないような作品も含まれ、ごくごく普通の、もはや失われた原風景としての近代日本の日常の営みを読むことができる作品集となっている。

(本稿引用中の一部は旧漢字をあらためていることをお断りする)



2008-01-27

俳句の断片的データベースあるいは大衆化する俳句 橋本直

近代俳句の周縁 3   俳句の断片的データベースあるいは大衆化する俳句
 ~松本仁編・巌谷小波校閲『俳句表現辭典』
(昭和6年)  


橋本 直




以前、週刊俳句で「十二音技法」なるものが問題にされたことがあったと記憶する(*1)。無責任ながら、その顚末は把握しないで書いているけれど、仮にいろいろ問題を抱えるとしても、俳句の初学者にとって、十二音の「詩的」なフレーズと、季語を中心とする五音との組み合わせによって俳句をつくるというやり方、いわば、拘束的な変則の取り合わせ作句法とでもいうようなものは、たぶん有効でとっつきやすい作句の方法だろう。

例えば、学校で学生・生徒が俳句を詠む場合。これまで何度か授業や講義で教え、また、全国から寄せられた学生の俳句を審査する機会を得た中で見聞してきたのは、おそらく一般に想像されるよりもはるかに(というか恐るべき、というくらい)コンサバティブで、かつ、類型的な用語と発想の表現の数々である。若い人の自由な発想、というこれまた類型的な物言いは、俳句がのっかっている言語の領域においては、まるで無効であると思わざるをえない。

このことについての問題は教員の側にもあって、おそらく多くの学校では、国語の先生も俳句はよくわからないと思っているはずである。指導書に従って五七五定型と季語と切れ字くらいは教え、教科書所収の何句かを鑑賞し、作品詠ませ、たまに伊藤園の新俳句などに学校単位で応募するというところまでやったとしても、その学生や生徒の作品を何を以て良とするかの判断基準をもてている教員は少ないだろう。

学校によっては俳句をほとんど取り上げないところすらあるかもしれない。限られた条件の中で、学習者にできうる限り良い内容で俳句とは何かを理解してもらい、かつ、作品を鑑賞し、詠むこともするという中で行われる作句の指導の方法としては、冒頭の方法は、安直に見えるかも知れないが、やり方を絞り込む分、教えられる側だけでなく、教える側にも、俳句形式において日常の言葉を詩的に異化する面白さが見つけやすい、非常にわかりやすいやり方なのである。

もちろんそれは俳句のすべてではないし、俳句と言葉を弄ぶ行為につながる可能性をもち、やや大袈裟に言うなら、俳句の内部だけでなく、俳句の置かれた文化的状況の変容をまねく方法なのかもしれない。その正否を云々するのは、ナンセンスだと思うけれども。

やや前置きが長くなった。昭和の初頭、虚子が「花鳥諷詠」を言い始めてそんなに立っていない頃に、すでに俳句をフレーズの断片の組み合わせと認識し、その組み合わせで作句するための手引き書的な辞典が出ている。

松本仁編・巌谷小波校閲『俳句表現辭典』(昭和六年九月刊 立命館出版部)。

俳句を取り合わせでつくるという発想自体は、芭蕉も弟子に教えていたことで、近代に始まったことではないけれども、作家のオリジナリティにはうるさかったであろう近代において、他の俳人が生み出したフレーズを気軽に引用可能なものをつくってしまうこと自体、とても図々しくユニークな行為である。

この本、背表紙のみ「編」とあって、あとは扉やら奥付やら、すべて「著」者となっている松本氏は、いまのところ詳細未詳。冒頭の「凡例」の中で、「近代俳句にあらはれてゐる樞要缺くべからざる語句」を集めたものだと自負しており、記述に従えば、その数は二千三百語。例句は二千五百句で、山崎宗鑑から新傾向(今で言う自由律作家の句を含む)までを網羅している。

この「樞要缺くべからざる語句」は、別に「俳味極めて豊潤にして芸術的香気いや高き語句、及び、近代味豊かなる語句」とも書いてあり、要は人が詠んだ俳句の、気の利いたと著者が判断したと思われるフレーズを中心に、俳句で用いられた語をかき集めたものである。

したがって、歳時記の類と同じように「クリスマス」「厄落とし」などの語とその語義と例句が載っているかと思えば、「落莫な風景」(とんとこのごろ落莫な風景でステツキの散歩 風間直得)とか「やがてかなしき」(おもしろうてやがてかなしき鵜船かな 松尾芭蕉)のように、フレーズの恣意的抜き取りによる立項がなされている。

なかには分解した一句中の別々のフレーズを分けて載せ、その同じ例句をあげているものもある。これを批判的にみるなら、他人のふんどし(オリジナリティ)で相撲をとる、盗っ人猛々しい本というところか。好意的にいうなら、クリステヴァいうところのインターテクストとしての、俳句における表現の断片的データベース化の試み。

したがって、例えばこんな使い方ができる。あるページ(九四)を開くと、「ちゆしゆうや(仲秋や)」とあって、語義解説の後に例句「仲秋や院宣を待つ湖のほとり 高濱虚子」が載っている。同じページの他の語に、「除隊兵」とか「痴を尽くしけり」などがあって、そうすると、同じページの中の語だけでも、「仲秋や痴を尽くしける除隊兵」なんてそれっぽい合成作品をつくることができてしまう。これなら例えばご隠居のちょっとした寄り合いのような句会で、秒単位で作って自作として出すことができただろう。あるいは、あるフレーズをちょっとアレンジして、似て非なるものにすることもできただろう。また、ある俳人の詠んだ句のフレーズをこの辞書で引けば、先行する同じよう表現の用例がないかを確認する事もできただろう。

もちろん編者はそれらを、いや、それを目当てに本を買う者が数多くいることを狙っていただろうが、どの程度売れたかは不明である。図書館や古本屋であたってみた状況からみて、どうやらそんなに市中にでまわったものとは思えない。同時代の俳人達がこの本について何か反応したのかはわからないが、知ればまず眉をひそめたものだろう。

けれども、この本は、明確に俳句を詠む大衆のニーズを意識しているし、上記「十二音技法」にも通底するような、俳句のもつ特性を衝いてもいる。

ただ冒頭のうたい文句の通り、俳人の文学的な表現を集めようとしたものでありながら、そのオリジナリティを打ち消すような役目を果たす辞典でもあり、作句における個の快楽、いわば、「文学」としての俳句の快楽への志向がない。そしてそれは同時に、例えば今でもCMのコピーや流行歌が遊びですぐ替え歌にされていくように、地口・俗謡的な言葉遊びの欲求への志向を強く感じてしまうものでもある。

昭和一ケタの時代の俳句のすそ野あたりは、どのような世界であったろう。そのなかにこの本をぽんと置いてみると、なぜ昭和の頭にこの本が世に出たのかということは、案外奥が深いことなのかもしれないのである。


(*1)
「十二音技法」が俳句を滅ぼす(遠藤治)
「十二音技法が俳句を滅ぼす」への言及記事


2007-08-12

80年前の俳壇総覧 橋本直

近代俳句の周縁 2   80年前の俳壇総覧
 昭和四年刊改造社『現代日本文学全集38現代短歌集・現代俳句集』
  


橋本 直



改造社「現代日本文学全集」のシリーズは、「円本」の名で知られ、この手の企画本の原点といえる。ここでこまかく紹介するまでもなく日本の近代文学史いや文化史において重要で、これと岩波文庫が貧乏作家に富と名声をもたらした(とまでいうと大げさかも知れないが)らしい。この「円本」誕生の経緯などについては松岡正剛の千夜千冊「松原一枝『改造社と山本実彦』に面白いことが書いてあるので参照されたい。

さて、この第38巻は短歌と俳句で一冊である。計543頁。巻頭に明治天皇と昭憲皇太后の御製を入江為守筆で載せ、作家一人一人の肖像写真(ときどき画)が入り、章末には掲載作家の簡単なプロフィール一覧(「諸家略年譜」)が付けてある。巻末には短歌史を斎藤茂吉、俳諧史を高浜虚子が執筆し、この1冊で明治~大正の歌壇俳壇の代表作家をほぼ総覧できる体裁になっている。本稿では、作家作品の紹介ではなく、特に俳句側を中心に、その作られ方に焦点をあてたいと思う。

まず配列の方法について。先に書いたが短歌はそもそも冒頭の天皇の御製に始まるわけで、本編でもその流れで維新の功労者、御歌所派の歌人が並び、その後「浅香社」、「明星」、「スバル」の歌人等々が続いて、終わりのほうに「アララギ」の歌人がならぶ。すなわちほぼ文学史順とはいえ、「お偉い方々」を立てて、茂吉の内輪は後のほうに並べていることになる。

対して、俳句の配列は、まず旧派宗匠俳人が17人。次に「日本」「ホトトギス」関係俳人が85人。非ホトトギスの有季定型(「懸葵」「石楠」の大須賀乙字や臼田亜浪ら)10人。そして新傾向や自由律(「三昧」「層雲」「海紅」の碧梧桐、井泉水、一碧楼ら)33人。「秋声会」(巌谷小波、伊藤松宇ら)21人。文人俳人4人(万太郎、龍之介、三汀、犀星)となっている(ちなみに女性は4人しかでてこない)。俳壇史的流れに沿って冒頭には旧派宗匠がおいてあるものの、後はあくまで有季定型派が先で無季自由律派は後まわし。さらに秋声会や小説家のような趣味派?は最後にまわされてしまっている。いたって「ホトトギス」中心的で素っ気ない。そのころの短歌と俳句の有り様と、茂吉と虚子の歌壇俳壇における態度を反映しているようにもみえる。

さらに「ホトトギス」の中の配列を細かく見ると、子規の後に鳴雪がくるのはわかるとしても、その後が松浦為王、峯青嵐、渡辺水巴、庄司瓦全、虚子、西山泊雲、野村泊月、岩城躑躅……と並び、現在著名かどうかはおくとしても、年月日順でも、アイウエオ順でもない。子規以来の古参をたてた順かとみれば、阪本四方太や藤野古白、新海非風とかは後に出て来て、漱石や東洋城にいたっては最も後方である。初期ホトトギスは会員同人制ではなかったから、同人になった順も無理があるだろうし、この配列方法はちょっと謎である。なんらかの論功行賞のようなものだったであろうか。

次にページ割りについて。1人あたりのページ割りは、短歌俳句とも1ページから最大で3ページまでなのだが、3ページあるのは、短歌では落合直文、与謝野夫婦、白秋、啄木ら大御所や著名作家で、23名いる。それに対して、俳句はたった4人しかいない。すなわち、内藤鳴雪、正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐のみ。この4人だけが別格と言うことになる。2ページある作家も、村上鬼城、松瀬青々、石井露月、青木月斗、矢田挿雲、夏目漱石、松根東洋城、大谷句仏、大須賀乙字、臼田亜浪、荻原井泉水の11名しかいない。人数的にはずいぶんアンバランスで、いま名高い作家達も、ほとんど1ページしか与えられていない。このページ割りを意地悪く見れば、「載らない作家」→「1ページ作家」→「2ページ作家」→「3ページ作家」で俳壇の権威のヒエラルキー構造を構成図示したとも見える。さて、それはどこまで既にあるものをなぞったものか、この本で新しく生まれたものか。特に後者はなかなかに興味深い。

ところで、巻末の短歌史と俳諧史であるが、冒頭、明治天皇と昭憲皇太后の歌を入江為守が書いたものが載っている以上は、斎藤茂吉の短歌の解説「明治大正短歌史概観」はこの2人から始まらざるをえないのだが、茂吉はこの短歌史を実に68ページも書いている。レイアウトが21字×24行×3段だから、単純計算で400字詰めで約260枚ほどにもなる。今時の新書にすれば、内容のうすいものなら一冊分くらいには相当しよう。

一方、虚子の手による「明治大正俳諧史概観」はたったの8ページ。これもまたえらくアンバランスである。本のタイトルが「現代俳句集」なのに「俳諧史」と書くところもまたアンバランスだ。短歌と違い皇室がらみの記事になるかならないかによる配慮の差があるとはいえ、この圧倒的な分量の差は、それだけでは説明がつかない。虚子は書くのを露骨にいやがっている。冒頭部で自分はこんなものを書くのは適任でなく、改造社がどうしても書けというから書くが、子規より後のことは「ホトトギス」を出ていった連中や外の派のことはさっぱり知らないので「名前を列記するだけでも、『ホトトギス』一派のみ詳しくならうとする傾きがある。私は努めてこれを避けたいと思つたが、しかし尚遂にその譏りを免かれ得ないであらう」とちゃっかり書いている。茂吉の大変丹念な仕事ぶりにくらべ、このような、人を食った書きようは、いかにも虚子らしい。

最後に、選び方について。この「現代日本文学全集」所収の俳人は、どういう基準で選ばれたのであろうか。おそらくは各有力俳人の推薦を編集部で集め、虚子が正否を決めたのではないかと思われる。というのは、ある子規直系の俳人を調査中、その人物の運営していた雑誌の記事で、井泉水が自分を「現代日本文学全集」に載るよう推薦してくれて喜んでいたのだが、結局載らなかったので納得がいかず、不掲載の理由を改造社の編集部に直接尋ねたところ、ある大家に反対されたからだと言われたと書いてあった。名前は伏せてあるが、井泉水の意向を蹴る権限のある「大家」となれば、まず虚子だろう。先に「この一冊で明治~大正の歌壇俳壇の代表作家をほぼ総覧できる」と書いたが、あくまで「ほぼ」であって、作品の優劣ではなく落とされた作家は少なくないと想像する。

上記のように、文学全集の中に俳句をいれると、作り方はえらく権威主義的になったようである。この円本の後、戦後も各社が「○○文学全集」の類を続々出したが、いまや図書館と書斎の置物と化しているか、古本屋の店先の1冊100円のコーナーに売れないでずっとおいてある。もはや、このような企画が世に出ることは考えにくい。が、もし、昭和~平成の俳壇の代表作家を総覧できる選集ができるとすれば、どのような方法がふさわしいだろうか。また、現在までの俳壇史の流れをどうまとめたものだろうか。

2007-05-20

〈豊かな時代〉の網羅主義 橋本 直

近代俳句の周縁 1   〈豊かな時代〉の網羅主義 昭和八年刊改造社『俳諧歳時記』  

橋本 直



私は生まれる前のことなので、実感としてはわからないのであるが、高度成長期より前の暮らしは、戦前のそれとそう大差はなかったそうだ。例えば戦後復興のスローガンの一つは、経済が安定していた「昭和八年に帰ろう」であったという『「月給百円サラリーマン」―戦前日本の「平和」な生活』講談社現代新書

高度成長期までの暮らしが大差ないのなら、おそらくは戦後の高度成長期以前の歳時・歳事に対する認識も、戦争や植民地等にかかわる部分を除いて、それ以前とそう変化はなかったであろう。このことは近代の俳句の展開を支えたものを考えるにあたって軽視できない。

さて、その高度成長以前の理想の世であった昭和八年に、改造社から『俳諧歳時記』が出ている。それ以前の俳句歳時記と一線を画し、百科事典的といっていい質と量の季語とその古書校注や季題解説、近世以来の例句が多く載せられている。各巻の項目や執筆者は以下の通り。

夏(6月29日印刷・7月3日発行)1387項目
 季題解説・実作注意・例句担当 青木月斗、古書校注 藤村 作 
秋(9月9日印刷・9月13日発行)963項目
 季題解説・実作注意・例句担当 松瀬青々、古書校注 潁原退蔵  
冬(10月18日印刷・10月22日発行)789項目
 季題解説・実作注意・例句担当 高浜虚子、古書校注 志田義秀  
春(11月16日印刷・11月20日発行)863項目
 季題解説・実作注意・例句担当 高濱虚子、古書校注 藤井乙男
新年(12月16日印刷・12月20日発行)828項目
 季題解説・実作注意・例句担当 大谷句佛、古書校注 笹川臨風

※季題項目総数4830。項目数は単純に目次の項目数合計である。なお、戦後版はこの数ではない。
※虚子編に限って、巻頭に地方季語の執筆担当者(例えば九州に杉田久女)や虚子らの担当した項目数が書いてある。それによれば冬は692項目、春は778項目とあり、単純に目次上の項目数を数えると数が合わない。

各巻共通の参考執筆者
 時候・天文 国富信一(明治25~昭和39。気象学)
 人事    武田祐吉(明治19~昭和33。万葉学)
 宗教    山本信哉(明治6~昭和19。神道史学)
 動物    寺尾新(明治20~没年未詳。動物学)
 植物    牧野富太郎(ウィキペディアの項目を参照されたい。

この総花的方式の歳時記の系譜は後、高度成長期の角川『図説大歳時記』(昭39~40)が出版されるまで唯一のものといっていい。最近角川はその後釜の歳時記を出したが、さて、このような百科事典的俳句歳時記のありかたは、果たして正しかったのか?

当時の流行思潮である「改造」をそのまま社名にした出版社が意図したものは、おそらく従来の俳句歳時記の「改造」であり、それはそれ以前とくらべ画期的であったという一点で半ば成功しているが、とにかく多少なりとも季節感のある言葉を集めまくったものが分厚い「歳時記」となって俳句にもたらされたことの功罪は、一度きちんと検証すべき問題である。

一つ思うことは、この仕事をした後の高濱虚子が、翌年すぐさま『新歳時記』(三省堂。初版昭和9年11月15日)を出している、ということについてである。一応組織の総力を動員して各項目の執筆などしたものの、虚子は『俳諧歳時記』が気に入らなかったのではないか。

例えば『新歳時記』の「序」の冒頭は、「一言にしていへば文学的な作句本意の歳時記を作るのが目的であつたのである」と書き出され、すぐに「季題の取捨」という項目が立ち「既刊の歳時記を見るに唯集むることが目的で撰澤というといふことに意が注いでなく」云々、と書かれている。これは前年にでた改造社の歳時記に対して、それが虚子の目から見れば「文学的」ではないことのあてつけではなかったか。

『新歳時記』を編むにあたり、虚子には季語を辞書的に網羅するような本を作ったことへの彼なりの反省と、ただ季節感のある言葉と文学としての「季題」との差異を明確にしようとする意図があったわけだ。

この推測が当たっていれば、二種類の歳時記を比較することで、虚子の文学としての「季題」と虚子にとって文学的ではない、ただ季節感のある言葉を峻別することが可能になる。それはまた、何が虚子俳句にとって「文学」的だったかを見極める可能性を示す。

最後に、『俳諧歳時記』に対して虚子のもった違和感についてである。70年ばかり時の過ぎた現在から見て、歳時記の質次第で俳句は相対的に変容したと言えるかどうか。検証するのは困難だが、面白い問題である。

現時点において、季語が多すぎることが作句の妨げになっていると感じているのは、多分私だけではないだろう。たぶん俳句は「変容」したのであり、そのきっかけの一つは、この『俳諧歳時記』だったのではないか。なお、この本には戦前版と戦後版で異なる点が幾つかあるが、それついてはいずれ書きたいと思う。